明日につなぎたい

老いのときめき

こんな日もあったが沈黙しない

2019-10-30 15:21:37 | 日記

 10月27日の夜から胃袋の調子が良くない。晩酌も食事も自重というより、口にする気が起こらない。入浴後すぐに寝床に入るが、なかなか寝つけない。明け方にちょっと眠ったくらいか。28日を迎えたが、朝のパンもコ―ヒーも中止。来月はじめの予定の会合で依頼されているレクのために、資料となる文献を取り出して眼を通す。昼食も夕食も取らず。普段より長く感じる辛い一日だった。29日は定期の診察日、自転車を使わず、地下鉄で病院に行った。主治医の先生に現状を聞いてもらったあとは雑談。腹の調子も快方に向かう。夜、よく眠れた。

 

 30日の今日、体調は回復しているようだ。パソコンを開けた。我がブログは10日間の空白になっている。この沈黙の間、天皇即位でのマスコミの過剰報道とか、関西電力が原発受け入れを狙う元助役(故人)からカネを送られていたとか、菅原経産相がカネ疑惑で辞任したとか「ネタ」は尽きなかった。「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」。戦国時代の石川五右衛門が謳った科白だそうだが、私の脳裏にそれが浮かんだ。カネ疑惑の政治家たちを盗人扱いにする極論は控えるが、その故事くらい知っていてもよかろうと思った。マスコミ関係者もだ。

 

 私は、いま『沈黙のひと』(小池真理子・文春文庫)という小説を読んでいる。沈黙する人は、病んで物言えぬ父のことである。書をよく読み、歌を詠み、老いて、なお、ワ―プロを駆使していた父への尊敬と愛情が溢れている。父は学徒出陣の体験者だが、それを沈黙している。しかし「プ―シュキンを隠し持ちたる学徒兵を見逃せし中尉の瞳を忘れず」と詠んでいる。私とほぼ同年代の人だが、汚濁にまみれた政治に触れる場面は皆無である。私は安倍政権勢力の連中に言いたいと思った。「沈黙する人は怖いぞ」と。私は沈黙する人にはならないで言い続ける人の一人だが。


元号の意味

2019-10-20 16:08:36 | 日記

 最近のブログ、私の「老い」に関わる記事が多いようで恐縮しているが、今日もまた、懲りずに繰り返すことになる。私に会った友人たちが「長生きしいくださいね」と言ってくれる。それで私の周りを見つめた。私の先輩はおろか、同僚、仲間で90歳を超えた人がいない。ほとんど70,80歳代で亡くなっているのだ。「せめて、あんただけは」と期待されているのだろうか。照れくさくて、面映ゆいことだが、ある人のメ―ルは、私を指して「高齢者の星」とまで持ち上げてくれている。そんなに評されること、何もしていないのに。身がちじむ思いだ。

 

 私は、20世紀前半の1926年(大正15年)10月に生まれて、この世紀を過ごし、21世紀・2019年の今日まで生きている。私への善意の、過分の賛辞だろうが「昭和・平成を駆けぬけてこられた方」と言ってくれる人もいる。元号は天皇が代わるごとに変えられる称号(名前)である。時代区分にこれを用いるのは不合理な事柄なのだが、日本人が長く馴染んできたことだ。「昭和・平成を駆けぬけた」といわれても気に障ることはない。私の人生を好意で見てくれていると、感謝の心で、この言葉を噛みしめている。

 

 世紀とは「西暦で100年区切り」の時代のこととされる。時代とは「区切られた一定の長い期間」のことである。元号は、天皇の在位期間を示す称号(名前)のことであって、時代区分に使うべきものではない。明治、大正、昭和、平成と続いた、そして令和、これらは元号(称号・名前)が代わっただけで、時代が変わったことを意味するものではない。元号で時代を区分するなど、全く不合理なことである。だが、人には夫々の好みがある。明治時代とか昭和時代とか、言っても何ということはない。ご自由である。私の文章でも元号を使ったこと少なくない。


昭和・平成を駆けた男(2)

