《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
一般に、「羅須地人協会時代」の賢治は農民たちに対しての肥料設計や稲作指導のために東奔西走したとか、同じく、貧しい農民たちのために献身したといわれているようだし、私もつい先頃まではだいたいのところそのように認識していた。それはおそらく、これまでに接してきた関連図書の記述あるいは「通説」を素直に信じ込んできたからだ。そして実際その時代を検証してみたところ、少なくとも農閑期の肥料設計についてはたしかに農民たちのために奔走していたこともあったからある程度は納得できた。ところがもう一方の稲作指導、とりわけ農繁期における稲作指導に関してはそれ程のことは見出せなかった。そこで私は、現在所有している関連図書等を改めて渉猟し、「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期における稲作指導のために奔走したということと関連しそうな記述をもう一度洗い出してみることにした。まずは何はともあれ、『新校本年譜』からそれを以下に拾い上げてみたい。
〈大正15年〉
八月中旬 森佐一あて葉書(書簡219)で、二十二日の盆(旧暦七月一五日)から例の肥料の講演や何かで村を歩きまわらねばならぬので……
〈昭和二年〉七月中旬 七月末の雨の降りようについて、あるいは降雨量について盛岡測候所の年々の記録を調べ、予報をきき、指導した農家への対策を講じる。
〈昭和三年〉七月一八日 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるよう、堀籠文之進へ依頼。
七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教へられた事がある。
先生は先に立つて一々水田を巡り色々お話をしてくださつた。先生は田に手を入れ土を圧して見たり又稲株を握って見たりして、肥料の吸収状態をのべ又病気に対しての方法などわかり易くおはなしして下さつた。」
そして今更ながら気付いた、「羅須地人協会時代」の2年4ヶ月の間にたったこれだけの記述しかなかったのだということに。もちろん、これらの記述からだけでは賢治が農繁期の稲作指導のために東奔西走していたということは担保されそうにない(しかも、これらの記述が皆事実であったとは言い難いことは先に実証したとおりであるし、抽象的な表現でしかないのものもある)。ということは、私の先の「認識」は一体どこから来たものだったのだろうか。七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教へられた事がある。
先生は先に立つて一々水田を巡り色々お話をしてくださつた。先生は田に手を入れ土を圧して見たり又稲株を握って見たりして、肥料の吸収状態をのべ又病気に対しての方法などわかり易くおはなしして下さつた。」
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《鈴木 守著作案内》
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☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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