みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

下根子桜(5/9)

2017-05-13 12:00:00 | 賢治渉猟
 過日、下根子桜の「賢治文学散歩道」を歩いていたならば、やはり改めに気になったのが
《1 この碑の記述だ》(平成29年5月9日撮影)

   …
   云はなかったが、
   おれは四月はもう学校に居ないのだ
   恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

   …
     告別(一九二五、一〇、二五)より抜粋

 宮沢賢治三十歳。賢治は四年余勤めた花巻農学校を辞しても果たさねばならない使命がありました。本統の百姓となり、自らが高らかに掲げた「農民芸術の理想」実現への挑戦です。
 ここ、下根子・桜の地こそがその道場でした。三年に満たない活動でしたが、この地で生まれた多くの作品に私達は賢治の求道の姿を見ることができます。

 かつての私ならば、そうだよなといたく感動しながらこの散歩道を歩いていたはずだが、賢治のことを、特に「羅須地人協会時代」を中心としてここ十年間ほど検証作業を続けてきた今ではどうもその当時とは違ってしまった。それは端的に言えば、
 「農民芸術の理想」実現への挑戦ということであれば、賢治は「恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう」などというようなことを詠う訳がない。
と私には思えるからだ。なんとなれば、もし理想実現のための挑戦であったとしたならば、ここにはこんな憂慮などではなくて展望や夢を詠むはずだと私は思うようになってしまったからだ。
 ちなみに、「告別」は以下のようなものだ。
三八四    告別      一九二五、一〇、二五、
   おまへのバスの三連音が
   どんなぐあいに鳴ってゐたかを
   おそらくおまへはわかってゐまい
   その純朴さ希みに充ちたたのしさは
   ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
   もしもおまへがそれらの音の特性や
   立派な無数の順列を
   はっきり知って自由にいつでも使へるならば
   おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
   泰西著名の楽人たちが
   幼齢 弦や鍵器をとって
   すでに一家をなしたがやうに
   おまへはそのころ
   この国にある皮革の鼓器と
   竹でつくった管とをとった
   けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
   おまへの素質と力をもってゐるものは
   町と村との一万人のなかになら
   おそらく五人はあるだらう
   それらのひとのどの人もまたどのひとも
   五年のあひだにそれを大低無くすのだ
   生活のためにけづられたり
   自分でそれをなくすのだ
   すべての才や力や材といふものは
   ひとにとゞまるものでない
   ひとさへひとにとゞまらぬ
   云はなかったが、
   おれは四月はもう学校に居ないのだ
   恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
   そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
   きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
   ふたたび回復できないならば
   おれはおまへをもう見ない
   なぜならおれは
   すこしぐらゐの仕事ができて
   そいつに腰をかけてるやうな
   そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
   もしもおまへが
   よくきいてくれ
   ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
   おまへに無数の影と光の像があらはれる
   おまへはそれを音にするのだ
   みんなが町で暮したり
   一日あそんでゐるときに
   おまへはひとりであの石原の草を刈る
   そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
   多くの侮辱や窮乏の
   それらを噛んで歌ふのだ
   もしも楽器がなかったら
   いゝかおまへはおれの弟子なのだ
   ちからのかぎり
   そらいっぱいの
   光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ
            〈『校本宮澤賢治全集第三巻』(筑摩書房)244p~〉