2019-10-18 16:51:06 | 日記

 先日の「昭和・平成を駆けた男」は、序章のようなものになってしまった。太平洋戦争に突入した昭和16年までしか書けていない。いくら短文でも、書いたのが運の尽きだ。もう少し語らねばならぬ破目に陥ってしまった。自業自得だ。戦争の実相は「勝った、勝った」の大本営発表とは真逆で、悪戦苦闘だったが、そんなこと知る由もなかった。20年1月、満18歳で徴兵検査、以前なら丙種で兵役免除になる貧弱なものも、第2、第3乙種にランクされ、兵士にされる。輸送船が撃沈されて多くの若者が死んだ。私は第2乙種、当時の仕事の関係で兵役を免れ命拾いした。

 この時期は戦時統制経済とかで、食糧はじめ必需物資は配給制。米は1日、2・3合。空腹の毎日だった。第2乙種の私も召集令状がくるのは9月らしい、この情報を役所の人から聞いたのは戦後だった安保闘争。戦争は昭和20年で終わった。日本降伏で大泣きした人がいたらしいが、何故か、私は一滴の涙も出なかった。戦前、東大、京大生らが反戦の運動をやったという先輩の話を聞いたり、巷に出はじめたアカハタや左翼文献を見て、眼の鱗(うろこ)がとれた。「あの戦争って何だったのか」「誰がしかけたのか」「唯物論て何や」。私にも新しい世界が見えだした。昭和を駆けぬくスタ―トだった。

 戦争は終わったが腹ペコは続いた。東京のメ―デ―で「朕はたらふく食っている。汝臣民飢えて死ね」とかのプラカ―ドが現れた。それが不敬罪だと騒がれる。「今頃なんや」。私は友人たちと一緒にせせら笑った。敗戦直後の日本は大荒れだった。日本を占領した戦勝国・アメリカの支配に、無条件に屈する。本音ではないが「仕方ない」。国民の気分はそのようだった。日本の支配者だった軍指導部は後景に退いたが、新しい外国の支配者が現れた。日本を属国にするのは、降伏条件・ボツダム宣言に違反している。昭和の後期は「安保闘争」など民族主権をかけた攻防戦の色彩濃厚だったような気がする。

 昭和の政変ともいうべき新事態が起こった。昭和40年代、革新自治体の登場である。地方レベルとはいえ、自民党政治に代わる新しい政治の実現だった。京都、東京、大阪・・・革新自治体が続々。医療、福祉、公害・環境対策などが大きく改善された。この新しい政治をめざして駆けぬいた人々、数えきれぬほどではなかったか。不肖・私もその中の一人だった。昭和というより、1970年代の輝きを実感した。天皇が死去し、昭和の元号は60年余で終わり、平成になった。時代が変わったのではない。元号が代わっただけである。今は令和。残念ながら、対米追随・大資本中心の政治が、まだ続いている。

 

 


昭和・平成を駆けた男(2)

2019-10-16 15:13:33 | 日記

 これまでの「昭和・平成を駆けた男」は、序章のようなものになってしまった。太平洋戦争に突入した昭和16年までしか書けていない。いくら短文でも、書いたのが運の尽きだ。もう少し語らねばならぬ破目に陥ってしまった。自業自得だ。戦争の実相は「勝った、勝った」の大本営発表とは真逆で、悪戦苦闘だったが、そんなこと知る由もなかった。20年1月、満18歳で徴兵検査、以前なら丙種で兵役免除になるものも、第2、第3乙種にランクされ、召集される。輸送船が撃沈され死んだ。私は第2乙種、仕事の関係で召集を免れ命拾いした。

 この時期は戦時経済とかで、食糧はじめ必需物資は配給制。米は1日、2・3合。空腹の毎日だった。第2乙種の私も召集されるのは時間の問題だった。この情報を戦後に聞いた。戦争は昭和20年8月で終わった。日本降伏で大泣きした人ありと聞いたが、何故か、私は一滴の涙も出なかった。戦前、東大、京大などで反戦の学生運動をやったという先輩の話を聞いたり、街に出始めたアカハタや左翼文献を見て、眼の鱗(うろこ)がはずれた。「あの戦争って何だったのか」「誰がやったのや」「唯物論て何や」。私にも新しい世界が見えだした。昭和を駆けぬくスタ―トだった。

