読書日和

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「明日の子供たち」有川浩

2014-10-31 23:59:59 | 小説


今回ご紹介するのは「明日の子供たち」(著:有川浩)です。

-----内容-----
三田村慎平・やる気は人一倍の新任職員。
和泉和恵・愛想はないが涙もろい3年目。
猪俣吉行・理論派の熱血ベテラン。
谷村奏子・聞き分けのよい“問題のない子供”16歳。
平田久志・大人より大人びている17歳。
想いがつらなり響く時、昨日と違う明日が待っている!児童養護施設を舞台に繰り広げられるドラマティック長篇。

-----感想-----
物語の舞台は「あしたの家」という児童養護施設。
様々な事情で親と一緒に住めない、小学生から高校生までの全部で90人の子供たちが暮らしています。

この施設に新たに赴任したのが26歳の三田村慎平。
冒頭、小学校低学年の男子たちの小さなスニーカーが乱雑に靴箱に詰め込まれて散らかっているのを直していたら、和泉和恵という人に「勝手なことをしないで」と注意されていました。
カチンときて「これくらい片付けてあげてもいいじゃないですか」と言い返す慎平。
和恵は「あしたの家」で働き始めて三年目の人で、慎平より1つか2つ年上です。
和恵によると「やっと靴箱の中に靴を入れるようになった。今度は靴箱の中を整頓しなさいと毎日注意しないといけない。誰かがやってくれたら、絶対自分でやるようにならない」とのことです。
「ちょっとくらい甘やかしてやっても…」となおも食い下がる慎平に、和恵は「90人を毎日ちょっとくらい甘やかしてやれるの」と指摘していました。
そこでさすがに慎平も自分の間違いを認めざるを得ませんでした。
思いやりの気持ちでやったことが実際には施設で暮らす子供たちの教育には良くなかったということです。

物語は以下の五章で構成されています。
それぞれの章には過去の回想編もあります。

1 明日の子供たち
  八年前のこと。(カナ)

2 迷い道の季節
  九年前のこと。(杏里)

3 昨日を悔やむ
  十年前のこと。(猪俣)

4 帰れる場所
  去年のこと。(久志)

5 明日の大人たち


新任の慎平に子供たちははしゃいでまとわりついてきますが、実はただはしゃいでいるわけではないことを和泉が教えてくれます。
「ああやって試しているのよ」
「過剰にくっついていって、反応を見てるの。相手が拒否するかどうか。好意的な反応が返ってこなかったら、サッと離れていくわ」


「きゃあきゃあ無邪気に騒ぎながら、実は敵か味方か観察されていた。―それを思うと背筋がすっと冷たくなった」と慎平は率直な感想を持ちました。
親に虐待など酷い目に遭わされた子供もいるので、いろんな形で大人を試すようです。

『施設の子供たちは高校生になったらアルバイトをすることを推奨される。大抵の子供は保護者との関係が良好ではなく、進学するにしろ就職するにしろ資金を自分で貯めておかなくては将来の選択肢が狭まるからだ。施設は高校を卒業したら退所することになっており、家に戻ることができない子供たちはいきなり社会で独り立ちしなくてはならなくなる。―そして、施設の大半の子供たちは保護者を頼ることが難しい家庭環境にある。』
これは切実だなと思いました。
お金の問題が付いて回るので、早いうちから働いて貯めておかなくてはなりません。

谷村奏子という高校二年生の子がいます。
施設ではカナと呼ばれていて、生活態度も成績も良好で職員との関係もいい「問題のない子供」です。
序盤で慎平に「慎平ちゃん」というニックネームをつけてくれました。
最初はフレンドリーに話していたのできっとすぐに仲良くなるんだろうなと思いましたが、そうはなりませんでした。
「慎平ちゃんはどうして施設で働きたいと思ったの?」と聞いてきた奏子に慎平はテレビの児童養護施設のドキュメンタリー番組を見て感動したと答えます。

「親に捨てられた子があんなに懐くなんてすごくない?実の親に裏切られてるのに、赤の他人とあんな関係が作れるなんて」
「だから、俺もあんなふうにかわいそうな子供の支えになれたらなぁって」

