明日につなぎたい

老いのときめき

幸村ファンが見た「戦国のゲルニカ」

2016-01-30 11:59:51 | 日記

 

 真田幸村(信繁)は、私の小さい頃からのファンである。今もだ。去年の秋、火坂雅志の小説『真田三代』を読んだ。終わりの方で「力がすべてか、世には、強い者に靡かず、おのが誇りをつらぬく生き方もまたある」という幸村の生き様が描かれている。これに感ずることあって、ブログに『男のロマン』という記事を書いた。ありていに言えば、幸村は負けを覚悟していたと思う。比べるのはおかしいのだが、自分の人生体験とかぶらせて、幸村の「強い者に靡かず」という気概に共感するのである。

 

 渡辺 武さん(元大阪城天守閣館長)の『戦国ゲルニカ』(大坂夏の陣図・読み解き)を手にしたとき、真っ先に見たのは第3章にある真田幸村隊だった。ちょっと悩ましくなった。第4章の「殺し殺さされる合戦の実態」がショックだった。「両軍の戦死者の遺体が大阪の地に散乱した」と解説されている。幸村も「赤備えの隊」を率いて多くの相手を殺したことだろうと察する。動機がどうあれ、惨たらしい戦闘の指揮官となった人物のファンでいいのか。ちょっと引っかかる。徳川の大軍と闘った「日本一の兵(つわもの)」だと割り切っていいのだろうか。

 

 ゲルニカとは、ドイツ軍のスペイン・ゲルニカへの無差別都市爆撃(1937年)をピカソが描いた、反戦、抵抗のシンボルといわれた壁画のことだと聞く。渡辺さんは、徳川軍を侵略軍としている。幸村ファンは嬉しい。「略奪とそれに伴う殺傷が侵略戦争には不可欠の一要素であることが”夏の陣”でも証明された。”屏風”はそのことを見落とさずに告発している」「・・必ず無法な夜盗群を生み出し、その横行を強める・・ことを”屏風”は描き残している」と説く。この書も反戦・平和を訴えている。


故人の集大成

2016-01-26 17:44:55 | 日記

 

 昨今、友人の訃報が続いている。私より年下の人が多い。少しばかり私が長生きしていることになるのか。7年余り前に、このブログで『生死の価値ー友を偲んで』という記事を書いた。その前半と後半に「生前の彼を語るために、なによりも自身とのかかわりを想う・・彼の人柄や業績、彼から何を学び得たかを顧みる・・それが尊い遺産として、現在、未来に生きるものに受け継がれる」という文言がある。こんな”恰好いいこと”をなぜ書けたのか。葬式・告別式に似たような”偲ぶ会”に出ていたからである。故人を追想する場がいかに大事なことか、改めて痛感している。

 

 「結婚式はつまらないけれど、葬式は面白い」と言った人がいる(養老 孟司・死の壁・新潮新書)。「弔いの家に行くのは酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終わりがある。命あるものは心せよ」という旧約聖書まで引用している。そして「結婚式よりも葬式のほうが”主役”、がんばって特色を出そうとしてもどれも大差はない。大体似通った年齢の男女が出てくるのだから。しかし、葬式は故人、家族によって実に違います。葬式は故人の集大成のようなものです」と。故人が主役で個性が出る場だというのが面白い。

 

 今日も、突然に死んだ友人の葬式に参列した。久しぶりに旧知の人たちに会う。何人かが「こんな時になると会えまんなあ」と言った。葬式が交流の場になっているのだ。故人は生前、解放運動途上で亡くなった人や家族たちの世話役として働いてきた人物である。その彼が死んで仲間たちを集めてくれた。価値ある死であった。主役の突然の死に驚き、悲しんだ身内の人たちも、彼の人生、集大成に誇りをもたれることだろう。人は必ず死ぬ。だから、それまでに生きることを大事にしたい。それを実感しない輩は原発や兵器を造る。


国の決定が死を呼ぶ

2016-01-23 11:33:11 | 日記

 

 17日付ブログの続き。長野県軽井沢のスキーツアーバスの転落事故から1週間余が過ぎた。事故原因の解明はまだ途中だが、様々な問題点が浮上してきている。事故の背景には0年、02年の貸し切りバス事業に対する国交省の規制緩和があったといわれる。事業への参入は免許制から許可制に、料金は上限だけの認可制になる。これが小規模新規参入企業の乱立、過当競争を招く。旅行社はバス業者に安値を求める。バス側はコスト・ダウンのために運転者にしわよせする。経験の有無、健康状態も軽く扱われる。それらが悲惨な大事故につながった。

 

 私は釈然としない。交通事業は公営、民営を問わず、人の命を預かる公共性をもった事業である。いわゆる規制緩和をやったら、どんな事態が生じるか、政府当局は考えもしなかったのだろうか。大手はともかく、中小の旅行、バス会社は激しい業界競争に勝ち残るためにコスト削減をはかる。労働基準法に違反する苛酷な労働条件で働かせる。これがが何をもたらすか、視野の外だったのか。管理、監督の立場にある関係官庁が、事故が起こってから慌てるのは無責任の極みではないか。事前の認識があったら事故はなかったのに。悔しくて仕方がない。

 

