明日につなぎたい

老いのときめき

おひとり様

2016-08-29 20:44:58 | 日記

 

 妻の入院で、臨時の「おひとりさま」になっている。今日で4日目になる。そんなに物を買いこんだはずではないのに、結構ゴミが溜まっている。今朝の一番の仕事はこれの始末だった。ゴミは3種類、普通ごみ、プラスチック製品、ペットポトル・空き缶類である。それらを入れたポリ袋を下げて集積所まで運ぶ。専門の係りが2名いる。曜日によって廊下に出しておけば持っていってくれる。このマンションに来て30年を越すが、廊下や敷地内でゴミが散乱している状態を見たことはない。有り難いことだ。

 

 横着で不器用な私である。自炊に手が出ない。やむを得ず、ス―パ―やコンビニで”既製品”を買って口にするが、正直なところ美味いと思ったものはない。贅沢な種族だといわれるかもしれない。月額10万円にも満たない年金で、身を切るように暮らしている「お一人様」もいるのだ。役所に生活保護を申し出たら、マンションを自宅にしている者に受給資格はないと門前払いだったという。それは過去のことで現実は悲惨なのに。年寄りは若いときと違って働けないのである。身寄りもいないそうである。あゝ無情と嘆くしかないのか。

 

 ”独り暮らし”のお陰で、日常生活の現実を体験した。正直に言えば分からないことが多すぎる。いい歳なのに”世間知らず”の我が身を恥じるしかない。毎日の食事も自分で考え、行動しなければ得られないのである。厳しい。しかし、これも新しい体験だ、前向きになれ、自分に言い聞かせている。細々と暮らす高齢者の切なさも、今までより深く理解できる機会にもなったようだ。しかし、私は幸せ者である。「お一人で大変でしょう」と気遣ってくれる人たちに囲まれている。こんな格好いいことを書きながら、一日も早い妻の退院を待ちわびている。

 


乳母車から車椅子へ

2016-08-25 12:02:54 | 日記

 妻の送迎に乳母車をと言いかけたら「ムチャいうな」と長男から一喝された。近所の人から車椅子を借りてくれた。長男が押して整形医院へ行く。患者の多いのにびっくりした。あれこれの問診、検査、治療など、さすが専門医院だと感心した。帰り道は相変わらずの酷暑、炎天下。「オレもちょっとやってみるわ」と車椅子を押してみる。思うほどラクではない。傍からは危なっかしく見えたようだ。すぐ代えられた。この日の夜にあった<介護の学習会>で「しんどかったわ」と言って大笑いされた。笑った人たちは介護のプロである。

 

 妻は、少しは歩けるようになった。やれやれと思っていたら、病院から白内障の術後の検査にくるように電話が入る。それに応じてタクシ―でその病院へ行く。午後の暑い真っ最中だ。疲れた。長女が常時使える車椅子を工面して届けてくれた。近くに子や孫がいる有難さが身に沁みた。介護保険制度によるヘルパ―の支援が話題になった。来てほしいのは今すぐだが、医師の認定から役所の手続きなどで、認可が下りるのは何日もかかるそうだ。高い保険料を払っているのに、いざというとき役立たない制度か!?義憤めいた気分になった。

 

 娘が知り合いのヘルパ―さんに直接連絡してくれて、24日から頼めることになった途端、妻が発熱、体調悪くキャンセル。熱はいっこうに治まらない。私が介護?を続ける破目に。食事は手料理なし。殆ど、冷蔵庫にある賞味期限内の食品、ス―パ―、コンビニで買ってきた即席物だ。それでも食器洗い、ゴミ出しは絶対に欠かせない。結構、真面目にやっている。かくして、8月の半分近くはこんな生活になってしまっている。だが、これも人生の一頁として記録すべきことだと、自分に言い聞かせ、この記事を書き込んだ次第である。


人生・乳母車に頼って

2016-08-20 11:13:22 | 日記

 ブログ、1週間ご無沙汰した。それなりの事情があったからだ。8月初め、左眼白内障の手術を終えて退院した老妻は、16日から右眼の治療で再び入院した。私は何の役にも立たないのに、例によって3日間病院に通った。ある日は試運転のつもりで自転車を使った。炎天下でも走れば風を起こす。行きも帰りも快適だった。「危ないからやめとけ」と言った孫の顔が浮かんだ。そして、あるニュ―スも思い出した。皇居付近をサイクリング中に転倒、大怪我をした自民党幹事長のことだ。私よりかなり若いはずだが。

 

