みちのくの山野草

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「グスコーブドリの伝記」(昭和6年の冷害)

2017-02-12 09:00:00 | 賢治作品について
 まず今回初めて気付いたことがある。それは、「グスコーブドリの伝記」で扱われている主な冷害はブドリが10歳の時であり、次がその17年後の27歳の時だからこれは当時の岩手の冷害のことをほぼそのまま反映しているのかもしれないということである。当時の冷害と言えば大正2年の大冷害以降は、「気温的稲作安定時代」がしばらく続き、下図のように次の冷害は18年後の昭和6年だったからだ(この安定時代には大正15年と昭和4年の不作があるがこれらは旱害による)。
【Fig.1 岩手県水稲反当収量推移】

          <素データは『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修、農林統計協会)より>
 それゆえ、大正3年に盛岡中学を卒業してから下根子桜撤退までの間に賢治は旱害の経験はあったが、冷害の経験はゼロだった。だから、農学博士ト蔵建治が次のように論じている通り、
 この物語(投稿者注:「グスコーブドリの伝記」)が世に出るキッカケとなった一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。…(投稿者略)…この物語にも挙げたように冷害年の天候の描写が何度かでてくるが、彼が体験した一八九〇年代後半から一九一三年までの冷害頻発期(図2・2)のものや江戸時代からの言い伝えなどを文章にしたものだろう。
               <『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)15p~>
と私も基本的には思う。
 ただし、この「グスコーブドリの伝記」は昭和7年3月発行の『児童文学』に載ったものだし、その下書きと言われている「グスコンブドリの伝記」は昭和6年に成立したもののようだということだから、賢治はこの時の冷害のことも大いに参考にしていたに違いない。それは、それ以前の大冷害は大正2年のことだから、その頃賢治は盛岡中学の5年生、まだ農業に関心もなかったであろうからその時の冷害の惨状などはよく覚えていなかったであろうと考えられるからである。
 しかも、この年昭和6年の賢治は『東北砕石工場』の嘱託であり、あるいは体調不良を押しての上京、その後は病臥していたから、この時の冷害に関しての実体験は乏しかったであろうから、「グスコーブドリの伝記」における冷害に関する描写のヒント等は当時の『岩手日報』の新聞報道等からも得ていたであろうことが容易に想像できる。そこで当時の、直近のとも言える同年の冷害に関する同紙の記事をいくつか拾ってみよう。

 例えば、
【Fig.2 昭和6年10月2日付『岩手日報』】

 本県卅万石減収 各郡市別収穫予想高
近年稀な天候の不順によつて本年度の水稲作柄は各方面から凶作を予想され県は稍不良の測定を下してゐる折検討計係は本年度末の第一回予想収穫高を一日発表した、その結果によると九月三十日現在における収穫予想高は九万一千七百六十五石でこれを前年度の実収高に比較すると三十万三百九十六石即ち二割五分二厘の減収を示すに至つた、減収の理由としては
     ◇
一、苗代期中の天候は播種後四月下旬までは不順な天候で綿腐敗病の発生を見たが六月上旬頃から日照時が多くなつて多少の恢復となつた所中旬以降の低温伸長、分けつが不良となつたこと
一、田植当時低温で日照時少いため活着及生育が非常に遅く分けつが稍多くなつたが草丈著しく低かつたこと
一、大暑以降の気候は七月下旬に於て低温となり八月上旬の度々の降雨によつて稲は急遽なる成育を示し八月中旬以降は同月下旬後半に亘つて数日間を除き高温日照時が多かつたため生育が促進され今までの遅育が幾分恢復となつた
    ◇
二百二十日以降の気象は一般に降水量多く九月上旬に於ては低温にして且つ著しく寡照であつたが同月中旬に及んで高温を示すに至り而して病虫害、暴風雨等の被害は比較的少なきも穂傷多く成熟期は一般に著しく遅引した結果前記の減収を見たものと予想されてゐる各郡別の予想収穫高を示すと左の通り
      …………
     稗貫 △一五、二三九
      …………
ということで、前年の昭和5年は豊作であったとはいえ、現実は豊作貧乏となってしまって農村は逼迫しているところへもってきて、この昭和6年は凶作で前年比約3/4の収穫高の見通しとなったのだからますます農家が困窮したであろうことは明らかである。
【Fig.3 昭和6年10月3日付『岩手日報』】

