昨日は定期の診察日。病院には自転車だと15分で行ける。受診日は、天候が悪くないかぎり自転車に乗れる日である。実は、これが私のささやかな楽しみになっているのだ。もう冬なのに、穏やかな陽をうけて気持ち良く走った。診察もいつもと違っていた。事前の検査がなかったからなのだろうが、電子カルテとのにらみ合いがない。主治医の先生が自ら血圧を測ってくれる。胸と背中に聴診器をあててくれた。
ある精神科医の書いた短編小説集『風花病棟』を思い出した。そのうちの一編「百日紅」に、老医師(公立病院長)の臨床講義の場面がある。その医師は聴衆環視のなか、モデルになった患者との短い問答のあと、聴診器で入念に打診、心臓の具合などの所見を説明した。それらは、最新の検査機器が示した、すべてのデ―タ―とぴったり重なり合っていた。急速に進む医療のⅠT化、私もこれで救われた人間の一人だが、何か、医療の原点・あり方を説かれたような気がした。
先日、このブログで取り上げた川上貫一代議士(共)は、1968年、心臓の病気で亡くなっている。80歳だった。私は83歳のとき、開発されていたカテ―テル治療で助けてもらっている。「あのとき、僕のような治療がされていたら、川上さん、もうちょっと頑張れたのでは」。何人かの親しい知人に言ったことがある。コンピュ―タ―システムも故障することはあるだろうから、これだけに依存するわけにはいかないだろう。あの老医師のような診察が常に求められているように思えた。
『風花病棟』の「あとがき」は言っている。「医師は患者という教科書によって教育される」「医師は患者によって病の何たるかを教えられるのではなく、人生の生き方を教えられるのである。良医は患者の生き様によって養成されるのだ」。ここまで言われると、患者である私も襟を正さねば、考えさせられる。私の身内にも医療現場で働く者がいる。門外漢の私は何も言えないが、いま未読なら、この『風花病棟』を読むよう勧めようと思う。「ひとつの花を添えれば・・・明かりが灯せる」と願ってネ―ミングされた書である。