 想定外の事態が起こった。退院の日に妻が足が痛いと言い出した。診察室から看護師の腕にすがりついて、ゆっくり歩く姿を見た。廊下に取り付けてある柵を頼りに、そろりと伝い歩く姿を見た。痛々しい。深刻な歩行困難だ。顔が苦痛にゆがんでいる。まだ病院で視てもらっていないが、私の主観では、どうやら神経痛らしい。この日から買い物、ゴミ出しなどは私の仕事。溜まった新聞、雑誌類は相当に重い。週ごとに回収してくれるのだが、それを集積場所に運ぶのが大変。妻は孫が赤ん坊のときの乳母車に積んでいた。私もそうした。

 

 こんなプライベ―トなことを、なぜ記事にする気になったのか。今回の私たちの体験も、社会性のある問題だと思ったからである。老老介護は生きておれば例外なく迫ってくる必然である。身内が傍にいない貧しい独居老人、もっと重症の伴侶の介護に追われる老人夫妻、そういう家庭も少なくなくなかろう。そこにどれだけ行政の手が及んでいるだろうか。だが、老老介護も新しい人生の一頁なのだ。乳母車に妻を乗せよう。もうすぐ90歳を迎える私の初体験である。これも明日への挑戦だと思うことにした。たまたま、新聞を開いたら、介護保険利用料2倍化の記事が眼に飛び込んできた。


維新とは何だ

2016-08-13 14:48:21 | 日記

 

 病気で入院している友人を見舞った。久しぶりなので話がはずんだ。「維新」のことも話題になった。彼が言った「維新とは復古だ」。明治維新のことだ。はっとさせられた。成程、あのときは「大政奉還」「王政復古」が叫ばれ、そして実現した。帰宅してから『明治維新史研究講座』(全6巻・昭33)の第1巻を見直した。冒頭に「王政復古・・・天皇を唯一最高の君主とする中央集権国家をつくったのが明治維新だ」とある。維新とは必ずしも新しい変革を意味しない。元に戻るときにもその名が使われるのだ。

 

 ついでに「昭和維新」について調べた。1920年代から1930年代前半にかけて、軍部急進派や右翼団体が「昭和維新の実現」を唱え「吾は維新回天の捨て石にならん」と叫んで、ときの政府首脳を暗殺する5・15事件、2・26事件の引き金となった。維新とは「右からの変革」を主張する右翼の基本路線・スロ―ガンだったのである。やがて政治の主導権は軍部の手に移り、日本は軍国主義一色に染められ、無謀なアジア・太平洋戦争の泥沼にのめりこんでいく。昭和維新は、この悲劇に一役買っている。そんな存在だったのだ。

 

 今の「維新の会」が明治~昭和の、暗い維新の流れを汲んでいるとはいわない。しかし、かつての維新が新しい歴史の変革者どころか、歴史を逆行させる存在だった事くらいはわきまえるべきだろう。そんなこと、おかまいなしに平気で維新を名乗っているのだろうか。だとしたら、その神経を疑いたくなる。「維新の会」の”売り”は「既得権の打破」「身を切る改革」だそうだが、何か新しいことをしたのか、私は知らない。この党の理念、政策を見て成程と思ったのは、安全保障など基本はアベ自民党と一緒だということだった。改憲派でもある。


象徴でない ご自分の人生を

2016-08-10 16:36:22 | 日記

 

 生前退位の意向を表明していた天皇のテレビでの発言を視聴した。先ず感じたのは以下の部分である。「私は国事行為を行うと共に、日本国憲法で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました」「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の努めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」「高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことは、無理があろうと思われます」。

 

 天皇の国事行為と象徴の意味を、私も改めて模索させられるのである。憲法では「天皇は日本国・国民統合の象徴」とされている(第1条)。象徴とは抽象的な記号のことである。この曖昧な条文を上手く解説できる人に出会ったことはない。「読んで字の如しだ。王様でも大元帥でもない」という程度だ。天皇の国事行為は「内閣の助言と承認を必要とし、内閣が責任を負う」(第3条)となっている。象徴天皇が、なんで全身全霊を果たさねばならないのか。天皇の誠実な人柄の故なのか、誰かがそう思わせているのか、私には分からない。

 

 天皇の発言で感心させられたところがある。天皇の健康が深刻になり、さらに亡くなったとき、延々たる行事によって、社会が停滞し、国民の暮らしに影響が及ぶことを懸念すると言われるのである。昭和天皇のときがひどかった。脈拍、血圧、下血がどうとかこうとか、マスコミが騒がしかった。死去となると、テレビのドラマも音楽番組も自粛?して放送なし。市民はビデオ屋に走った。当時、皇太子だった天皇はそれを知っている。この気配りはえらいものだと思った。希望どおり退かれて「象徴ではない人生を」と思う次第である。