 東北北海道不作 憂ふべき状態だ 米作第一回予想収穫高に関して 町田農相閣議に報告
(東電)町田農相は二日の閣議席上全国の米作第一回予想収穫高に関して左の如く報告をなした
 …その内最も困つた問題は北海道で昨年二百七十八万石に対して本年は百八十八万石の減という殆んど三割余に当たつてゐるから殊に考慮が必要である。尚青森は本年は六十九万石で昨年に比し三十七万石の減少を示して居りある郡によつては収穫皆無と見られる所もある…
ということであり、この年は岩手のみならず東北と北海道の稲作はかなりの不作であることが判る。
 月が替わって11月、和賀郡は凶作で、それも収穫皆無の水田がかなり多いことが知れる次のような報道があった。
【Fig.4 昭和6年11月6日付『岩手日報』】

 収穫皆無で 稗和両郡免租地 和賀は酷く三千八十町歩 花巻税務署調査成る
花巻税務署では十月下旬から管内稗貫和賀両郡下の収穫皆無、免租地の集計中であつたが四日大体完了した。この結果だと和賀郡は最も甚だしく
△沢内申請  二、二〇〇筆
   反別    二二〇町歩
△湯田    一、〇〇〇筆
   反別    一〇〇町歩
△谷内      六〇〇筆
   反別    三〇〇町歩
△和賀計   四、一〇〇筆
       三、〇八〇町歩
にして稗貫郡は僅かに八幡、石鳥谷の一部で三町五反歩と数へられてゐるこれは全部水田のみであるが畑作も気候不順のため五分通り不作で大根のみは平年作であり毎年鉱山方面に売り込んでゐた大根も本年は湯田、沢内両村の申合せで売却せぬことになつた、兎に角罹災者は日に増して食糧難に襲はれてゐるので村当局では罹災救助基金の流用方を県に陳情することになつた
和賀郡下の多くの農家の困窮は明らかで、先が思いやられる。
 そこで岩手県としても、凶作に対する救済案は早い段階から講じていたことが分かるのが次の記事である。
【Fig.5 昭和6年11月10日付『岩手日報』】

 凶作の農村を救ふ 被害地方の報告に先んじて 県農務課の救済案
凶作地方の農家救済策に就いて県農務課では被害町村からの報告を俟つた上で対策を樹てたのでは遅いとあつて九日左記の様の救済具体案を作製、県の罹災救助基金の運用と相俟つて近く実施の準備にとりかゝることになつた。種籾の配布に付いては県社会課と更に協定を遂げた上で決定を行う筈、決定された救済案左の如し
◇積雪期中の対策
一、救助米を必要とする場合に於ては各町村罹災救助費金支出せしめて之を行うこと
一、食糧不足にして政府古米の払下を希望する町村には県に於て之を斡旋をなすこと
一、町村の事情により県は出来得る限り氷豆腐の製造伝習会を開催しその製造を奨励し併せて販路の斡旋に努むること
一、海岸地方の町村に鰮味淋干製造を奨励し講師等の人選に付ては県に於て斡旋をなすこと
一、国有林及び御料地の製炭材の無償又は低額払下を受け製炭をなさしむること
一、国有林並御料林内の蕨根の採取を無償にてなし得るやう県に於て交渉すること
◇其他の対策
一、県は水稲三分以下の農家に対し一反歩五升の割合を以て種籾の交付をなすこと
一、明春国有林及び御料林内の蕨を無償交付を受け干蕨の製造を奨励し製造講師等の人選は県に於てあっせんすること
一、明春馬鈴薯の増殖を不作地に極力奨励を行ふこと
そして引き続いて次のような報道がなされていた。
 収穫減の山村へ 救ひの製炭資料 林野局盛岡出張所で救済の準備 雑木四十万石特売
 本 県北部の非常凶作に畏き辺りに於かせられては、御料淋所在町村の被害著しき御料林耕作地使用者に、耕作料の免除減額の御内意を拝聞するに至つたが、本県御料林管理者たる林野局盛岡出張所では所在町村非常凶作救済の一切の準備を了し本局の指令を待つばかりになつてゐる
 出 張所所管の御料林野の面積は五万町歩で放牧採草地二万五千町歩内民間貸付は一万八千町歩貸付料一町歩九十銭で耕作地は水田二十町、畑一千三百町歩で貸付地の被害状況は放牧採草地における影響は、財界不況による畜産業者の苦痛に止まり、耕作地は
 水 田三分作平均畑平均五分作でこれの救済を所在岩手郡一方井村二戸郡浄法寺、斗米、御返地及び上閉伊郡一部山村への救済策としては十二月までに四十万石の雑木製炭材の現地公売或ひは特売をなして生業資料に充てしむる事になつて居り、公売、特売の割合は公売六割、特売四割となつてゐる…
ということで幾つかの救済具体策が理解できる。
 そして翌々日の記事には、
【Fig.6 昭和6年11月12日付『岩手日報』】

