明日につなぎたい

老いのときめき

私のランキング一位・沖縄を返せ

2010-01-31 18:57:34 | 日記・エッセイ・コラム

 

 私がこれだと思った今月のランキング一位は、22日午後の衆院予算委員会での赤嶺政賢議員(共)の質問であった。私はこのテレビ中継に釘づけになった。聞くほどに胸が熱くゆさぶられた。沖縄出身の赤嶺議員は具体的事実を示して基地・沖縄の悲劇を切々と訴える。圧巻だった。このときの委員会室は静まりかえっていた。いつもと違い、ヤジも怒号もない。そんなことをやれば「お前は日本人か」の声が飛ぶような雰囲気だったのだろう。自分の土地を強奪されて米軍基地に、県民は米軍から虫けらのように扱われてきた。赤嶺議員が突きつける沖縄の歴史と現実、誰もが認めざるをえない厳然とした真実である。どういう態度をとるべきか、政治家はもとより日本人全部が問われているように思えた。

 

 答弁する鳩山首相、岡田外相は沖縄・日本人の心が分かっていないようだ。「あまりにも多くの悲劇が米軍基地によって起きている、多くの県民が感じておられると思う」と赤嶺質問に応じながら「安全保障という立場、状況を踏まえて考えたときに、米軍の存在というものを必要としている」「米軍基地があって、その抑止力によって日本の安全が保たれている」などというのである。沖縄・日本は米軍によって命と財産を脅かされ、数々の被害を受けこそすれ守ってもらったことなどあるだろうか。『米軍基地抑止力』は真っ赤なウソである。普天間の移転先を探しているというが、それは新しくどこかに基地被害地をつくることだ。無茶である。日本人の心で、堂々と基地は要らない、帰ってくださいとアメリカに言えばよいではないか。

 

 沖縄県名護市長選挙は、辺野古新基地建設反対を掲げた陣営の勝利だった。基地のない沖縄・日本を願う多くの国民にとっては一大朗報である。ところがとんでもない発言が政府筋から飛び出した。この選挙結果について「斟酌しなければならない理由はない」「地元の合意がとれないと物事がすすめられないものか」。誰あろう平野官房長官が言ったのである。『赤嶺質問』をまじめに聞いていたのだろうか。民意無視というより敵視か。沖縄の心も民主主義の原理も踏みにじっている。やはり沖縄よりアメリカ優先ということだろうか。情けない。沖縄問題を深く全面的に展開した『赤嶺質問』を無視したマスコミは、この件ではどこまで正義の論陣をはるだろうか。注目していよう。

 


癒しの一月

2010-01-29 13:45:24 | 日記・エッセイ・コラム

 

 「みんなに喜んでもらえるお菓子をつくりたい。しっかり働いてお金持ちになりたい」。ひょんなことから、小学生の女の子がこんなことを書いているのを見かけた。えぇやないかと思った。”喜んでもらう””働いて”が立派だ。両親が懸命に働きに出ている姿を見ているのだろう。友達同士で話し合ってでもいるのだろうか。しっかりしている。これからどんなに夢を膨らますだろうか。とにかく可愛らしい。頭を撫でてやりたくなった。数日前の話である。

 

 孫息子からある用件で電話があったとき、ついでに評判になっている映画『アバター』の感想を聞こうとしたら、傍にいた孫娘が「見てきたで。すごいわ。ストーリーもよう分かったわ」と口を挟んだ。行ってみようか、心が動いた。翌日、この子のお母さんが言ってくれた。「見るなら絶対に3Dの映画ですよ」。その気になって28日の午後、梅田の映画館へ。2154年を想定した超異次元の夢幻の世界に浸る。見た価値あり。飛び込んでくる映像、字幕、音響の3時間弱。日頃の鬱憤を忘れさせてくれたようだが少し疲れた。

 

 去年秋頃からのわが「文化生活」を振り返ってみた。スリルと迫力のサーカス、漫談・落語の寄席、バイオリン・コンサート、室内楽、そして映画。旭区、城東区の福祉まつりでの子どもたちの楽器演奏も。いずれも家族や友人に誘われて、付き合ってもらって得た笑いと感動の場であった。世相はいいことばかりではない。とりわけ鳩山政権・民主党の”普天間基地問題””政治とカネの問題”の対応に苛立つことしばしば。癒してくれるのは家族、友人との交わりと文化の温もりに触れる日常があるからだと感謝している。

