明日につなぎたい

老いのときめき

ブログは老け防止になる

2019-09-28 16:41:02 | 日記

 私は、床に入って、寝る前に小説(文庫版」を読む習慣がついている。どちらかと言えば、私の勝手な解釈だが、波乱万丈でない、起伏の地味なのを選んでいる。作者には失礼千万だが、これが睡眠剤の効果をもたらしてくれると思ってのことである。それでも朝からぼんやりしているときがある。近頃は、パソコンの前に座っていても、マウスを動かさないと眠くなることがある。これこそ老化現象だと自分なりに診断する。人前で話していても、まとまりのないことを喋っているなあと思うときがある。齢のせいだろう、後味がよくない。

 

 もう2.3年前のことだ。長男、長女から「ブログなんて、しんどいことやめて、ゆっくりしたら」と言われたことがある。二人の孫からも「もう90も超えて、ようブログなんかやってるなあ」と、感心してくれたのか、呆れられたのか。それでも興味をもってくれている、悪い気はしなかった。私の日課になっているが、編集画面という欄を押すと、当ブログへの訪問者数、閲覧数が出る。それによって一喜一憂するほど深刻にはならないが、ブログのタイトルなのか、内容なのか、その良し悪しの判断材料にはさせてもらっている。

 

 老化は自然の摂理。それを否定するわけではないが、このブログが老化防止策になっているのではないかと思ったりすることがある。一本の記事を書くにも、ちょっと調べたり、関係書に目を通したり、テレビや新聞等で情報を得る。人の話にも耳を傾ける。短くても文章をまとめるのだから、いくらかは脳を働かせているのだ。これがやれなくなったら、間違いなく老け込むだろう。ブログを見てくれている仲間のお世辞か励ましか「若々しい文章ですね」などと言われたりすると、いい気分になる。一本800字程度の短文だ。この仕事、自己満足に陥らぬよう注意しながら、なお続けたいと思っている。

 

 


気は確かか 汚染水 大阪湾に?

2019-09-23 13:58:25 | 日記

 「聞いてびっくり」とはこのことか。今月の中頃、大阪市の松井市長が、福島第一原発にたまり続けている放射能汚染水の、大阪湾放出に協力すると言明したのだ。これに吉村府知事が同調した。両人とも「維新の会」の人物だが、放射能の怖さ、危なさを分かって言ったのか、分かっていたら、こんなこと言うまいと思うのだが。やっぱり不勉強からくる”怖いもの知らず”なのだろうか。実際にやられたら、大阪府民は、大阪湾、瀬戸内海で獲れた魚介類を喰う気が失せるだろう。大阪府漁協連は、府・市へ撤回を求める抗議文をぶっつけた。当然だ。

 

 放射能というのは、無色、無臭の物質である。私は見たことないが、汚染水も多分そうだろう。福島原発付近に、それを入れたドラム缶が林立しているのを、テレビで見たことがある。仮に大阪湾に放出するとなると、トラックにドラム缶を積み込んで走ってくることになるだろう。まさか福島から大阪につなぐ凄く長いパイプやホ―スを取り付けるわけではあるまい。沿道でトラックが事故を起こし、横転でもしたらどうなることやら。放射能がまき散らされることになるではないか。大阪湾放出など、松井、吉村氏らの野蛮な「口から出まかせ」だと言うしかない。

 

 専門家の所見を本で見た。福島原発事故で大量に飛び散ったのは「ヨウ素」と「セシュウム」という放射性物質だが、これらが体内に入り込むと、甲状腺に蓄積され、甲状腺ガンに冒されるとか、全身の筋肉、生殖器などに蓄積され、遺伝子障害の原因ともなるそうである。そんな毒物を含んだ汚染水を何で大阪湾に流そうというのか。確かに「福島」の汚染水は溜まる一方らしい。使用済み核燃料(死の灰)の処分も難渋しているようた。それを拡散せずに、無害の”墓場”に葬る知恵と方策を示すのが国と電力資本の責任だろう。大阪市長らは、有害無益の口を出すなと言いたい。


曇り、後・晴れ、後・雨

2019-09-20 20:36:16 | 日記

 ややこしいが、今日の私の気分と天候につけたタイトルである。目下、私の関係している団体が、事務所建設のための募金を訴えている。因縁浅からぬ団体の要請だ。いくらかでも応じようと、某銀行に足を運んだ。持参したのは振込用紙(振込取扱票)と、この銀行の預金通帳だった。振込用紙を見た銀行職員は、即座に「郵便局に行ってくれ」と言った。ちょっと怪訝な気がしたが、言われるままに郵便局に行った。だが、すっと受け付けてくれない。保険証があるか、パスポ―ト(顔写真入りの)を持っているか、などと聞く。ムッとした。振込はやめ、さっさと引き上揚げた。

 