 「ああいう立場に立つ人間は、自分の下す決定で、人を殺す可能性がある」と言った人がいる。昔の日本帝国軍隊の上官がそうだったし、いまの自衛隊の司令官にもあてはまるだろう。国交省は軽々しい規制緩和で危険な自由競争を呼び込んだ。ここだけではない。原発推進の経産省もそういえるだろう。その前科(福島第一原発事故)があるではないか。さらに、最大の人を殺す可能性を孕んでいるのは、安倍政権が強行した安保関連法(戦争法)だと言いたい。今度のバス転落事故で国がどんな態度を示すか。注目しよう。


あゝ 無残

2016-01-17 14:08:22 | 日記

 14日、自民党の桜田元文部科学副大臣が、旧日本軍の慰安婦は「職業としては娼婦だ。ビジネスだ」という大暴言を吐いた。私はこの報に接して、これは黙っていられない、さぁ書くぞと腹を決めていた。だが、何が起こるかわからない日本社会である。私のやる気を制するような事件が勃発した。15日未明の軽井沢バス転落という大惨事である。乗客は18歳から20代の若者、乗務員2名を含む14人(男9人、女5人)が死亡、27人が重軽傷。無残!この記事や映像を見た私の手は止まってしまった。

 バスの運転手は採用されたばかりの契約社員、健康診断も適性検査もされていなかったとか。過労運転ではなかったのか。運行経路をなぜ高速から一般道に変更したのか。貸し切りバス事業が免許制から「許可制」に規制緩和されたのはどうしてか。素人の私でもこんな疑問が湧いてくる。事故原因が究明されていけば、民間の旅行社、バス事業者のみならず、国の責任も問われ、それが悲劇の再現防止につながればと思う。しかし、死者は帰らない。遺族の心の傷は癒えない。それが何とも痛々しい。

 今日はそれから3日目である。「慰安婦問題」の桜田発言に戻る。(慰安婦)は、旧日本軍によって、本人の意思に反して強制使役の下におかれ、性奴隷状態にされた犠牲者である。櫻田氏は、この人たちを職業売春婦だと侮辱した。「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」とする政府見解も、昨年末の日韓合意での安倍首相の言明「心からおわびと反省の気持ち」「元慰安婦の方々の心をいやす措置を講じる」も真っ向から認めない。時代の流れから逆立ちしている。暴虐を働いた旧陸軍の亡霊か。

 まともな政党なら除名するだろう。議員辞職を迫るだろう。だが、菅官房長官は「いちいち議員の発言に答えるべきてない」と片づけた。桜田氏本人は「私の発言について誤解を招いたから撤回する」とコメントした。悪かった、間違っていたとは言わない。安倍首相たちの”心底”に安堵があるからなのだろうか。桜田氏は、歴史の真実を否定した。人間の尊厳を冒涜した。日韓の信頼関係を損ないかねない妄言であった。人々は誤解どころか、この大間違いをよく理解したのである。今日の二つの話題に共通するのは人の命である。


政治に多言を要さず

2016-01-13 14:40:54 | 日記

 「政治に多言を要さず」。誰が言ったのか覚えていないが、テレビの国会中継などを見ると、この言葉が浮かんでくる。特に安倍総理と中谷防衛相の答弁がメチャ長い。12日午後、沖縄問題での中谷防衛相と赤嶺議員(共)との討論もそうだった。その一例。赤嶺「普天間基地返還の日米合意後も、米軍ヘリの飛行経路が市街地上空まで拡大された。政府はやめろと言ったのか」。中谷「その点は確認しなければ・・。ヘリの飛行は列車がレールを走るように定められたところだけ飛行することはできない。風向きや天候の影響など安全にヘリコプタ-を運用していくことが必要ではなかったのか」。長々とヘリの安全を喋る。答弁原稿がそうなっていたのだろう。赤嶺「住民の安全を考えてないではないか」。

 アフリカ東部のジブチ国際空港周辺に陸海自衛隊約580人が駐留している。米軍、仏軍もいるところだ。ソマリア沖アデン湾の「海賊対処」のためとされていたが、今は海賊はいなくなっている。だが、防衛省は、この海外基地を一層活用する方策を検討している。この問題も国会で取り上げられた。笠井議員(共)「米国から軍事作戦への協力要請はあったのか」。中谷「相手国のこともあるのでお答えを差し控えさせていただく」。オバマ米大統領が各国に軍事支援を求めているのに明言しないのはなぜか。国民に知られたくないこと、肝心なことはは答えない。たらだらと喋りまくるのは問題をそらすための常套手段なのだろう。

「日本に攻撃がなくても、密接な関係にある他国が攻撃されれば、我が国の存立を全うするためのやむを得ない措置として武力を行使する」(2014・7・1閣議決定)。憲法違反の集団的自衛権行使を可とする安保法制(戦争法)は、ここから出発した。安倍総理は国のためだと盛んに言った。だが、国民は理解していない。「これから丁寧な説明をする」と言いながら、何を言っているのか分からない国会答弁を繰り返している。18世紀、英国文壇の大御所、サミュエル・ジョンソンは「国のためというのは、悪党の最後の逃げ口上である」と言った。紀元前のギリシャの政治家デモステネスは「話すことの2倍、人から聞くべきである」と言った。安倍政権・与党連中には、世界の先人たちの名言、名句など眼中にないのだろうか。