 

 1月は新春の集いに出る機会が多い。私の顔を見て「お元気そうですね」「ブログ見てますよ」。この挨拶が嬉しい。先日は50年も前に苦楽をともにした後輩の数名が一席設けてくれた。いつまでも覚えていてくれる。一生のつきあいになるだろう。2時間たっぷり飲み交わした。ある友人のブログには「この顔も あの声もある 賀状読む」という年賀状が続いている。いつ開いてもこれである。この君、1月中そのつもりなのかと思っていたら、28日に新しい挨拶が出た。風邪をこじらしていたとのこと。一安心。癒された1月だった。


釈明しない生きざま

2010-01-24 16:11:20 | 日記・エッセイ・コラム

 

 このほど、小沢一郎氏が『小沢主義』という文庫本を出した(集英社刊)。文庫版まえがき(2009年11月記)にこんなことが書かれていた。「僕は生き様として、釈明や自慢を好まない」。だが、その好まない自慢話をあえてするといって「政権交代」をしたことをあげている。では釈明することはなかったのだろうか。この年の3月3日、小沢氏の公設第一秘書が西松建設からの違法献金容疑で逮捕された。疑惑解明を求める世論が高まる。当時、民主党代表だった小沢氏はそれを拒み続け、一点の疚しいところはないと言いながら奇妙にも代表の座を降りた。疑惑の霧は依然ただよったまま。釈明とは虚言、自己弁護を意味するものではない。事実を語り了解を得ることである。好まないと言ってそれをやらない”生き様”を疑いたくなる。

 

 昨23日、東京地検特捜部は、小沢民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」による4億円余の土地取引をめぐる政治資金規正法違反事件で、小沢氏を任意で被疑者聴取した。異例の大事件である。そのあとに小沢氏が発表した説明は▽4億円余の原資は個人事務所の金庫に保管していた▽土地購入の手続きは関与せず、秘書が相談なしにやっていた▽会計処理も関与していない▽収支報告書記載は把握していない。帳簿、報告書は見たことがないというもの。これが釈明だろうか。疑惑の全面否定、秘書への責任転嫁ではないか。『小沢主義』は”リーダーの条件”という章で「他人に責任を転嫁することなくみずからが決断し、そしてその結果に対して責任を負う」と書いている。この弁に照らせば小沢、鳩山氏ともリーダーといえるだろうか。

 

 『小沢主義』はさらに言う。「僕が心配していることの一つが、社会全体にはびこるモラルの喪失だ」「政界や官界のみならず、実業界やマスコミ、ありとあらゆる分野で、かつては考えられなかった不祥事やスキャンダルが相次いでいる」(第6章 日本復活は教育から モラルの崩壊)。誰を指しているのか。わが身はどうなのか。文庫版まえがきでは「僕が少々誇りに思っているのは、本書を読み直したところ、本文に一つも修正や訂正を加える必要を感じなかったことだ」と自慢している。そんなはずはなかろう。再度、読み直して欲しいものである。いま求められているのは、国会の参考人招致に応じて真実を語り、政治への信頼を取り戻すことである。それが政治家としてのモラルではないか。


”私のひとこと”は希望だった

2010-01-20 17:14:04 | 日記・エッセイ・コラム

 

 「たのしく、いっしょうけんめいを忘れずに、2010年もたくさんの出来事と人々に出会っていきたいです」。旭区平和委員会ニュース(102号)にある「新年 私のひとこと」に出ている若い女性の”ひとこと”である。このニュースへの投稿者は挿絵やイラストなどを入れると106人、過去最多である。私は何度も読み返した。それぞれの出来事が一杯つまっている。自分を見つめながら日本や世界のだいじなことに触れて抱負を語っている。読むほどに味が分かってきた。僅かな字数でわが意を表現するのは容易なことではないのに、よく考え練り上げて書かれたのだろう。それが伝わってくるのである。中には詩のように感じさせてくれる”ひとこと”もあった。惹かれたのは希望という言葉であった。