 そして例えば、原子朗氏はこの詩に関して、
 翌年三月かぎりで農学校をやめる決意は、この詩の書かれる大正十四年の十月頃には、すでに固まっていたものと思われる。「恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう」。自分の前途のきびしさを覚悟し、あえてそれにいどむ決意がうかがわれる。
と評している。
 確かにその通りで、賢治はこの時点でその決意は固めていたものと私も判断している。それは、それ以前の次の各書簡でそれぞれ、
◇1925年4月13日 杉山芳松宛書簡 205  
わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです。
◇1925年6月25日 保阪嘉内宛書簡 207
来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します
◇1925年6月27日 齋藤貞一宛書簡 208
わたくしも来春は教師をやめて本統の百姓になります。
と賢治は相手に伝えていて、いずれの書簡においても「来春は教師をやめて本統の百姓になります」というような意味のことをそれぞれ断言していたことからも裏付けられると思うからだ。
 ただし、「自分の前途のきびしさを覚悟し、あえてそれにいどむ決意がうかがわれる」という解釈ができるかというということになると、私にはできない。それは賢治は別に次のような、
◇1925年12月1日 宮沢清六宛書簡 214
この頃畠山校長が転任して新らしい校長が来たりわたくしも義理でやめなければならなくなったり
◇1925年12月23日 森佐一宛書簡 215
学校をやめて一月から東京へ出る筈だったのです。延びました。
ということを伝えていたからである。どうやら、年度途中に畠山校長と中野校長の入れ替えがなされたという、極めて異例な人事異動に関連して賢治は農学校を辞めざるを得なくなったという可能性があったということや、普通、教師であれば考えることさえも憚るような年度途中の1月の辞職を賢治は考えていたということになるからである。言い換えれば、生徒を二の次にしたとも言われかねないような賢治の花巻農学校の辞職の仕方は「あえてそれにいどむ決意がうかがわれる」というよりは、万やむを得ず身を引かざるを得なかったという可能性もあったと私には思えるからである。

 そしてもしそうであったとするならば、
《2 この詩碑の詩》(平成29年5月9日撮影)

     春   一九二六、五、二、
  陽が照って鳥が啼き
  あちこちの楢の林も、
  けむるとき
  ぎちぎちと鳴る 汚い掌を、
  おれはこれからもつことになる
との間には整合性があると思えてしまう。
 というのは、大正15年4月1日付『岩手日報』
   新しい農村の 建設に努力する 花巻農学校を 辞した宮澤先生
という見出しの報道からすれば、賢治自身相当意気込んで始めた下根子桜の農耕自活ではあったはずだが、それから一月ほど経った日に詠んだであろう上掲の詩からは当初の賢治の意気込みとは乖離した諦念の兆しさえも感じ取れるからである。さらに、この「春」の下書稿(二)である
  陽が照って鳥が啼き
  あちこちの楢の林もけむるとき
  おれは
  ひらかうとすると壊れた玩具の弾条のやうに
  ぎちぎちと鳴る 汚い掌を
  これから一生もつことになるのか
          <『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
と定稿とを比べてみると、そこには賢治の戸惑い、逡巡、気後れなどが一層透けて見えてくる。定稿では「これからもつことになる」となっている部分が下書稿では「これから一生もつことになるのか」となっているのである。つまり、もともと「あえてそれにいどむ決意」は賢治にはそれ程あったわけではなかったのだと思えてしまう。
 そもそも、開墾とは盤根錯節を取り除いて耕地にすることでありプロの農民にとってさえも極めて困難なことなのに、農民のアマである賢治にとってはなおさらに容易なものではなかったことは自明。そこで賢治は正直にポロッと、その現実に対するぼやきあるいは戸惑いとも取られかねない「汚い掌をもつことになるのか」という表現をしてしまい、この苦難がこれからず~っと続くのかという目眩が「これから一生」という表記をなさしめたのかもしれない、などと私は想像してしまう。
 さすればもしかすると賢治は相当早い時点で「覚悟」が揺らぎ始めていて、それを取り繕っている自分に逡巡し、後ろめたさを心の裡に抱いていたのかもしれない。そしてまた、「とかく天才は決断も早くて果敢であるが、一方では諦めるのも早い」傾向にあるともいわれているようだから、私もついつい頷いてしまう。

《3 》(平成29年5月9日撮影)

《4 ウワミズザクラも》(平成29年5月9日撮影)

《5 少しだけだが咲き始めた》(平成29年5月9日撮影)

《6 コウゾ》(平成29年5月9日撮影)

《7 》(平成29年5月9日撮影)

《8 クマイチゴ》(平成29年5月9日撮影)

《9 ニワトコ》(平成29年5月9日撮影)

《10 ミツバウツギ》(平成29年5月9日撮影)


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