今回ご紹介するのは「死神の浮力」(著:伊坂幸太郎)です。
-----内容-----
一年前、一人の少女が殺された。
犯人として逮捕されたのは近所に住む二十七歳の男性、本城崇。
彼は証拠不十分により一審で無罪判決を受けるが、被害者の両親・山野辺夫妻は本城が犯人だということを知っていた―。
人生をかけて娘の仇を討つ決心をした山野辺夫妻の前に、死神の千葉が現れる。
-----感想-----
この作品は「死神の精度」の続編となります。
死神「千葉」の物語が8年ぶりに帰ってきました。
今作は短編がいくつかあるのではなく、ひとつの物語が最後まで続いていきます。
物語は1日目、2日目というように、1日ずつ進んでいきます。
物語の中心にいるのは山野辺遼と美樹の山野辺夫妻。
山野辺遼の職業は作家です。
マスコミが二人の家に押し掛けているところから物語は始まります。
二人は一年前に娘の菜摘を亡くしています。
菜摘はまだ10歳でした。
そこからマスコミの押し掛けは一年もの間続いていました。
冒頭で「サイコパス」について触れられていました。
アメリカでは25人に1人は良心というものを持っておらず、その人達のことをサイコパスと呼んでいます。
「普通、人間たちは誰か別の人間との関係で満足を得ようとするものなんだ。助けあったり、愛情を確認し合ったり、たとえば、優越感や嫉妬といった感情も、生きる原動力の一つだ。でも、『良心を持たない』彼らには、感情はほとんど意味がない。だから、彼らが唯一、楽しめるのは」「楽しめるのは?」
「ゲームで勝つこと。そうらしい。支配ゲームに勝つことが、彼らの目的なんだ」
山野辺夫妻の娘、菜摘を殺した犯人、本城崇が無罪になりました。
しかし二人は本城崇自身が山野辺遼に送ってきた、一度再生して二度目に再生しようとするとデータが消滅してしまう証拠映像を見ていて、菜摘を殺したのが本城崇だというのを確信しています。
二人は司法には頼らず、自分達の手で菜摘の仇を討つために動き出します。
そこに現れるのが、死神の千葉です。
千葉は死神の仕事を千年以上続けています。
時間の感覚が人間とは全然違っていて、大名行列の話題が出た時、江戸時代の時に仕事で同行した参勤交代を思い浮かべながら「懐かしいな」と言っていたりします。
会話も人間とはずれていて、至って真面目な顔で変なことを言う受け答えが面白いです。
千葉は今回、山野辺遼の調査をすることになりました。
情報部から対象となる人間を教えられ、対象者に接触して七日間調査し、死んでもいいと判断した場合は「可」を、今回は見送ろうと判断した場合は「見送り」を、調査部に報告するのが千葉たち死神の仕事です。
調査結果が「可」であれば、八日目に対象者は事故死や何らかの事件に巻き込まれるといった形で死んでしまいます。
そして大抵の場合、死神は「可」と判定します。
ただ今回の調査は今までと少し違っていて、調査部から「今回、もし、その人間が死ぬべきではないと考えるなら、無理をする必要はない」「無理に、死を与えなくてもいい」と連絡が来ました。
調査部の普段とは違う様子に千葉も困惑していました。
サイコパスについては作中に何度も出てきます。
「人間の中には、他人を苦しめてもまったく気にならない人間がいるらしくて」
など、何度も触れられていました。
そして山野辺夫妻の娘、菜摘を殺した本城崇こそがこのサイコパスです。
文学者、渡辺一夫の名言もよく登場しました。
「寛容は、不寛容に対して不寛容になるべきかどうか」
この言葉が何度か登場しました。
優しい人間は、ひどい人間に対しても優しくすべきか、という意味です。
渡辺一夫自身は、「寛容は自らを守るために、不寛容に対して、不寛容たるべきでない」と結論を言っています。
伊坂幸太郎さんの作品らしく、こういった言葉が随所に散りばめられていました。
無罪判決を受け、自由の身となった本城崇を捕まえるため、山野辺夫妻は動き出します。
千葉は頼み込んで山野辺夫妻に付いていきます。
千葉だけは常に飄々としてずれたことばかり言っているので、深刻な雰囲気の山野辺夫妻もどこか楽しそうでした。
