みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「なめとこ山の熊」(「星の王子さま」)

2017-02-25 10:00:00 | 賢治作品について
〈「この世で一ばん美しくって、一ばん悲しい景色」(「星の王子さま」(サン=テグジュペリ作、内藤濯訳、岩波書店)130p〉

 改めて「なめとこ山の熊」のラストシーンを思い出してみよう。それは、
 とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のやような月がそらにかゝってゐた。雪は青白く明るく水は燐光をあげた。すばるや参の星が緑や橙にちらちらして呼吸をするやうに見えた。
 その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのやうにじっと雪にひれふしたまゝいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったやうになって置かれてゐた。
 思ひなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのやうに冴さ冴えして何か笑ってゐるやうにさへ見えたのだ。ほんたうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したやうにうごかなかった。
              <『宮沢賢治全集7』(ちくま文庫)>

             〈西根山〉(平成17年1月29日撮影)
というものだった。そしてこのラストシーンの光景を私の頭の中に想い浮かべていた際に、もう一つ頭の中を過ぎったのがこの投稿のトップに掲げた「この世の中で一ばん美しくって、一ばん悲しい景色」だった。何故だったのだろうか。

 ……そして思い出した。それはかつて「星の王子さま」を初めて読み終えたときの感動と、今回「なめとこ山の熊」をじっくり読み終えた時の感動が瓜二つだったからに違いないということをだ。ただしそれは高尚なものでも何でもなく、極めて素朴な感動であり、読み終えた時に私は
    心が洗われるなあ。
としみじみ感じただけのことであったのだが。

 さて、それでは私はどうして「星の王子さま」を初めて読んだ時に「心が洗われるなあ」と感じたのだろうか。それを思い返して少しだけ考えてみれば、
 王子はバラの花にほとほと手を焼いて小惑星B―612番から逃げてきたのだが、そのバラが実は王子にとってかけがのない存在だっということに気付いて、その星に戻っていった。
のだということを知ったからだったような気がする。そして、王子と仲良くなった「ぼく」がその星を眺めながら、
    これが、ぼくにとっては、この世で一ばん美しくって、一ばん悲しい景色です。
             <「星の王子さま」(サン=テグジュペリ作、内藤濯訳、岩波書店)131p>
と語っていたからだったとも思う。
 つまり田下氏の卓見を借りれば、王子も「ぼく」も共に「不条理を止揚した」と解釈できないこともないということに私は気付いた。そして私のような者でも、そのような止揚を目の当たりにしてそこに「魂の昇華」見出して「心が洗われる」のだと、また、その象徴の一つがこの「この世で一ばん美しくって、一ばん悲しい景色」なのだと私は自分なりに理解できた。

 そしてもちろん一方の「なめとこ山の熊」においては、
 その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのやうにじっと雪にひれふしたまゝいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったやうになって置かれてゐた。
という光景もまさに「心洗われる」「この世で一ばん美しくって、一ばん悲しい景色」なのだと私には感じたられたからだと。これまた田下氏の言を借りれば、「小十郎はその宿命を受け容れ命を全うし」たことによって「不条理を止揚した」た結果、「魂の昇華」がこの場面にあったと私も感じたのだろう。

 こんな訳で、私の頭の中にこの「この世の中で一ばん美しくって、一ばん悲しい景色」が過ぎったのかと、私なりには理由付けができて、納得した。つまり、私の中では「星の王子さま」の感銘と「なめとこ山の熊」の今回の感動がかなり通底しているから、この景色が過ぎったのだろうと得心した。

 そして今もう一つ大事なことに気付いた。一般に賢治の童話作品は宗教(特に法華経)と切り離せないものが多いと思っていたし、なおかつ私は宗教のことがよく分かっていないという欠陥がある。ところがこの「なめとこ山の熊」は少なくともそれを抜きにして読めるし味わえる。そしてそのことは「星の王子さま」もしかりということにだ。だから私のような者でさえも「心が洗われるなあ」と素直に感動できたのだ、と。言い換えれば、「なめとこ山の熊」は宗教性を抜きにした、あるいはそれを越えた作品だと私には見えてきた。

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