老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

竹生島・長浜へ その② ~竹生島 宝巌寺/都久夫須麻神社 ~

2018年06月27日 19時36分47秒 | 旅行/色々な風景
 いよいよ竹生島に到着。ここは長浜市に属する島です。
たっぷりと時間を確保していたので、時間を急ぐらしい団体客に先に行って貰い、先ずは、港近くで琵琶湖周航の歌の歌碑や、琵琶湖八景(竹生島の沈影)の石碑を愉しみました。

 そういえば、この竹生島は「琵琶湖周航」の歌では
  瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い伝えの 竹生島
  仏の御手に 抱かれて 眠れ乙女子 やすらけく

と、歌われています。

 この島には宝巌寺と、都久夫須麻神社という二つの有名な名所があります。
このような狭い場所に「寺」と「神社」の二つがあるわけですが、後で述べる舟廊下に代表されるように、元々は一つの組織だったのが、明治時代初期の神仏分離令によって分けられたのです。
 現在はパワースポットとしても有名なようで、若い人の参拝も多いようです。

(1)宝巌寺(ほうごんじ)
 宝巌寺は真言宗豊山派の寺院で、開基(創立者)は行基とされ、山号を巌金山(がんこんさん)と言います。本尊は弁才天ですが、観音堂本尊は千手観音で、西国三十三所観音霊場の第30番札所ですあると共に、弁才天信仰の聖地でもあり、厳島神社と江島神社と共に日本三大弁才天の1つにも数えられています。

 想像していたよりもずっと小さな島だけに、境内は急勾配の階段が多く、高齢者には少しきつかったですが、上に行くにつれて琵琶湖を見下ろす景色が開けてくるのが魅力的で、本堂や三重塔なども拝観しました。

 残念だったのは、楽しみにしていた国宝の唐門(秀吉の墓である豊国廟から移設された、或いは、大阪城の極楽橋だったとも言われている)と、伏見城から移設されたという観音堂が修理中で拝観出来なかったことです。

 但し、観音堂と都久夫須麻神社を繋ぐ屋根付きの廊下(秀吉の御座船を転用したので舟廊下とも呼ばれています)は通ることができました。
 この舟廊下は色々な資料で重要文化財となっているのですが、かっては国宝だったのか、「国宝」という表示も目にしましたが、詳細は不明です。

(2)都久夫須麻(つくぶすま)神社(別名:竹生島神社)
 “つくぶすま”は、竹生島の古い名前だと言われていますが、上記のごとく、明治時代初期の神仏分離令によって、一体だった施設が「寺院」と「神社」に分けられ、明治7年(1874年)に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決められ、明治16年(1883年)に両者の財産が区別され、以降、都久夫須麻神社と宝厳寺は別の法人となっています。

 ここの本殿は、伏見城または豊国廟から移築したという伝承のある装飾性の豊かな桃山建築で国宝に指定されています。

 また、本殿の南側にあり琵琶湖に面した崖の上にある拝所はカワラケ投げの名所としても有名で、ここから投げたカワラケが下にある鳥居を上手く潜れば、願いが叶うとされていて、多くの人が挑戦していました。私も人並みに挑戦してみましたが、残念ながら鳥居迄は届きませんでした。


 初めての竹生島でしたが、たっぷりと時間をとっていたので、ゆっくりと散策することができ、船着き場近くに数件ある売店の一軒で購入したソフトクリームで疲れを癒した後、琵琶湖汽船の船で次なる目的地である長浜に向かいました。(まさ)


港近くにある琵琶湖周航の歌の歌碑

同上。琵琶湖八景の石碑。 バックは本坊です

宝厳寺への鳥居。かっての神仏混淆の名残の鳥居です

本坊

護摩堂横にある石垣

急な石段の多い寺院です

宝厳寺本殿

本堂前の燈篭は少し変わっていました

本堂内部

このお寺の名物。願い事を書いた紙をダルマの中に入れて奉納します

本堂前にある五重石塔(重要文化財)

三重塔

モチノキ。樹齢400年

唐門/観音堂(同寺のホームページより)残念ながら修理中で拝見できませんでした

観音堂と都久夫須麻神社を結ぶ屋根付き廊下(舟廊下)。「重文」と「国宝」両方の表示があります。

同上。外観

都久夫須麻神社 本殿(国宝)

都久夫須麻神社

都久夫須麻神社の拝所から、カワラケナ投げは下の鳥居を目指します。(何故かポールにはトンビが)

拝所にある阿吽の龍

宝厳寺の観音堂の基礎部分

長浜からの船が到着