2月20日の「大阪多喜二祭」では、小林多喜二とともに山本宣冶(山宣)のデスマスクが展示されていた。私はこのブログで「山宣こそ理想の政治家だ」(09・9・27)と書いたことがあるが、81年目の”命日”が近づいている。偲びたいと思って、河上肇博士(1879-1946)の「自叙伝」(岩波文庫)に目を通した。第一巻に「同志山本宣冶凶刃に仆る」という章がある。そこに旧労農党代議士・山宣が1929年3月5日、右翼の黒田某に暗殺される顛末、山宣を讃える告別の辞、追悼演説などの詳細が記されている。
強い印象をもったのは、山宣の「悲壮の死」が「私を無産者運動の実践へと駆り立てた一つの有力な刺激となった」「労働者農民の真実の味方と、ただ口先だけで味方であるかの如く装っている社会民主主義者とを、大衆の前に明白に区別する」「同志山宣は科学者だった・・真実の科学は、大衆の福利を増進すること・・席の温まる遑(いとま)なきまでの活動をなすに至ったのは、彼の科学的良心が人並み勝れて鋭敏であった・・この事実の前に頭を下げる」などと語っている箇所であった。
河上博士が思想犯として小菅刑務所にいた頃、山宣を殺した黒田某と会うことを余儀なくされていたという。「こんな男に我が山本君はやられたのか」と思い、そして「この殺人犯人は、私の服役中、仮釈放の恩典に浴し、刑期半ばで出て行った」と述べている。故山田風太郎氏も書いている。「4月30日、予審が終結するとともに、30円の保釈金で釈放された。殺された山本は国賊と見なされ、殺した黒田某は愛国者と目されたのである(人間臨終図鑑・徳間文庫)。何という時代だったのだろう。
河上博士は戦争中に詩歌を詠んでいる。「・・われ敢て黎明の近きを疑わず 心は風なき春のあけぼの」。歴史の必然を信じていたのだろうか。終戦の日には「あなうれし とにもかくにも生きのびて 戦やめる今日の日にあふ」と詠んでいる。山田風太郎氏はいう。「日本の敗戦を心からよろこぶ権利を持つきわめて少数の日本人の一人であった」。少数であったかどうかはともかく、自由と平和のために闘ったがゆえに弾圧され命まで絶たれた、この先覚者たちこそが今日の日本の礎であったことを銘記すべきではなかろうか。