明日につなぎたい

老いのときめき

土佐の旅

2018-07-30 09:05:02 | 日記

 卒寿祝賀会をやってもらった翌々日の7月23日、予定のブランに従って旅に出た。行く先は足摺岬と四万十川。日本の美しい原風景に触れる旅である。昔、所用で高知を訪ねたことはあるが、プライベートの観光は初めてだ。わが老夫妻、孫の運転で明石大橋を渡り、徳島を経て高知自動車道に入る。四国山脈をくぐるのだからトンネルの連続だ。午後3時頃、足摺岬に到着。遥かな水平線、青い海を眺め、岩に砕ける白い波を見下ろした。ああ良かった。この瞬間は、いつも懸念している地球環境の悪化、海洋汚染なども念頭から消えていた。

 

  山道をくねくね、スリルを味わいながら四万十のホテルに着く。夕食で鯛の刺身かと思って口に入れたら、この川の鯰(なまず)だと教えられた。これも初体験だ。心ゆくばかり、清流を眺め、沈下橋を歩く。大きな魚が泳いでいたがカメラに撮り損なう。帰途につく。街道には共産党の「憲法9条を守れ」のポスタ―が目立つ。時折、社民党のも見かけた。さすが高知県。「自由民権運動発祥の地やからな」。横の孫に囁く。ときどき休憩で立ち寄るドライブインやコンビニで、西日本水害救援募金箱に、いくらかの硬貨を入れる。無事帰阪。孫は疲れただろうが、楽しい旅だった。


科学とロマンの政治を

2018-07-25 12:45:14 | 日記

 21日、親しい仲間たちが、91歳になる私の「卒寿を祝う会」をやってくれた。事前に預けていた私の写真を編集したスライドが映される。幼少年期のものは、自宅の火災などで焼失していたから殆どない。いきなり、カットごとに説明しろと言われた。戸惑った。50年代のものは殆どない。「面白くないこともあった時代だったし、話す気にもならない」と言ったら、何故か笑い声が耳に入った。

 

 主に60、70年代の写真が多い。安保反対デモの場面や、職場の仲間たちとの”団体旅行”のときのものだ。わが若き日の記録のようなものだ。革新知事・黒田了一さんの姿が出てくる。老いも若きも、この人を擁して燃えた歴史を思い出させてくれる。わが妻、子ども、孫たちと一緒の写真は、ご愛敬、我も人の子ということの証しだ。これ以外に80年以降の写真はない。職を離れた以後は殆ど撮っていないのだ。

 

 この余韻の故だろうか。私の挨拶もピ―クは70年代だった。人生の途上で目的地にたどりついたときの感動は、一入インパクトが強いものだ。黒田さんの優しい人柄を離し始めかけたら、司会者のしかめっ面が目に入った。時間切れだったのだろう。言いたかったのは、黒田さんが、よく口にしていた「政治に科学とロマンを」ということだった。今の政治って何だろう、それを言いたかったのだ。

 

 悪玉の安倍晋三はともかく、私の脳裏には松井(大阪府知事)、吉村(大阪市長)の顔は浮かんでこない。影の薄い存在だとしか思えないのだ。これから大阪をどうしようというのか。聞こえてくるのは、せいぜい「万博を大阪で」とか「カジノ誘致」くらいのものか。カジノ(賭博)ほど、科学(理性)とロマンに逆行するものはないだろう。人は、いつの時代でも、現状に甘んじず、変革をめざす。卒寿の私もだ。来年の参院選も、いっせい地方選も、そのチャンスだろう。有権者の理性とロマンに期待しよう。


卒寿

2018-07-12 22:07:23 | 日記

 友人たちが、近く卒寿を祝ってくれるというので、卒寿とは何か知っておかねば、そう思って辞典、ウィキペディアを開いて見た。卒の略字である卆を上と下に分解すると、九と十になる。卒は九十のことだ。なるほど、私としては新発見だ。何でお祝いされる程めでたいのか。判然としないが、生きていることへの祝福なのだろうと察する。10年刻みで祝い年が決められていたのは平安時代からだそうだ。60歳―還暦、70歳―古稀、途中で77歳―喜寿があり、80歳ー傘寿、88歳―米寿。そして90歳が卒寿。私は、その都度、家族や友人から祝ってもらっている。”果報者”なのだ。

 『九十歳。何がめでたい』(佐藤愛子・小学館)を読んだ。エッセイの名手といわれる93歳の作家がヤケクソで書いたというものだ。面白い、共感するところ多々ありである。「”のんびり”のおかげで、ウツ病になりかけているんじゃないか」「”人間はのんびりしよう”なんて考えてはダメだということが、九十歳を過ぎてようやくわかりました」。この部分が私を惹きつけた。70歳代に職を離れた私も、のんびりの時を迎えたが、実は憂鬱の日々だった。” のんびり”しない方が身のためなのである。プログで生気を取り戻した。