 七割以上減収見込 二千四百九十町歩 うち稲作の被害八割以上を占む 十一日現在本県作況被害
不順な天候に打ちのめされて県下各方面の稲作畑作の作柄は昭和二年以来の凶作と見られてゐるので県では先頃から七割以上減収見込の町村に付いて調査を重ねてゐたが十一日現在で県に報告された七割以上の減収見込面積は二千四百九十五町八段一畝歩(畑作含む)で中稲作の被害は八割以上を占めて二千百二十七町六段一畝歩を示してゐることが判明するに至つたが未報告の気仙下閉伊両郡を加へると二千六十七町歩に上るのではないかと憂慮されてゐる被害の最多は二戸郡の六百十八町歩、盛岡市胆沢郡の各二十町歩が最少で西磐井郡には被害なしと報告されてゐる各郡市の凶作面積左の如し
                   (単位町)
 盛岡市二〇△岩手郡五一五△紫波郡三一△稗貫郡一六△和賀郡三八七△胆沢郡二〇△江刺郡六七△東磐井郡四七△上閉伊郡八三△九戸郡三二八△二戸郡六一八
とありいまひとつはっきりしないが、同日の別な記事として、何と前年の約三割減だという次のような報道もあった。いくら前年昭和5年が豊作だったとはいえ、かなりの凶作のようだ。
【Fig.7 昭和6年11月12日付『岩手日報』】

 凶作を示す 本年の稲作は 昨年の約三割減 第二回予想高発表
十一日検討計係から発表された本年度第二回米収穫予想高は昨報の如く九十二万四千八百二十六石で第一回予想収穫高より三万三千余石の増収を見たが更に之を五年度実収高に比較すると二十六万七千二百三十五石(二割八分八厘)の減収を示すに至り県の予想する凶作を裏書きするやうな作柄である殊に今回の収穫予想高は不良を伝へられた昭和元年度の実収高九十四万七千四百七十二石よりも二万二千余石の減を来してゐることで、米価安の折この点頗る注目されてゐる各郡市の五年度実収高に対する比較増減左の如し(単位石)
     第二回収穫予想高  五年度比較増減△印減
 盛 岡   五、八三四    △  一、四一八
 岩 手  一〇三、七四三  △ 四九、二二二
 紫 波  一一七、七一一  △ 二一、六〇四
 稗 貫  一〇九、六三四  △  二、九〇一(2.5%減)
 和 賀  一一二、九三三  △ 二五、七八一
 胆 沢  一三五、八二八  △一一八、〇五三(46.5%減)
 江 刺   七五、八三六   △ 一四、四二三
 西磐井   八六、九七八  △ 一〇、三四〇
 東磐井   七一、八七三  △ 一五、五五四
 気 仙   二四、六二二   △  七、七八九
 上閉伊   三九、三八六  △ 二〇、〇三七
 下閉伊  一〇、三四六   △  五、三六四
 九 戸  一四、八九一   △ 二一、四四七
 二 戸  一三、二〇八   △ 一七、四〇二
とあり、県全体で「二割八分八厘」もの大幅な減収となりそうだという報道であった。中でも胆沢郡はかなり深刻で46.5%もの大幅な減収見込みである。ところが、稗貫郡だけは案外そうでもなさそうで前年昭和5年は豊作年であったから、2.5%減であればそれ程悪そうではないということが判る。
 そして次第に昭和6年の凶作の実態が明らかになってきて、次の記事には
【Fig.8 昭和6年11月15日付『岩手日報』】