 キャッシュカ―ドを持ってコンビニに行った。ATMとやらで現金を引き出した。機械は無言、人を怒らせない。当該団体の事務所を訪ね、受け取ってもらう。「有難うございます」。丁重に礼を言われ、ホッとした。かつて、一緒に仕事していた旧知の女性なに会い、のんびりと世間話を交わした。炎天下、銀行、郵便局、コンビニと歩きまわった話を優しく聞いてくれた。「持つべきは友」を改めて実感した。外はぽつりと雨模様。すぐに傘を貸してくれた。帰りの地下鉄はもう満員、私を見かけた若い女性がすっと立ち、笑顔で席を譲ってくれた。

 

 この駅のホームから外に出るのには、長いエスカレ―ターを利用せざるをえない。足を踏み外さないよう気をつけているつもりだが、なんと車内で席を譲ってくれた女性が私の後ろにいるではないか。よろければ手をさしのべてくれるのだろうか。そんな気がした。他人なのに知らんふりはしない。今日は、内でも外でも優しい人に出会えた。年寄りの悲哀感など全く湧いてこない。味わえたのは幸福感だった。銀行や郵便局での不快感は、すっぽりと消えうせていた。外の自然現象は雨模様だが、私の心は晴々としていた。

 


ブログ文化を考える

2019-09-18 14:03:12 | 日記

 文化とは何か。広辞苑を見ると、かなりのスペ―スで解説が出ているが、最初の部分は「世の中が進歩し文明になること」とある。私が15年近く続けているブログはどうだろう。文化だと自負してよいものか、時折、自問自答することがある。なぜ、ブログを始めたのかを振り返った。動機は二つあった。一つは米国のイラク侵略への怒りと批判、もう一つは、若き女性作家・樋口一葉の生き様に触発されたことであった。「一人の人間として、なにかものをいわねばならない」「微力でもなにか明日につながることを続けよう」。こんな”文化の心"を持っていたつもりだった。

 

 ブログの正式名はウェブログ(web log)。「日記感覚で日々更新していくような形式のホ―ムペ―ジ」だと定義づけられている。これを家族、友人の支援で覚えたのである。短い文章で、時事・社会評論をやれる、定職を離れた、年金生活の私には、格好の仕事になった。本を読んだときの書評も書くようになる。おこがましいが、それは、ささやかな随筆(エッセイ)ではないかと思うようになった。世界に一人しかいない私が、世界唯一の記事を発信している。それが進歩、文明に寄与している、自分としてはそう思いたいが、他者の評価に委ねるべき事柄であろう。

 

 優れたエッセイで世に名を残した人は、古今東西、実に多いことだろう。しかし、筆やペンを使っていた時代だから、越え難い限界もあっただろうと察する。今は、IT時代、パソコン、スマフォという文明の利器がある。それを使って短時間で文章化し、文学作品も世に出す機会に恵まれた時代である。私自身もペンと鉛筆だけだったら、とても千数百本の記事など及びもつかなかっただろう。93歳になろうとする年寄りにも有難い物だった。文学作品などと名付けられるものは書けないが、私なりに、日々、世の出来事、人の動きを見て、文化のはしくれに身をおいていきたいと思っている。


わが文化 果てることなし。 カジノはあかん

2019-09-15 13:28:13 | 日記

 数日前、旧知の女性が『文楽芸談』という本を貸してくれた。「橋壽のつぶやき」というサブタイトルがついている。著者は三味線師匠の竹沢團七さん。私も面識のある方である。カバ―に「粋でおしゃれで、面白い・・芸と人、すべてがここに。とにかく楽しいです」との落語協会会長の推薦文が出ている。文楽の世界のこと無知に等しい私だが、確かに面白い。一夜で読んでしまった。橋壽とは84才のことだそうだ。橋(はし)は八と四と読める。84才の團七さん「よう頑張ってはりまんなあ」。平和好きでユ―モアたっぶり。芯から感服した。

 

 昨日、高知県にいる畏友・藤原義一氏から「槇村浩が歌っている」と題した評伝が送られてきた。分厚い豪華版だ。藤原氏は高知の自由・民主運動の歴史を辿りながら、反戦歌人・槇村浩たちに光を当て続けて来た。槇村の長詩「間島バルチザンの歌」(1931・3・13)が紹介されている。間島(かんとう)は、現中国吉林・朝鮮民族自治州のこと。「おれたちは間島のバルチザン・・・いま長白の嶺を超えて 革命の進軍歌を全世界に響かせる・・」。私も若いときに読んで血をたぎらせた思い出をもっている。私の月並みな形容だが”男のロマン”が高らかに謳われている。

 

 二つの文化でいい気分になっていたが、非文化の代表のようなものが目前に現れてきた。アメリカ映画、DVD「CASINO」(カジノ)を見た。冒頭、いきなり乗用車が爆発、炎上する。1973年、カジノの本場・ラスペガスの物語はここから始まった。「カジノを牛耳り、大金を操作するギャングたち」が主役のようだ。殺し殺される場面も映される。「尽きることのない欲の絡み合い」がよぶ惨劇だった。カジノは戦場か!事実を踏まえた物語だそうだ。大阪・日本に持ち込まれる話があるが、関係者はこの映画を見たらよかろう。カジノ推進者は非文化人である。