 私の90年はどうだったのか。自分史など語る気はない。戦後・70余年間の闘いの歴史のなかに、微力の自分も存在していた。特に鮮明な記憶は、60年、70年の安保闘争、アメリカのベトナム侵略反対、「沖縄を返せ」「革新府政の実現」に燃えていたこと。「おはよう大阪」のメロディとグリ―ンのヤッケが街中に溢れていた。87年の府知事選では、チアダンのメンバ―を募集した。若者の登場を期待したのである。「容姿、年齢、経験を問わず」。60歳余の女性まで「私も出たい」と言い出したことを覚えている。

 私が一昨年10月、90歳の誕生日を迎えたとき、メ―ルやフェイスブックを通じて、多くの方々から祝福のメッセ―ジをもらった。有難う。返礼とともに、ブログに書き込んだ。「90歳・旅の始まり」という記事である。91歳になったときのブログでは「私は、遠くなったと言われる激動の昭和を丸ごと生きた。20世紀を越えて21世紀を生きている。これからの10年、日本と世界はどう変わっていくだろうか。91歳の”昭和男”は、それを見たい、味わいたい」と記した。のんびりする気はない。ヤケクソにもならず、旅を續ける。


今、災害対策だ。酒盛り・カジノどころでないぞ!

2018-07-10 11:21:55 | 日記

  先日(5日)のブログのタイトルは「・・雨にも負けず」だった。予報が流されていたから「西日本の雨は、いっそう激しくなる」とは書き込んだものの、正直にいえば、それほど切迫感を伴ったものではなかった。だが、書き終わって、しばらくしてから度肝を抜かれた。わが近畿を含む西日本豪雨襲来の報に接したのである。以後の、河川の氾濫、洪水の実相がすさまじかった。崖崩れ、土砂崩れ、家も車も濁流に流される。死者、行方不明者が続々ふえていく。そのときの私は、おそらくテレビの前でポカンと口を開けていたのではなかろうか。

 

 気象庁は、今回の大雨を「平成30年7月豪雨」と名付けた。沖縄から北海道まで、広範囲の大雨となったから、とくに地名を入れなかったそうである。昨日、一転、空は澄み、熱い陽が照りつけた。梅雨明けが宣言された。学校の講堂だろうか、ク―ラ―もない風通しの悪そうな避難所に群れる被害者の姿をテレビで見た。猛烈に暑かろう。耐えられるだろうか。胸が痛くなった。せめて冷たい水でも、ふんだんに供給されれば、どれほど助かることだろうか。水は命なのだ。阪神大震災、寒い時だったが、民間からどんどん水が運ばれたことを思い出した。

 

 安倍晋三首相は、予定の外遊を中止した。当たり前のことだ。だが、大雨予報の出ていた5日夜に何をしていたのか。自民党議員との懇親会。どうやら ”呑み会””酒盛り”に出ていたと取沙汰されている。何の責任も問われることのない一介の老市民より、感度が鈍いのだろうか。非常災害対策本部会議ができたのは、多くの死者が出ていることが判明した後の8日だったとか。遅い!カジノ法案を所管する国土交通省にも求めたい。そんなもの止めて「災害対策、人命救助」に専念しろ。


待つ 雨にも負けず

2018-07-07 10:37:39 | 日記

  

 一昨日、5日は朝から雨。この日は定期診察の予約日だ。傘をさして自転車を走らせるほど若くはない。タクシ―を待ったが中々こない。あきらめて歩くことにする。地下鉄を乗り継いで馴染みの病院に着く。家を出てから50分かかっている。検査(心電図、血圧など)は待つことなく手早い。診察は1時間待った。結果は異常なし。以前に、狭心症をやった”前科”があるので、予防の薬を処方された。薬局でまた待たされる。1時間位だっただろうか。いつものことなのだが、病院、薬局は「待つところ」だと再確認する。

 

 患者数に比べて医師が少な過ぎるのだろう。薬局の出口には薬剤師募集の紙が貼られていた。待たされているのは患者だけではない。病院、薬局が医師、看護師、薬剤師を待っているのだ。こんな思いを抱きながら傘をさして家に向かう。昼はとっくに過ぎているのに空腹感が全くない。そして、尾籠な話だが下痢が始まる。何故か、原因が分からない。夜遅く寝付くまで、何回トイレにいったことだろう。朝、目を覚ましたら治まっていた。だが、自重して、朝、昼とも何も食べなかった。夜は普通に食べた。白ワインの一杯がメチャ美味かった。

 

 この日(6日)も雨が続く。うっとうしいが暑くはない。エアコンは使わず。夜、孫がくる。暑い!を連発する。「そんなことないで。今日は涼しいで」と言ったら「暑さを感じない、鈍感な年寄りが熱中症で死んだ話、知ってるやろう」と言われた。反論せずにエアコンのスイッチを入れた。西日本の雨は、いっそう激しくなる。大阪では、先月の地震被害の大きかった地域に、無情の雨が襲っている。避難所帯が続々。「カジノより災害対策だ」。こんな市民の声を報じたのは「しんぶん赤旗」だった。私の体調は回復している。梅雨なんかに敗けるか!