 県下の収穫皆無地 二千六百八十一町歩
十三日現在における凶作面積は田二千百七十五町歩、五百六町歩合計二千六百八十一町歩でこれ等は何れも三分作とはいふものゝ収穫皆無と見られるものであるが日を追うに随つて凶作面積の増すのには県も非常に驚いてゐる田作の三分作となつた各郡市の面積左の如し(単位町)
 盛岡二〇△岩手五七三△稗貫一六△和賀三九一△胆沢七五△江刺七三△西磐井ナシ△東磐井四九△気仙ナシ△上閉伊一七二△下閉伊三三(但し畑作)△九戸五七五△二戸六六六
とあった。三分作とはいっても収穫皆無というのが実態である水田がかなり多いことが解るし、和賀郡もその面積は多いが、九戸郡や二戸郡などはそれ以上の被害を受けていた事も解る。山背の影響を諸に受けたせいだろうか。
 そしてその和賀郡に関する報道が同紙面にあり、それは次のようなものであった。
 和賀の稲作二割減
和賀郡農会では郡下農作物の収穫予想を大体左の如く見てゐる、水田稲作は刈入れ前と同様湯田、沢内両村をも加へて平均二割減収とし大豆小豆は平年作で蔬菜類も大体平年作であると
平均2割減ならばそれほどの激甚とは言えないのではと思ったのだが、和賀郡の冷害の深刻さは後の記事で知れる。
 一方で、福井規矩三が所長を勤めていた盛岡測候所は
【Fig.9 昭和6年11月15日付『岩手日報』】

 本年の稻作期間は低溫・多雨の惡条件
   減収は當然免かれなかつた
     盛岡測候所發表
本年稻作期間即ち四月廿一日播種期當時より十一月一日収穫期に至る一九五日における管内氣象概要は十二日盛岡測候所より發表になつたが大体次の樣なものである
 苗代期間――四月下旬は日照時平年に比し少く、從つて氣溫も一、五度ほど低い雨量は多い、五月に入つては日照少く低溫雨量多い◆移植期間――六月日照少く氣溫低い雨量は幾分多なり◆繁殖期――七月は前月と同じく日照時少く著しく氣溫低下雨量少い◆出穂開花期間――八月下旬は日照少なく氣溫高い雨量多し◆成熟期間――九月日照多く氣溫中旬まで低く以後上昇一、三度高く雨量多い◆収穫期間――十月は日照少なく氣溫一七日頃まで高めだつたが以後ぐつと下る雨量は平年よりはるかに多い
以上の如く本年は代苗期間當時から面白くない氣候、低溫多雨の悪条件に当然減収は豫想される
とにべもない記事を寄せていた。
 そして一方で、失業者の多いことを示す次の様な記事もあった。
【Fig.10 昭和6年11月19日付『岩手日報』】

 迎冬の脅威 要救済失業者益々多し 本月一日現在調査の数字 県から窮状を報告
本月一日現在の失業者推定数は県社会課では調査の結果前月より二十一名の減三千八百十一名で失業救済事業最盛期にあつて僅か二十一名の減は冬を迎へて之等工事の停止を予想場合寒心に値する状況に置かれて居り数字を示すと
◇……給料生活者四百十一名(男三二八、女八三)日傭労働者二千七十七名(男一五八五、女四九二)その他労働者一千三百二十三名(男一、〇六三、女二六〇)合計三千八百十一名名(男二、九七六女八三五)
◇……要救済失業者は給料生活者五十四名、日傭労働者五百二十七名その他労働者三百四十八名合計九百二十九名(男七六八女一六一)で前月に比し五十三名の増加
要失業者の増加は他府県出稼労働者の帰郷が増える一方之等労働者は容易に就職の機会を得ない結果に基づくものであり推定調査結果は内務省に報告するに当り県では状況を左の如く報告した
一、失業救済事業として施行しある国道改良工事には十月中に於て二万八千六十八人、府県道改良工事に於て一万二千五百一人、合計四万五百六十一人を使役せるため相当失業者の数を減じたるが一面他府県へ出稼したる労働者の帰郷により労働機会を得ざるものありたるを以て要救済失業者数は前月より五十三名増加した
二、自労業者にして生活困難な状況にある者の数は冬季に入ると共に益々その数字を増すのの如く之れは本年の盛夏期に於て気候不順による農作物の減少に起因す
 当時は昭和恐慌、そして豊作貧乏だったので、農家の次三男が故郷に戻ったものの職にありつけず失業者が多かったということのようだ。
 そして引き続いて、いよいよ畏れていた記事が載っていた。それが次の報道である。
【Fig.11 昭和6年11月19日付『岩手日報』】