この時奏子は笑っていましたが、実は怒っていました。
何となく文章にも、ただ笑っているにしては少し違和感がありました。
そしてその後の奏子とのギクシャクした関係につながっていきます。

平田久志という奏子と同い年の高校二年生の男子がいて、二人はよく屋上に通じる階段の踊り場で話しています。
奏子が「問題のない子供」の女子代表なら男子代表は久志とのことです。
この二人の会話の中で、慎平とは朗らかで明るく話していた奏子の激しい怒りが現れていて驚きました
慎平が悪気なく言った「かわいそうな子供」という言葉が癇に障っていました。


進学と就職についての施設の考えも書かれていました。
暗黙の了解で就職を推奨する施設は多い。児童は高校を卒業したら施設を出なくてはならないが、施設としては就職してくれたほうが安心できるのだ。施設の目的は預かった児童を社会人として独り立ちさせることであり、その目安として就職というのは最大の勲章といえる。

古いタイプの職員には進学を「贅沢」と捉えている者も少なくない。副施設長の梨田にもその傾向があり、『あしたの家』でも進学者は毎年は出ていない。進学者が出たとしても一人か二人で、大半は就職だ。


梨田副施設長の方針で、『あしたの家』では就職を推奨しています。
また、施設長の福原は『あしたの家』の方針については梨田に委ねているとのことです。

「八年前のこと。(カナ)」という奏子の物語に印象的な言葉がありました。
みんな自分の人生は一回だけなのに、本を読んだら、本の中にいる人の人生もたくさん見せてもらえるでしょ。
施設長の福原の言葉で、私も読書が好きなのでこれはすごく同感でした。


和泉が『あしたの家』に就職したのは25歳の頃で、指導教員は猪俣という人でした。
猪俣は痩せぎすで顔の輪郭も尖っていて一見すると陰気でとっつきにくそうに見えますが、その陰気な顔のままで冗談を言ったりもします。
ちなみに子供たちからも意外と懐かれていて、平田久志からは「イノっち」と親しげに呼ばれています。

「そもさん。説破(せっぱ)」という言葉が出てきて、どんな意味なのか分からなかったので調べてみました。
「そもさん」が「問題出すよ」、「説破」が「受けて立とう」という意味のようです。

猪俣は常に冷静で、「施設は家庭ではない。職員は家族ではない。私たちは子供たちの育ちを支えるプロでなくてはならない」という考えを持っています。
これに対し、「施設の子供たちにも愛情は必要。施設は家であるべきだ。職員は家族として子供たちに愛情をかけるべきだ」という着任初日の三田村慎平と似たようなことを言う新人は大勢いるとのことです。

90人の子供たちに家族のような愛情を与えることなど、一人の人間には不可能なのだ。求めのままに与え続けたらいつか枯渇する。

猪俣のこの教えは、和泉にとって羅針盤になっていました。
しかし今、その羅針盤が揺らいでいました。

ハンデのある中で進学を選ぶ資格があるのは、意識の高い子供だけです。

信頼し尊敬する猪俣の言葉とはいえ、この言葉だけは納得できずにいました。

坂上杏里という奏子と同室の子は学校で施設のことを隠しています。
奏子や久志は学校の友達にも言っていますが、隠す子のほうが多いとのことです。
そんな杏里に奏子が、友達に打ち明けたほうが良いのではと言っていました。

「打ち明けるいい機会じゃない?施設だからって態度が変わるならそこまでの相手なんだしさ。もしそんな相手なら、その場凌ぎの嘘ついてまで友達続ける意味ないじゃん」

これはかなり難しいと思います。
自分が引け目に感じていることを打ち明けるのは勇気が要ることです。

「九年前のこと。(杏里)」は杏里の幼少期の物語なのですが、そこで猪俣が印象に残ることを言っていました。
「子供が問題行動を起こすときは、何らかの理屈があるはずです。それを探り出せてないことが問題なんです。子供の資質のせいにするべきじゃありません」
待つのが苦手で「後で」と待たされると途端に大声を上げて「イヤ!「今!」と喚く杏里に副施設長の梨田は忌々しそうにしていましたが、猪俣は根気強く言い聞かせようとしていました。