音楽が大好きな千葉は「ほら、あそこにラジカセがあるじゃないか。引っ張り出して、音楽でも聴こう。絶対にそのほうがいい」など、緊迫した話題の時でもおかまいなしに音楽を聴こうとしていて、そのずれぶりがいかにも千葉らしかったです。
「山野辺を見た途端、少し、こう、何と言うんだったか、目というものはもともと丸い形状をしているものだが、その円形の目をさらに開いて」
「そこは、目を丸くして、という言い方でいいんですよ」僕には、千葉さんがどこまで真面目に言っているのか分からなくなる。
こういった千葉のずれぶりがあらわになる会話も面白かったです。
本城崇との対決は簡単にはいきませんでした。
潜伏先のホテル、浜離宮恩師庭園など、次々と本城を追いかけていくのですが、ことごとく本城を捕まえることができません。
しかもスタンガンを持った敵も現れたりして、山野辺夫妻は窮地に立たされます。
千葉だけは不死身の死神なので窮地に立たされても平然としたもので、ただ一人違う空気を纏っているかのような千葉の存在は際立っていました。
あってはならないものがそこにある、いてはならないものがそこにいる、千葉さんには、そういった捉えどころのない、異様さ、違和感があった。
物語が進むにつれて、本城崇の思惑が明らかになってきます。
そしてそれはまさにサイコパスそのものでした。
支配ゲームで勝つ自分の欲望のままに、娘の菜摘だけでなく今度は山野辺夫妻をも破滅させようとしています。
本城としては娘の仇を討つために自分に復讐しようと考える山野辺夫妻の存在が許せないらしく、叩き潰さないと気が済まないようです。
良心を持たず何のためらいもなく人の人生を破滅させようとしてくるサイコパス、本城を相手に山野辺夫妻に勝ち目はあるのか、やきもきしながら読んでいました。
そして千葉が山野辺遼の調査を終えてどんな判定をするのかも興味深かったです。
8年ぶりに見る千葉の活躍、面白く読むことができました。
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-----内容-----
一年前、一人の少女が殺された。
犯人として逮捕されたのは近所に住む二十七歳の男性、本城崇。
彼は証拠不十分により一審で無罪判決を受けるが、被害者の両親・山野辺夫妻は本城が犯人だということを知っていた―。
人生をかけて娘の仇を討つ決心をした山野辺夫妻の前に、死神の千葉が現れる。
-----感想-----
この作品は「死神の精度」の続編となります。
死神「千葉」の物語が8年ぶりに帰ってきました。
今作は短編がいくつかあるのではなく、ひとつの物語が最後まで続いていきます。
物語は1日目、2日目というように、1日ずつ進んでいきます。
物語の中心にいるのは山野辺遼と美樹の山野辺夫妻。
山野辺遼の職業は作家です。
マスコミが二人の家に押し掛けているところから物語は始まります。
二人は一年前に娘の菜摘を亡くしています。
菜摘はまだ10歳でした。
そこからマスコミの押し掛けは一年もの間続いていました。
冒頭で「サイコパス」について触れられていました。
アメリカでは25人に1人は良心というものを持っておらず、その人達のことをサイコパスと呼んでいます。
「普通、人間たちは誰か別の人間との関係で満足を得ようとするものなんだ。助けあったり、愛情を確認し合ったり、たとえば、優越感や嫉妬といった感情も、生きる原動力の一つだ。でも、『良心を持たない』彼らには、感情はほとんど意味がない。だから、彼らが唯一、楽しめるのは」「楽しめるのは?」
「ゲームで勝つこと。そうらしい。支配ゲームに勝つことが、彼らの目的なんだ」
山野辺夫妻の娘、菜摘を殺した犯人、本城崇が無罪になりました。
しかし二人は本城崇自身が山野辺遼に送ってきた、一度再生して二度目に再生しようとするとデータが消滅してしまう証拠映像を見ていて、菜摘を殺したのが本城崇だというのを確信しています。
二人は司法には頼らず、自分達の手で菜摘の仇を討つために動き出します。
そこに現れるのが、死神の千葉です。
千葉は死神の仕事を千年以上続けています。