 

 「涙は天にかえしましょう グチは地に捨てましょう 核のない本当の平和がくるまで・・きっといつの日か 幸せはくるのです」「『去年より後退しない』半歩でも一歩でも前進できる努力を惜しまないよう心がけたい」「(去年はいろんな出来事で)振り回されたがピリオド、タダで泣いてる私ではあらへん 仲間と連帯してきたよ」「私の人生最後の年女・・できることを精いっぱいやりたい」「自分の命だけでなく妻も子どもも、そして周りの人の命も大事・・おびやかすものに対してきっぱり闘っていきたい」「今年も希望は見えていると自分に言い聞かせ気づき行動します」。老人ホームで暮らす人、体調を崩した人、加齢を意識した人たちの”ひとこと”の一部である。この人たちが希望を示してくれた。

 

 ”ひとこと”で多くの人が安保問題を今年の重要課題として位置づけているのはさすがだと思った。確かに安保は調印50周年ということもあり、また今日の焦点になっている沖縄・普天間基地問題などを通じて関心をよんでいる。しかし日米同盟で平和と安全が守られてきたという日米両政府の態度、この欺瞞に迎合するマスコミの姿勢は旧態依然である。こうした安保体制下で50年も暮らしてきた国民の意識、感情はどうなのだろう、この問題にぶつかる。日米関係がいかに不平等で屈辱的なものか、その事実をリアルに突き出し、安保条約の是非を問う国民的議論の必要性を痛感する。国民が安保の実相を見破り、公正で平等な日米関係への道を見いだしたとき、日本は変わる。そこに希望を持とう。


わが街のオーケストラは

2010-01-19 14:56:39 | 日記・エッセイ・コラム

 

 『明るい民主府政をつくる会』の新春懇親会(18日夜)のオープニングは、去年に続いて大阪センチュリー交響楽団のメンバーによる室内楽。奏でられたのは聞き覚えのあるモーツァルトの曲、この世界には全く疎い私の感性をもゆるがしてくれる楽しい贈り物だった。演奏の合間、女性奏者のスピーチが切なかった。「このオーケストラは20年前に大阪府がつくった。この間、団員は懸命に各地で活動してきた。若い人が勉強してオーディションを受けにくる。ところが橋下府政になって補助金を大幅に減らされた。茫然となっている。つくったものを何故つぶすのか。音楽・人生をどうみてくれているのか」。こういう意味だったと思う。知事は文化の価値が分かっていない、何とかしないと。私は聞きながらそんなことを考えていた。

 

 『大阪センチュリー交響楽団を応援する会』の代表の方が語っている。「逆風のなかでセンチュリーのメンバーの意識も変わってきている。地域に密着していこう、その努力が強くなっている。カーテンコールならぬロビーコールをやりはじめた。演奏が終わってからロビーでお客さんに”有難うございます”と声を出して頭を下げる。多くの人たちに近づき親しんでいこうという気持ちの表れだと思う。地方自治体がオーケストラをもつのは住民の願いに応えること。アメリカのシカゴ市は荒っぽい都市などといわれる向きもあるが、立派なシカゴ交響楽団を持っている。市長が先頭に立って応援している。この楽団は市内をオープンパレードしている」。オーケストラをわが街の誇りに。そうしたいと思った。

 

 この5月に、大阪センチュリー交響楽団による『オーケストラファミリーコンサート』がある。指揮はN響首席オーボエ奏者の茂木大輔さん。主催団体のニュースを見た。「子ども達の健やかな発達に、優れた生の舞台芸術を体感することが不可欠・・経済的に厳しい社会状況の中、子ども達の文化的環境は削られていく一方。人間性を取り戻したいと人々が願う今だからこそ、子ども時代から文化を身近に感じてほしく、幼児から参加できるオーケストラファミリーコンサートを行う」とある。音楽が全世代にわたって、人間の一生にとって絶対に必要なことを説いているように受けとった。これに応える演奏家、その集団を守り発展させることこそが活性化である。知事よ、間違うなと言いたい。