 わらびの根を掘る 沢内、湯田の農村民 自作農維持創設資金も延納する 凶作の村に冬の惨
和賀郡沢内、湯田両村における本年の稲作は三分作といふ凶作であり如何にして冬を越すかに悩まされてゐるこれがため沢内村では村内二十五戸が借入れてゐる自作農維持創設資金を延納することに決議し十七日石井村長が出村陳情したが自作農維持創設資金の延納は県下初めてのことゝ云はれてゐる出県の帰途黒沢尻駅で石井村長が語る
 本年の様な凶作は村始まって以来嘗てないことで水田稲作は殆ど全滅平均三分作といふ状態で食ふ米すらない家もある冬を迎へる用意として目下わらびの根を掘って貯蔵してゐるが斯うした窮状にある農民が如何にして自作農維持創設資金の納入が出来ないので県にお願ひして来ました
村始まって以来の激甚な凶作であるという。借金の延納どころか、食う米さえままならないので蕨の根さえ利用しようというわけだ。たしかにワラビの根からは澱粉がとれるらしいが、クズの根にくらべると僅かしかとれないと聞く。そのワラビの根を掘って凶作の冬を凌ごうとしたのだ。
 次は、昭和6年の不作の原因は悪天候のせいだけでなかったことが分かる記事である。
【Fig.12 昭和6年11月20日付『岩手日報』】

 米穀の不作は 肥料節約も一因 硫安の消費量が 二万トン減少す
(東電)今年は近年稀に見る米穀の不作を伝へてゐるがこれが原因としては第一に悪天候が祟つたことは勿論であるがなほ他に施肥量が少なかつたこともその一つの想像されてゐる即ち豊作の翌年は必ず施肥量を多くすべきであるのにそれが少なかつたことは農林省肥料課によつて調査された金肥使用額の減少によつて分かる即ち昭和四年度に於ては三億二千万円使用したのに比べて五年度は二億五千万円で七千万円の差を見てゐる尤も四年度後半から一割乃至一割五分安とはなつてゐるがそれでも使用量の少なかつたことを想像されるのである硫安の使用量は凡そ三万噸の減少を示してゐるから大して差はなかつたと見てもよいがその他も一たいに施肥量が少なかつたことが悪天候以外における不作の一原因と認められてゐる何しろ農村の疲弊に伴ひ自給肥料を多くし或ひは全く肥料なしに植ゑつけた地方もあるやうに伝へられてゐるが米価は下落する肥料は買へないと云ふ農村の疲弊状態がこれによつて裏書きされてゐる訳である
昭和5年の豊作飢饉がもたらした農村の疲弊によって金肥が購入しづらくなり、施肥量が少なかったことがその一因だという。悪循環を引き起こすことになるわけだ。
 そして、『炭を焼くより先づわらびの根を掘れ…』という見出しの、和賀が切羽詰まった状況下あったことを示唆する次のような記事もあった。
【Fig.13 昭和6年11月27日付『岩手日報』】

 炭を焼くより先づ わらびの根を掘れ 飢えと寒さ、湯田の六百余名 凶作の村十二町村
凶作に泣く山間地方の農家を救ふべく県山林課では国有林を払ひ下げを受けて生活に当てやうとする炭材及びワラビ採取面積の所要量を調査中であるが二十五日現在までに報告されたものは薪炭材三十三万三千三百石(中二千石は用材)ワラビ採取面積は三十五町歩を払ひ下げてくれと云ふ飢えと寒さに泣く涙ぐましい叫びであることが判つた、こうした苦しみにあへぐ方面は
 岩手郡玉山藪川組合村、浅岸、寺田△九戸郡大野村、侍浜△二戸郡姉帯、一戸、鳥海△稗貫郡大田村△和賀郡湯田村
十二ヶ町村で殊に被害激甚と見られてゐる湯田村の希望はワラビの採取が主なるもので同村の農家中六百二十四名が他から給食されねば寒い冬を越すことが出来ないと云ふ苦境にあるので薪炭材の払ひ下げよりも直接食物となるワラビを取つて最低限の生活を支えやうとするものでこの点非常に注目されてゐる、よつて山本山林課長は近く―県内の各営林署を訪ね情態を訴へ払下げの直接開始し救済の第一歩を踏むことになつた
 この記事の中の太田村とは、あの高村光太郎が疎開した太田村であろうが、その太田村などよりも湯田村は被害が激甚だったことが分かる。
 さてその頼みの綱の蕨の根だが、『炭を焼くより先づわらびの根を掘れ…』という見出しの記事が出た1週間後には次のような報道もあった。
【Fig.14 昭和6年12月3日付『岩手日報』】

