明日につなぎたい

老いのときめき

山宣と河上肇

2010-02-23 20:07:53 | 日記・エッセイ・コラム

 

 2月20日の「大阪多喜二祭」では、小林多喜二とともに山本宣冶(山宣)のデスマスクが展示されていた。私はこのブログで「山宣こそ理想の政治家だ」(09・9・27)と書いたことがあるが、81年目の”命日”が近づいている。偲びたいと思って、河上肇博士(1879-1946)の「自叙伝」(岩波文庫)に目を通した。第一巻に「同志山本宣冶凶刃に仆る」という章がある。そこに旧労農党代議士・山宣が1929年3月5日、右翼の黒田某に暗殺される顛末、山宣を讃える告別の辞、追悼演説などの詳細が記されている。

 

 強い印象をもったのは、山宣の「悲壮の死」が「私を無産者運動の実践へと駆り立てた一つの有力な刺激となった」「労働者農民の真実の味方と、ただ口先だけで味方であるかの如く装っている社会民主主義者とを、大衆の前に明白に区別する」「同志山宣は科学者だった・・真実の科学は、大衆の福利を増進すること・・席の温まる遑(いとま)なきまでの活動をなすに至ったのは、彼の科学的良心が人並み勝れて鋭敏であった・・この事実の前に頭を下げる」などと語っている箇所であった。

 

 河上博士が思想犯として小菅刑務所にいた頃、山宣を殺した黒田某と会うことを余儀なくされていたという。「こんな男に我が山本君はやられたのか」と思い、そして「この殺人犯人は、私の服役中、仮釈放の恩典に浴し、刑期半ばで出て行った」と述べている。故山田風太郎氏も書いている。「4月30日、予審が終結するとともに、30円の保釈金で釈放された。殺された山本は国賊と見なされ、殺した黒田某は愛国者と目されたのである(人間臨終図鑑・徳間文庫)。何という時代だったのだろう。

 

 河上博士は戦争中に詩歌を詠んでいる。「・・われ敢て黎明の近きを疑わず 心は風なき春のあけぼの」。歴史の必然を信じていたのだろうか。終戦の日には「あなうれし とにもかくにも生きのびて 戦やめる今日の日にあふ」と詠んでいる。山田風太郎氏はいう。「日本の敗戦を心からよろこぶ権利を持つきわめて少数の日本人の一人であった」。少数であったかどうかはともかく、自由と平和のために闘ったがゆえに弾圧され命まで絶たれた、この先覚者たちこそが今日の日本の礎であったことを銘記すべきではなかろうか。


多喜二の火を継ぐ

2010-02-21 14:03:46 | 日記・エッセイ・コラム

 

 作家で自由と平和の先駆者だった小林多喜二が、特高警察に虐殺されたのは1933年2月20日。それから77年後のこの日「多喜二の火を継ぐ2010年大阪多喜二祭」が行われた。会場は満席。若きソプラノ歌手の「多喜二の愛した歌」の熱唱、「現代蟹工船」と題する漫才を聞かせてもらったあと、「新しい政治への探求と小林多喜二」という講演に耳を傾けた。微力の私でも多喜二の火を継ぐ心はもっているつもりである。この集いで何を得たのか、少しでも記録しておかねばと思った。

 

 多喜二が特高警察の残虐な拷問をえがいた『1928年3月28日』を知った特高は「あの男は生かしておけない」と考えたとのこと、聞くうちに『多喜二探し』を書いたノーマ・フィールドさんも「殺意に満ちた拷問だった」と指摘しているのを思い出した(岩波新書)。この極悪非道の罪を犯したものが、戦後も栄達の道を歩んだことを知っている私の腹は煮えくり返る。だが多喜二の作品はさまざまな人物を登場させながら、貪欲な日本資本主義・帝国主義そのものに肉薄する。その高邁な勇気と知性に感動する。

 

