明日につなぎたい

老いのときめき

「蝉時雨」について

2020-02-08 16:51:37 | 日記

 『民主文学』(2020・2・鴨川耕作)掲載の小説だが、戦争体験者の戦記ではない。主人公は戦後生まれの洋介という人物。その父と叔父が体験者である。叔父は沖縄戦に参加、父は特攻機のパイロットだった。いずれも死を免れ戦後を生きた。もはや数少ない、生き残った人から聞いて描いた小説だと思うと、貴重な作品だと言ってもよいのだろうか。蝉時雨とは、広辞苑によれば「蝉が多く鳴きたてるさま」とある。蝉の地上での生命はごく短い。多くの死者を出した戦争から生き残ったものの哀歓を蝉に重ねたのだろう。

 

 この作品の後半にある。父の特攻機は沖縄をめざすが、整備不良で洋上に不時着、必死に泳いで屋久島にたどりつく。「本当は死ぬはずだったが、生きて帰ってきたんだよ」「どの面下げて帰隊するのか・・・。島にいる間中、悩みぬいた」。生まれ育ったところにも住めない。瀬戸内に面した自宅に住み、農作業中に脳梗塞で倒れ、半月後に死ぬ。洋介の叔父、金治が陽の当たった墓前で水をかけながら語る「・・・兄貴は六十何年ぶりに何の気兼ねなしに里帰りできたんだよ」。金治が敗走した60余年前の沖縄もこんな太陽が照りつけていた。

 

 戦争は、理不尽に人の運命を支配する。私事だが、二つ違いの兄に召集令状がくる。家族で”壮行会”、歌ったのは軍歌ではない。「誰か故郷を思わざる」だった。以後、音信不通。敗戦の年、1945年の終わり頃、ひょっこり帰ってきた。満州(現中国東北部)に送られたが”本土決戦用”で宮崎県に戻され、塹壕堀りに明け暮れしていたという。私は18歳で繰り上げ徴兵検査、召集されれば沖縄が内地のどこかに送られていただろう。8・15に日本降伏、軍隊解散、私の運命は変わった。近所の神社には木が茂っていたが、何故か、蝉の声を聞いたことがない。時雨の音はしばしば耳にしていたが。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