明日につなぎたい

老いのときめき

私と「角さん」

2023-01-09 18:25:55 | 日記

 私の新年の話はこんなことから始まる。後輩のÑ君からの電話「Kさんが亡くなりました」。一瞬、言葉が出ず。「あぁ惜しい。オレ(95歳)よりうんと若いのに」が胸をよぎった。kさんとは、元大阪府職労委員長の角橋徹也さんのこと。千里ニュータウンの開発に関わったという、都市計画・街づくりのプロである。容貌は「青白きインテリ」に見えるが、接してみたら、大声で語り、大口あけて豪快に笑う、明るい人物である。私たちは「角さん・・」とよび親しんでいた、初対面は1972年秋頃ではなかったか。この時期は衆院選挙の真っ最中、共産党は6区(当時)全員当選。この風の中、府職労の役員選挙で角橋さんはじめ、革新統一派が多数派に。右寄りと見られていた大阪の労働戦線に新しい展開が始まった、その気配を心強く感じたものである。

 

 角さんは、1980年5月に結成された「進歩と革新をめざす大阪懇話会」(大阪革新懇)の初代事務局長を引き受けてくれた。「革新懇て何や」、まだ試行錯誤の渦中という難しい時だったが、よくやってくれたと思っている。東京て゛全国革新懇結成のために開かれた全国集会に、一緒に出席したことを覚えている。私と彼は、革新懇運動について言えば、幼馴染の兄弟だったように思う。もう一つ大事なことがある。それは労働組合の階級的、民主的強化のことだろう。大阪府職労はその方向を目指していた。角さんにはその道の保障があったのだろう。私は、角さんを通じて既成のタイプ(悪いわけではないが)を超えた、新しい組合幹部の姿をイメージした。その見方の可否はどうだろう。当事者でない外部の人間である私のいえることはここまでだ。

 

 角さんは、大阪市大出身のインテリだそうである。「だそう」というのは、本人が一切インテリぶらない、私は彼からそんな気配を感じたことはない。彼は消防士をやった経歴があるが「僕はホースをかついでやってたんでですよ」と愉快そうに聞かせてくれる。私は「豪放で楽天的な男」だと感じたが、この直感は的はずれではなかったと確信している。彼が「生粋の浪速男」てないことは、よく知っているつもりだが、私は浪速男の仲間の一人にしたいものだと思っている。もう二度と帰らぬ角さんになってしまったが、私は角さんの面影を自分の胸から消すことなく、残り少ない私の人生を歩き続けたいと願っている。なにしろ、彼は大阪の革新のために、ともに闘った得難い仲間だったからである。「角さんよ、もうすぐオレもそっちへ行くぜ」。悲壮がってはいない。

 


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