明日につなぎたい

老いのときめき

「天皇は・・国政に関する権能を有しない』(憲法第4条)

2021-06-30 10:32:51 | 日記

 24日午後、西村宮内庁長官が定例記者会見で「天皇は・・現下の新型コロナウィルス感染症の感染状況を大変に心配されておられます」「ご自身が総裁をお努めになるオリンピック・パラリンピックで感染が拡大するような事態にならないよう、万全を期していただきたい」と述べたとの報道を見た。これはよしとするが、先日の文学サークルのことを思い出してしまった。月刊誌「民主文学」(6月号」にある『引き継ぐべきもの』(作・三富健一郎)についての話題である。物語りの舞台はドイツ。論評を担当したSさんは「人間の罪業や戦争責任に対して、これからの時代において、どう引き継いでいくべきか、歴史的問題に迫った重い作品だ」と紹介した。

 

 聞くうちに、私は第2次世界大戦に責任を負うべきは、ドイツだけでなく、日本もだと言った。出席者は若い。戦時体験者は私一人だけ、日本の戦争責任を問う義務感が沁みついた身である。私は敢えて言った。「もう風化されたのか、殆どの人が口にしないが、最高の責任者は昭和天皇だ。御前会議とやらで積極的に発言し、宣戦布告も、終戦宣言も天皇の名でやられている。私は生きている限り、これを言い続けるつもりだ」と。昭和のある時期、戦地の将兵は天皇のためにとか、皇国日本のためにとかの"大義"で『名誉の戦死』を遂げていった。ウソか、まことか「天皇陛下万歳」と叫んで。

 帰宅して、本棚にある『昭和天皇』(ハーバート・ピックス)、『昭和天皇独白碌』(文春文庫)を取り出した。いずれも、昭和天皇が飾り物でも木偶の棒でもなかったことの"証言 "である。わが少年期を思い出した。どこの家庭にも天皇、皇后夫妻の額が掲げられていた。小学校では毎朝、バカバカしいが、東に向かって宮城遥拝、各校の奉安殿に最敬礼だった。戦後初の東京メーデーで「朕はたらふく食っている。汝臣民飢えて死ね」のプラカードが現れた。多くの人々が快哉を叫んだが、ときの政府部内ては不敬罪を云々したとか。天皇賛美は軍国主義と結びつく。この天皇・皇室を報じるマスコミは今でも敬語を使っている。日本のジャーナリズムも怪しい一面を持っている。

 

 

 

 

 

 


「つなぎたい」か「つなげたい」か

2021-06-15 11:57:33 | 日記

 6月7日付で、当ブログのタイトル「明日につなぎたい」に対して「『明日につなげたい』ではありませんか」と指摘される記事があった。78歳から現在まで、16年間続けてきたブログのタイトルである。滅多にないが、時たま、同趣旨のことを耳にしたこともあったので、いくらか気になった。「つなぎたい」は間違っているのだろうか。私の持つ広辞苑で調べて見た。「つなぎ」の解説はあるが「つなげ」は、その主語もなかった。しかし「つなげ・・」は実際に使われている。NHKの東北被災地への復興応援番組の中で「明日につなげよう」「東北の明日につなげたい」という文言があった。

 

 だから「つなぎ」が間違いだということにはならないだろう。古くから歌われている童謡「お手てつないで」は、みんな仲良くという意味であり、堅苦しく言えば「連帯」の大切さが込められている歌詞だ。「お手てつなげて」としても意味は同じだろうが「つないで」の方が柔らかで、歌いやすく、優しいような気がする。「明日につなぎたい」を「つなげたい」にする意味がどこにあるのか、私には全く理解できない。「つなげたい」を主張されるのも、ご好意からだろうとは思う。だが、私は、これからも「つなぎたい」の表現を大事にしたい。よりよき明日・未来への希望を込めた私の想いだからである。

 

 「つなげ論」の方も、同様の想いだろうと察する。だからこそ「つなぎ」を「つなげ」にと言われたのだろう。政治・思想上の異論を唱えられたわけではないのだ。私は、そう信じたい。では、何の相違だろうか。私の余り強くない文法上の、表現上の問題なのか、正直、「つなぎたい」「つなげたい」の違いが理解できない私である。生きている間に、それが分かる時がくるのだろうか。また一つ、新しい勉強の宿題を貰ったと思えばよいのだろうか。どちらにせよ「つなぎ」対「つなぐ」の論争など不要というしかない。大切なのは「明日を、見て、考えて」、そして動くことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


いろんな死様がある

2021-06-07 12:00:00 | 日記

 94歳ともなると、漠然と「オレはいつ頃かな」などの妄念が浮かぶことがある。新聞であちこちの「コロナ死」のニュースを見たりするからだろう。さらに最近、読んだ、死を取り扱った小説や評論から考えさせられたフシもある。人の死に様は多種多様というか、まちまちである。このブログで取り上げた記憶があるが「風は西から」(村山由香・幻冬舎・2018年)に登場する若きコンビニ店長は、売り上げ不振を責められて飛び降り自殺を遂げる。あぁ、勿体ない。高度に発達を遂げた日本資本主義の悲しい産物なのだろう。恋人を失った若き女性が、この不条理に立ち向かう、その凛々しい姿を脳裏に浮かべる。私は、夜遅くコンビニに行くたびにこの物語を思い出す。

 

 河上肇博士の自叙伝にある。1929年3月5日、労農党代議士・山本宣治(山宣)が、右翼・七生議団の黒田某に暗殺された。ファシズム反対が死を呼んだのである。思想犯として小菅刑務所に服役中の、河上博士は、この黒田と出会っている。「この殺人犯は仮釈放の恩恵に浴し・・仲間の申し合わせで人一人殺してしまえば、跡はもう一生食うに困らぬ仕組みになっている」(河上・自叙伝)。為政者の気に食わぬ者を殺しても微罪に留まる。何と言うことだ。この発想は、不正不義の侵略戦争を起こし、2千万のアジア諸国民を傷つけ死なせた当時の日本政府・軍指導部の無反省にも似ていないだろうか。貧弱なコロナ対策など、無神経な亜流政権が、今もしつこく続いているのが癪である。

 

 河上博士の自叙伝には、山宣への「告別の辞」が掲載され、山宣の生前の演説が紹介されている。「自分は寂しくはない。背後には何万、何十万という大衆がついている。卑怯者、去らばされ、われは赤旗を守る」との山宣の名演説、崇高な言葉が述べられている。河上博士が語る「君の流された尊き血潮は。全国の同紙に向かってさらに深刻なる覚悟を促し」「私を無産者運動の実践へと駆り立てた有力な刺激となった」と。山宣は凶刃に倒れたが無駄な死ではなかった。心ある人々によって、山宣の魂は、絶えず取り上げられ、100年後の今も、世紀を超えて、脈々と生かされている。一介の名もなき老人に過ぎぬ私は未だ生きて、コンビニにも出入り。いずれ偉大な先人の仲間になるが。死んだら平等だろう。