 戦争は終わったが空腹は続いた。東京のメ―デ―で「朕はたらふく食っている。汝 臣民飢えて死ね」とかのプラカ―ドが現れた。それが不敬罪だと騒がれる。「今頃、なに言うとるねん」。私は友人たちと一緒にせせら笑った。敗戦直後の日本は大荒れだった。日本を占領した戦勝国・アメリカの支配に無条件に屈する。本音ではないが「仕方ない」。国民の気分はそのようだった。日本の支配者だった軍指導部は後景に退いたが、新しい外国の支配者が現れた。日本を属国扱いにするのは、降伏条件・ポツダム宣言の主旨に違反している。昭和の後期は、安保反対闘争など、民族主権をかけた攻防戦の色彩が濃厚だったような気がする。

 昭和の政変ともいうべき新事態が起こった。昭和40年代、革新自治体の登場である。地方レベルとはいえ、自民党政治に代わる新しい政治の実現だった。京都、東京、大阪・・・革新自治体が続々。医療、福祉、公害・環境対策などが大きく改善された。この新しい政治の実現めざして駆けぬいた人々、数え切れぬほどではなかったか。不肖、私もその中の一人であった。昭和というより、1970年代の輝きを実感した。天皇が死去し、昭和の元号は60余年で終わり、平成になった。時代が変わったのではない。元号が代わっただけである。今は令和。残念ながら、対米従属、大資本中心の政治が、まだ続いている。


昭和・平成を駆けた男

2019-10-15 15:56:35 | 日記

 「昭和、平成を駆け抜けてこられた方」。ある知人から私に冠せられた文言である。振り返ると、たしかに「駆け抜けた想い」は、私や同世代の人たちの記憶にある。但し、そう思えるのは、敗戦の昭和20年以降からだろう。しかし、次元はどうあれ、それまでも駆けた思い出はある。小学校5,6年生の頃だった。親から5銭か10銭もらって、自宅のある三国(阪急宝塚線)から十三の映画館(活動写真館)まで、自転車で息を切らせて駆けた。目当てはチャンバラ映画だが、必ずニュ―スで「皇軍」の中国進撃を見せられた。

 昭和10年頃、血なまぐさい、軍部によるテロ、ク―デタ―事件を知った。中身はチンプンカンプンだが、新聞の大見出しくらいは読めるようになっていた。相沢中佐の永田中将刺殺事件、2・26ク―デタ―など「一体、何やねん」のような感じでニュ―スに接した。昭和6,7年、日本陸軍が上海事変、満州事変を起こした。後に一大悲劇をもたらす予兆だったのに、当時は知る由もなし。「天に代わりて不義を討つ」「勝ってくるぞと勇ましく」「見よ東海の空あけて」。大口あけて行列の中にいたことを覚えている。何じゃこれ、いま苦笑いしている。

 昭和15年「紀元は2600年」の、でたらめ大キャンペーン(今、西暦2019年)。翌16年、日本海空軍が真珠湾奇襲、が太平洋戦争に突入した。殆どの日本人が万歳を叫んだ。私は当時、夜間中学生。なぜか、それほど熱狂した覚えがない。高学年になると予科練、幹部候補生志願の資格が生じる。あこがれなかったというとウソになる。そこに入ればメシが食える、格好もいい。国家のため、そんな崇高な精神ではなかった。反戦でも好戦でもない、自己中の人間だったのだろうか。軍事教練の教官には度々ピンタを喰わされた。兄の「出征」に際し、家族が歌ったのは「誰か故郷を想わざる」だった、父は結核と栄養失調で死んでいた。

 中学校の若い国語教師の授業が面白かった。教科書そっちのけで、明治、大正、昭和の小説家をあげて、持論を展開する。話しているうちに興奮するのだろう。文豪もこの先生にかかったら形無しだ。それに刺激されて、古本屋、貸本屋に足を運び、全集ものを買ったり、借りたりして読みふけった。何の娯楽らしいものもない、戦争たけなわの時代だったが、あの先生の「文学論」に接したお陰で、かなりの読書欲が身についたような気がしている。この先生、文学で昭和を駆けていたのではないか。そんな想いがしてならない。