 講師が紹介してくれた。「現代の日本社会の不気味な搾取構造は(多喜二の時代と)変わっていない・・むしろもっと複雑に、巧妙に目にみえないカタチをとって蟹工船で振るわれた暴力の中に沈められていると感ずる」。25歳の女性が蟹工船を読んだ感想である。ほっとした。政治と文学のかかわりが論争点だったことにも触れられたが、多喜二は早くも20歳のとき「歴史的使命と芸術」を書き「芸術によって民衆のよりよき生活、歴史進化のための革命を叫ぶ」と言った。それが貫かれた人生に共鳴した。

 

 集会が終わって展示室に向かった。北海道・小樽に行かなければ見られない多喜二のデスマスクがおかれていた。その横には治安維持法に反対して右翼テロの凶刃に仆れた山宣こと山本宣冶のデスマスクが並んでいた。芸術を、科学を、なによりも人を信じ、愛した優しい人だ。まじまじと見つめて胸に刻み込んだ。「あなたの生涯と作品をたどる日々を過ごしたいものです」。多喜二に語りかけたノーマ・フィールドさんの言葉が浮かんできた。


マルクス学習とチョコレート

2010-02-17 13:15:38 | 日記・エッセイ・コラム

 

 今年から週に一度の学習会。参加者は数名の女性。余り若くはない。男は私一人だけ。チューターのようなことはしない、輪読会ならという約束で顔を出している。教材は「マルクスは生きている」(不破哲三・平凡社刊)。分かる、分からぬに頓着せずにとにかく読んでいく。途中で時折、ほぅ、へぇとかの声が発せられることがある。感嘆なのか溜息なのか、それは何ともいえない。とにかく反応があったら嬉しい気分になる。いま頁数でいうと3分の1まできている。中退はあかん。読み遂げようと言っている。

 

 一区切り読んだあとの雑談がすごい。はじめこそテキストにからんだ殊勝なやりとりだが、そのあとはバラバラだ。人間の脳髄・思考の話がコンピューターの話になったり、映画談義になったり、話題は広がる一方。私もそのなかに捲き込まれている。剰余労働の問題になるとメチャ安い時給で働く非正規労働者が話題に。これは真面目な方だ。日本資本主義のことになると、自分の若かりし時代の思い出が話される。私のその頃のことまで聞かれる始末である。

 

 私が日本資本主義の発展過程を知るのに「『日本近現代史を読む』(新日本出版社)が参考になる」と紹介したら、早速とびつく人がいた。「この本の学習会を」という。私は「あかん。マルクスの本を済ませてからや。それから日本近現代史を読んだらよう分かるで」と言った。バラエテイに富んだ会である。13日はバレンタインデーの前日、ある人が義理チョコを私にくれた。周りは「なんで黙って出し抜くの」。その場は大騒ぎ、大笑いになった。私はみんなの視線を感じながら有難く押し頂いた。

 

 10年ぶりか20年ぶりか、覚えていないが義理チョコでも貰ったのは全く久しぶりである。翌日、孫娘がお母さんと一緒に、手作りの可愛らしいチョコレートをもってきてくれた。これは恒例である。私の姿を見ていた孫がささやいた。「じぃちゃんのシャツはみだしてるで」。「恥ずかしい!」と言ってズボンの中におしこんだ。ブログなどで理屈っぽいことを並べる私も他愛ない老人になっている。穏やかに和やかにそれを自覚した。バレンタインデーに因んだひとときであった。


"アスベスト裁判 "に思う

2010-02-14 17:22:50 | 日記・エッセイ・コラム

 

 「これが私の最後になるかもしれない」「生きているうちに救済を」。泉南アスベスト国家賠償請求裁判結審(09・11・11)に臨んだ原告の陳述である。原告の中にはこの日を待つことなく亡くなった人、在宅酸素で辛うじて生きている人がいる。アスベスト被害は”史上最大の産業災害”といわれる。因果関係に疑問の余地はない。それを「国は知ってた!できた!でもやらなかった!」。だから起こした裁判である。それから3年半、”息づまるたたかい”が続いている。本年5月19日に判決が出る。

 

