みちのくの山野草

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「グスコーブドリの伝記」(冷害と旱害の記述)

2017-02-11 10:00:00 | 賢治作品について
 まずは「グスコーブドリの伝記」(『ちくま日本文学全集 宮沢賢治』(筑摩書房)所収)における、冷害旱害に関する主な記述をピックアップして並べてみると大体以下の通りであろう。

◇そして、ブドリは十になり、ネリは七つになりました。ところがどういうわけですか、その年は、お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけるとまもなく、まっしろな花をつけるこぶしの木もまるで咲かず、五月になってもたびたび霙がぐしゃぐしゃ降り、七月の末になってもいっこうに暑さが来ないために、去年播いた麦も粒の入らない白い穂しかできず、大抵の果物も、花が咲いただけで落ちてしまったのでした。
 そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗の木は青いからのいがばかりでしたし、みんなでふだんたべるいちばんたいせつなオリザという穀物も、一つぶもできませんでした。野原ではもうひどいさわぎになってしまいました。


その年もまたすっかり前の年の通りでした。そして秋になると、とうとうほんとうの饑饉になってしまいました。

ところがその次の年はそうは行きませんでした。植え付けのころからさっぱり雨が降らなかったために、水路は乾いてしまい、沼にはひびが入って、秋のとりいれはやっと冬じゅう食べるくらいでした。来年こそと思っていましたが、次の年もまた同じようなひでりでした。それからも、来年こそ来年こそと思いながら、ブドリの主人は、だんだんこやしを入れることができなくなり、馬も売り、沼ばたけもだんだん売ってしまったのでした。
 ある秋の日、主人はブドリにつらそうに云いました。
「ブドリ、おれももとはイーハトーヴの大百姓だったし、ずいぶん稼いでも来たのだが、たびたびの寒さ旱魃のために、いまでは沼ばたけも昔の三分の一になってしまったし、来年はもう入れるこやしもないのだ。おれだけでない。来年こやしを買って入れれる人ったらもうイーハトーヴにも何人もないだろう。

◇「もうどうしても、来年は潮汐発電所を全部作ってしまわなければならない。それができれば今度のような場合にもその日のうちに仕事ができるし、ブドリ君が云っている沼ばたけの肥料も降らせられるんだ。」
旱魃だってちっともこわくなくなるからな。」ペンネン技師も云いました。ブドリは胸がわくわくしました。山まで踊りあがっているように思いました。じっさい山は、その時はげしくゆれ出して、ブドリは床へ投げ出されていたのです。

◇次の年の春、イーハトーヴの火山局では、次のようなポスターを村や町へ張りました。
「窒素肥料を降らせます。
今年の夏、雨といっしょに、硝酸アムモニヤをみなさんの沼ばたけや蔬菜ばたけに降らせますから、肥料を使う方は、その分を入れて計算してください。分量は百メートル四方につき百二十キログラムです。
雨もすこしは降らせます。
旱魃の際には、とにかく作物の枯れないぐらいの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなって作付しなかった沼ばたけも、ことしは心配せずに植え付けてください。」

◇そしてちょうどブドリが二十七の年でした。どうもあの恐ろしい寒い気候がまた来るような模様でした。測候所では、太陽の調子や北のほうの海の氷の様子から、その年の二月にみんなへそれを予報しました。それが一足ずつだんだん本当になって、こぶしの花が咲かなかったり、五月に十日もみぞれが降ったりしますと、みんなはもう、この前の凶作を思い出して生きたそらもありませんでした。クーボー大博士も、たびたび気象や農業の技師たちと相談したり、意見を新聞へ出したりしましたが、やっぱりこの烈しい寒さだけはどうともできないようすでした。

 もちろん、「沼ばたけ」は田圃、「オリザ」は稲のことであろう。
 さて、ではこれら全体から受けた印象は何かと言えば、「グスコーブドリの伝記」においては稲の冷害に関する記述に較べて旱害に関する記述があっさりしているのではなかろうかということである。前者に関しては結構具体的なことも書いてあるが、後者に関しては単なる一般論に過ぎないと思ったからだ。

 一方、この「グスコーブドリの伝記」は昭和7年3月発行の『児童文学』第二冊に発表されたものであり、その下書と思われる「グスコンブドリの伝記」は昭和6年頃に成立したもののようだという(『宮沢賢治必携』(佐藤泰平編、學燈社)107p)。
 そしてこのように、「グスコーブドリの伝記」が旱害や冷害を扱っている以上は、その頃の冷害や旱害があったとすればその実態を知っておく必要があろう。ところが、私の管見の故かもしれないが、この「グスコーブドリの伝記」とこの頃の岩手や稗貫の冷害・旱害について実証的に論じた賢治研究家はほぼいないようだ。もっと精確に言うと、そのような研究家がいないわけでもないが、せいぜいそこで触れているのは明治時代以前の冷害が殆どだった。残念ながら昭和6年の冷害は全く、大正2年の大冷害でさえもほぼ触れていない。まして、賢治が生きていた当時頻繁に起こっていた旱魃、そして旱害については極めて不思議なことに一言も言及していなかった。
 そこで、次回は当時の冷害の実態をまず調べてみよう。なぜなら、まさにその昭和6年といえば東北や北海道もそうだったが、岩手もかなりひどい冷害だったからだ。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)          ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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