そんな猪俣先生がなぜか子供の進学に関しては頑なで、否定的な場合が多いです。
特に久志と奏子は二人とも成績も優秀で生活態度も良いのに、なぜか久志の進学には賛成で奏子の進学には反対の立場を取っていました。
そこにはどんな理由があるのか気になりました。
第三章の「昨日を悔やむ」では猪俣が子供の進学に積極的だった頃に何があったかが明らかになります。
ちなみにその話に出てきた「寛政大学」は三浦しをんさんの「風が強く吹いている」で主人公たちが通っていた大学と同じ名前なのが印象的でした。

ハンデを背負う子供にはリカバリーの手段が少ない。
ハンデを背負う子供の未来は確率で判断するべきだ。

これが猪俣がその頃の経験から得た教訓のようです。


第四章「帰れる場所」では『サロン・ド・日だまり』というのが出てきました。
これは県の児童福祉連盟が運営する、児童養護施設の当事者活動を応援する交流施設で、児童養護施設の卒業生や今現在入所している人、もしくは当事者活動を応援してくれる人ならいつでも気軽に立ち寄れる場所とのことでした。
そこの常駐職員が真山欣司という人で、正月休みに久志と奏子がファーストフードの店で休んでいた時に声をかけてきました。

「必要なものしか存在しない人生って味気ないでしょう」
これが『サロン・ド・日だまり』を設立した目的とのことです。
「何かのためとかそういうのじゃなくて、目的のない施設でありたい」と真山は語っていました。
気楽に立ち寄れて、何もしたくなかったらぼーっとしてても良いとのことで、なるほどなと思いました。

この『サロン・ド・日だまり』に梨田は
「『何もしたくなかったら、ぼーっとしててください』だ?ぼーっとするために特別な場所がいるのか!そんなものを児童福祉連盟がわざわざ運営するなんて予算の無駄だ!子供たちにこんなものは必要ない!」と強く否定的ですが、猪俣はこれに真っ向から対抗していました。

「自分たちの手が届かなくなってしまう子供たちを、どれほど心安らかに送り出せると思いますか。施設にいる間は私たちが話を聞いてやれる。でも、巣立ったらそんな相手はいないんです。ちょっとした悩みや相談を打ち明けられる相手がいるだけで、子供たちが社会の波間に沈む確率は大幅に減るんです」

普段は梨田と上手く折り合いをつけることが多い猪俣がこの時ばかりは猛烈に反論していて驚きました。


「去年のこと。(久志)」にも本についての福原施設長の言葉が出てきました。
みんな自分の人生は一回だけなのに、本を読んだら、本の中にいる人の人生もたくさん見せてもらえるでしょ。
自分とは普段全く関係のない世界が描かれていたりもするし、本当に本を読むと色々な人の人生を見せてもらえます。

第五章の「明日の大人たち」では、『ママがいなくなった』という児童養護施設を舞台にしたドラマのことが話されていました。
子供たちが職員に理不尽に虐げられ、支配されるというショッキングな展開で、児童養護施設への偏見が助長されると抗議や苦情が相次いだとのことです。
このドラマは日本テレビで放送された「明日、ママがいない」をモデルにしているのだろうと思いました。

第五章「明日の大人たち」では、県の事業仕分けの対象になって取り潰されそうな『サロン・ド・日だまり』の存続のために奮戦していくことになります。
「こどもフェスティバル」という市の児童福祉課が開催するシンポジウムで『サロン・ド・日だまり』の必要性を訴えるスピーチを行うために、慎平、和泉、猪俣、久志、奏子で案を練っていました。

「こどもフェスティバル」の場では奏子がスピーチを行いました。
「施設の出身者であることは、誰にでも打ち明けられることではありません。偏見を持たないでいてくれる人かどうかを見極めないと話せない、ということはたくさんあります。でも、『日だまり』は無条件にわたしたちの味方なんです。何も心配しないで、何でも打ち明けられるんです」

気を張ることなく、リラックスして何でも打ち明けられる場所があるのは重要なことだと私は思います。


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