明日につなぎたい

老いのときめき

いのち短し

2020-07-28 13:45:04 | いのち短し

 93歳の私、これからどれだけ生きるのか、誰も分からないだろう。日本人の統計数字として”平均年齢”なるものがあるそうだが、それは優に超えているらしい。数日前のテレビ・音楽番組で、懐かしい「ゴンドラの歌」という曲が流されていた。出だしが「いのち短し」である。歌っていたのは女性歌手、男性が歌うものだと勝手に思い込んでいたので、いささか、へぇっと思った。これにはワケがある。戦後何年頃か、かなり「昔」のことだが、未だ私の脳裏に残っている映画を思い出したのだ。タイトルは確か『生きる』ではなかったか。監督・黒澤 明。主演は、志村 喬、数多くの映画に欠かせぬ名脇役として出ていた男優である。この人が劇中歌として「ゴンドラの唄」を歌っていた。老いたる男の哀歓が滲み出ていた。

 

 映画に出てくるこの人は、余生少なき病める老人だった。あと、どこまで生きるのか、それを想いながら、夜の公園でブランコの揺れに合わせて「ゴンドラの歌」(いのち短し・・・)を歌った。隣のブランコには20歳前らしい、愛くるしい少女がいた。老人の胸には、この少女への淡い思慕の念が生まれていた。図らずも訪れた、束の間、一瞬の青春だったのだろうか。自らが未だ生きていることを自覚する証だったのかもしれない。それは現代の老人にも通じる哀歓なのだろう。「いのち短し恋せよ乙女・・・」にはじまる「ゴンドラの唄」が、戦争で生死の境を彷徨った、当時の若者の愛唱歌になったのも故あることではなかろうか。

 

 あと、どれだけ生きるか分からぬと書いた私だが、年齢からすれば人生の終末に近づいていることは間違いない。「いのち短し」の世代である。しかし、正直なところ、その実感が湧いてこない。今なお、見たい、聞きたい、知りたいことか一杯ある。年甲斐もなく、パソコンにしがみついているのも、それがあるからだろう。私はどんな年寄りなのだろう。しみじみと人生の哀歓に浸ってもいいはずなのに。もう70年も前の映画『生きる』を、かすかでも覚えている私は丈夫な男なのかもしれない。だが、人の心のうつろいを感じぬ、乾いた人間にはなりたくないと自戒している。暗い、湿っぽい男にもなりたくない。残り少ない命を大切に、自問自答している毎日である。