  わらびの根も 掘りつくす 悲惨な沢内湯田両村民に 冬の副業はないか
村始まって以来の凶作に苦しむ和賀郡沢内湯田両村では今冬の用意に毎日一家をあげて付近の野山に行きわらびの根掘りに懸命となつてゐるが最近では付近一帯は全くそれも掘り尽くされ三里も四里も奥山まで入り込み爪から血を流して冬の安定を得様としてゐるお話しにならぬ此の悲惨な様子に両村当局では冬季中最も両村に適応した副業をやらせて収入のみちを与へ様と奔走中
たった1週間後にはそれが掘り尽くされてしまったということになる。しかも、湯田村のみならず隣の沢内村も等も同様であったことが分かるものであった。
 そして実際「グスコーブドリの伝記」の中にも、
 そしてみんなは、こならの実や、葛やわらびの根や、木の柔らかな皮やいろんなものをたべて、その冬をすごしました。
というように、冷害がひどくて飢饉となったので「わらびの根」を食べたという記述も出てくる。
 とはいえ、このようなことは南部藩・岩手では広く言い伝えられていたことであろう。岩手は南部藩時代からずっとケガチ(飢饉)の地だったからである。因みに『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)よれば、1600年~1976年(昭和51年冷害による凶作)までの冷害の年は下図のようだったという。
【Fig.15 岩手県における冷害の年表図】

この図からは、飢饉が引き続いた元禄・天明・天保ほどではないにしても明治末期、昭和初期でさえも幾度かの凶作があったことが分かるし、同著によれば、明治35年、38年、大正2年、昭和9年の作況指数はなんとそれぞれ39、34、66、44という凄まじいそれであったことも分かる。

 そして最も悲惨な記事は次の記事だった。この年昭和6年の凶作は県北の二戸郡や九戸郡も甚大だったのだが、その二戸郡の記事だ。
【Fig.16 昭和6年12月3日付『岩手日報』】

 娘を売る 悲惨な二戸郡 十一月中に六人が売らる 凶作の村に歳末迫る
不況に続く凶作で極度に困窮してゐる二戸郡の農山村は押し迫る年末を控へ債務に責められ動きが取れずに遂に娘を売つた者が出来た福岡署で判明したのみでも十一月一杯で六人もあり之等の内には遠く名古屋方面、東京新宿近くは宮城県若柳町、青森に酌婦として一ヶ月五円内外で三、四ヶ月の契約で売られてゐる
人間貧すれば鈍すで、自分の娘を身売りするというおぞましい事態まで起こっているという報道である。
 さしずめ最後の記事などは、次のシーンを思い起こさせる。
「私はこの地方の飢饉を救けに来たものだ。さあなんでもた喰べなさい。」二人はしばらく呆れていましたら、「さあ喰べるんだ、食べるんだ。」とまた云いました。二人がこわごわたべはじめますと、男はじっと見ていましたが、
「お前たちはいい子供だ。けれどもいい子供だというだけではなんにもならん。わしと一緒についておいで。もっとも男の子は強いし、わしも二人はつれて行けない。おい女の子、おまえはここにいてももうたべるものがないんだ。おじさんといっしょに町へ行こう。毎日パンを食べさしてやるよ。」そしてぷいっとネリを抱きあげて、せなかの籠へ入れて、そのまま、「おおほいほい。おおほいほい。」とどなりながら、風のように家を出て行きました。
             <『ちくま日本文学全集 宮沢賢治』(筑摩書房)358p>

 そこでこれらの記事を振り返って見れば、「グスコーブドリの伝記」の中での冷害に関する描写にこれらの新聞記事の内容が活かされたであろうことは想像に難くない。では次は当時の旱害について調べてみたい。

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