時間の感覚が人間とは全然違っていて、大名行列の話題が出た時、江戸時代の時に仕事で同行した参勤交代を思い浮かべながら「懐かしいな」と言っていたりします。
会話も人間とはずれていて、至って真面目な顔で変なことを言う受け答えが面白いです。
千葉は今回、山野辺遼の調査をすることになりました。
情報部から対象となる人間を教えられ、対象者に接触して七日間調査し、死んでもいいと判断した場合は「可」を、今回は見送ろうと判断した場合は「見送り」を、調査部に報告するのが千葉たち死神の仕事です。
調査結果が「可」であれば、八日目に対象者は事故死や何らかの事件に巻き込まれるといった形で死んでしまいます。
そして大抵の場合、死神は「可」と判定します。
ただ今回の調査は今までと少し違っていて、調査部から「今回、もし、その人間が死ぬべきではないと考えるなら、無理をする必要はない」「無理に、死を与えなくてもいい」と連絡が来ました。
調査部の普段とは違う様子に千葉も困惑していました。
サイコパスについては作中に何度も出てきます。
「人間の中には、他人を苦しめてもまったく気にならない人間がいるらしくて」
など、何度も触れられていました。
そして山野辺夫妻の娘、菜摘を殺した本城崇こそがこのサイコパスです。
文学者、渡辺一夫の名言もよく登場しました。
「寛容は、不寛容に対して不寛容になるべきかどうか」
この言葉が何度か登場しました。
優しい人間は、ひどい人間に対しても優しくすべきか、という意味です。
渡辺一夫自身は、「寛容は自らを守るために、不寛容に対して、不寛容たるべきでない」と結論を言っています。
伊坂幸太郎さんの作品らしく、こういった言葉が随所に散りばめられていました。
無罪判決を受け、自由の身となった本城崇を捕まえるため、山野辺夫妻は動き出します。
千葉は頼み込んで山野辺夫妻に付いていきます。
千葉だけは常に飄々としてずれたことばかり言っているので、深刻な雰囲気の山野辺夫妻もどこか楽しそうでした。
音楽が大好きな千葉は「ほら、あそこにラジカセがあるじゃないか。引っ張り出して、音楽でも聴こう。絶対にそのほうがいい」など、緊迫した話題の時でもおかまいなしに音楽を聴こうとしていて、そのずれぶりがいかにも千葉らしかったです。
「山野辺を見た途端、少し、こう、何と言うんだったか、目というものはもともと丸い形状をしているものだが、その円形の目をさらに開いて」
「そこは、目を丸くして、という言い方でいいんですよ」僕には、千葉さんがどこまで真面目に言っているのか分からなくなる。
こういった千葉のずれぶりがあらわになる会話も面白かったです。
本城崇との対決は簡単にはいきませんでした。
潜伏先のホテル、浜離宮恩師庭園など、次々と本城を追いかけていくのですが、ことごとく本城を捕まえることができません。
しかもスタンガンを持った敵も現れたりして、山野辺夫妻は窮地に立たされます。
千葉だけは不死身の死神なので窮地に立たされても平然としたもので、ただ一人違う空気を纏っているかのような千葉の存在は際立っていました。
あってはならないものがそこにある、いてはならないものがそこにいる、千葉さんには、そういった捉えどころのない、異様さ、違和感があった。
物語が進むにつれて、本城崇の思惑が明らかになってきます。
そしてそれはまさにサイコパスそのものでした。
支配ゲームで勝つ自分の欲望のままに、娘の菜摘だけでなく今度は山野辺夫妻をも破滅させようとしています。
本城としては娘の仇を討つために自分に復讐しようと考える山野辺夫妻の存在が許せないらしく、叩き潰さないと気が済まないようです。
良心を持たず何のためらいもなく人の人生を破滅させようとしてくるサイコパス、本城を相手に山野辺夫妻に勝ち目はあるのか、やきもきしながら読んでいました。
そして千葉が山野辺遼の調査を終えてどんな判定をするのかも興味深かったです。
8年ぶりに見る千葉の活躍、面白く読むことができました。
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