 私は1年前、泉南地域の関係諸団体が発行したパンフレットをもとに「アスベスト・静かな時限爆弾」(09・2・21)という記事を書いた。アスベストの驚くべき広範な使途、これを吸い込んで罹る治癒不能の胸部疾患、被害者の切ない嘆きと怒り、こんな衝撃の事実をつきつけられては平然としていられない。一人でも多くの人に知ってもらわねば、これが動機で発信した。どれだけお役に立てたかは分からない。だが書いたことを一日も忘れてはいない。気がかりのまま時を過ごした。そして判決の日が迫っている。

 

 『大阪から公害をなくす会』という団体から毎月ニュースを送ってもらっている。12・1・2の3カ月分を見直した。毎号アスベスト裁判をとりあげている。大阪の公害反対運動のなかに大きく位置づけられている。世論の反映でもあるのだろう。それが心強い。アスベストの有害性は泉南・大阪・日本にとどまらず世界で注目されている問題である。この裁判で、人命を粗末にした国の責任が問われ、被害者救済措置を命ずる判決が下されたら、その波紋はどこまで広がるだろうか。

 

 公害問題から私の目を離さないようにしてくれているのは『大阪から公害をなくす会』の存在である。この団体は1971年に結成された。目的は文字どおり公害をなくすこと。向かう相手は公害発生源である。この40年あらゆる公害問題にかかわり、大阪のこの分野のセンターになっているようだ。私にはそう見える。有難い存在である。時代はきめこまかさとともに幅広い運動を求めている。アスベスト問題もそうだろう。この団体の一層の活躍を期待している。

 


潔くさわやかに

2010-02-09 16:05:10 | 日記・エッセイ・コラム

 

 一昨日の午後「青い空は青いままで子どもたちに伝えたい・・」と題する素晴らしい話を聴かせてもらった。講師は子どもと平和を守る運動をひたすら続けている小森香子さん。著名な詩人である。私と同世代。話は幼少期の回想からはじまる。「生きてきた時代を知っておく責任があります」「”軍国少女”となり11歳で戦争犯罪に手をかした、謝りたい一人なのです」と言われた。この真情こそが「ゴメンナサイ」と思っていない国の支配層への鋭い批判になっている、説得力のある反戦・平和のよびかけになっていると感じた。

 

 話のラストは、ナチスに命を絶たれたユダヤ人少女を謳った詩の朗読。そのごく一部を紹介したい。「ごめんねアンネ ごめんねハンナ あなたちが 苦しめられていた時 同い年のわたしは愚かな 軍国主義教育の優等生でファシズムに手をかした・・・ハンナ あなたは十三歳で 殺された アンネ あなたは十五歳で 殺された そして 今も わたしや子どもたちに教えてくれている 生きるとはどういうことか を だから わたしも語りつづけるわ 平和を おろかさをつぐなうために 生きることの意味を」。

 

 悲惨な戦争、深刻な暮らしに触れた話であり詩であったのに、私は何故かある種の潔さ、さわやかさというものを感じた。戦争の愚かさを身をもって体験しながら、その自分を謙虚に見つめる。他者に想いを馳せる。潔いではないか。小森さんがプラハ滞在中に出会った老女が、小森さんが日本人だと聞いて「ヒロシマ!」と叫び抱きしめてくれたという。わだかまりなく被爆国・日本を思ってくれている人がいる。さわやかな話である。心が洗われるような気がする。

 

 帰宅してから思った。与党時代の自民党もそうだが「政治とカネ」についての民主党・鳩山、小沢氏の態度は潔くない。政治資金規正法違反(虚偽記載)は国民を騙した重罪である。秘書がやったことで自分は知らなかったと言えば済むとでも考えているのだろうか。心底から「ゴメンナサイ」という気があるのだろうか。国民は納得しない。秘書はいけにえか、説明しろ、責任をとれ、世論は清潔な政治を求めている。こんなときだけに、講演会のさわやかさを改めて実感した。この日の午後は澄んだ青空だった。