私が子供の頃は、丁度戦後のものが少ない時期でしたが、物を粗末にしたり食べ物を残したりすると、親や祖母から「勿体ない、罰が当たるぞ」と叱られたもので、私などは物を捨てたり食べ残すことは罪悪だと思うくらいに身についており、家の中のものは片付かず、体重も増える一方です。
環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさんが2005年に来日された際に“「もったいない」という日本語に感銘を受けた”と発言されて以来、この言葉が環境問題のシンボルのように有名になりましたが、その語源や由来までは考えたことがありませんでした。
先日、「いたいけない」という言葉の意味を調べた時に、同じく「ない」がつく「勿体ない」について少し調べてみました。
<語源由来辞典>やWIKIPEDIAを参考にしましたが、
◆「勿体ない」の「ない」は、「いたいけない」の「ない」とは異なって、通常の否定形の「ない」でした。
◆その基となる「勿体」は、和製漢語で、“ 外見や態度の重々しさ。 態度や風格。また、物の品位”を意味すし、「勿体ぶる」とか「勿体をつける」とかいう使用をされます。
◆従って、「勿体ない」は「妥当でない」「不届きだ」といった意味で用いられていたが、転じて、「自分には不相応である」「ありがたい」「粗末に扱われて惜しい」などとその意味は広がっていき、現在では“物の価値を十分に生かしきれておらず、無駄になっている状態を惜しむ”という意味に定着していったようです。
◆「勿体」が和製漢語だと言われるのは、本来「物体」(「もったい」と読むのは呉音)という言葉があり、これは「物の形」「物のあるべき姿」を意味し、これから派生して「重要な部分」「本質的なもの」を意味するようにもなったようです。
従って、“惜しい”といった意味で用いられる「勿体ない」は、“本来あるべき物がない”という意味での「物体ない」という原義に戻ったようにも思えます。(まさ)
ここの所メジロやウイスなどの話題が多いですが、今日は最近ベランダの主のように長時間居るメジロの紹介です。
ミカンを入れている籠のすぐ近くにあるミモザ(=フサアカシア、マメ科)の枯れ枝がお気に入りの様子で。ここに長時間居座って、大抵はウトウトと休憩しているようですが、時々は籠の中に入りミカンを啄んでいます。
私に対しては警戒心を薄めたのか、勿論ガラス越しとは言え1m程に近付いても余り逃げる気配ないので、写真も撮りやすいです。
但し、私の観察力が乏しいのか、未だにこのメジロと他のメジロの区別は出来ません。(まさ)
これがお気に入りの場所のようです。
少しすましています
色々とポーズを取ってくれます
カメラ視線もバッチリ
窓から見る日当たりはまるで春のような気配で、思わず昼前に散歩に出掛けました。
しかし、外は結構風も強くまだ寒さが残っていましたが、例によって河川敷に・・・
もうソロソロと思って淀川河川敷の堤防を注意していると、やはりヒメリュウキンカが鮮やかなワックスイエローの花を咲かせているのを見つけましたし、近くでは二ホンズイセンも開花。
団地に帰ると、もうクロッカスが咲いているのが見え、ジンチョウゲの蕾も大きくなってきており、間もなく開花でしょう。
今日の夕食は魚がメイン。
大きなカマスの干物に、海藻類の酢の物やナノハナとチリメンジャコのおひたしと、例によって湯豆腐と、一昨日の残り物の白菜やアゲ類の煮物でした。
いつもいつも好物の肉類とはいかず、このように魚類も結構食べるようにしていますし、意識して多い目の野菜を摂っています。(まさ)
ヒメリュウキンカ
同上
堤防の二ホンズイセン
ツグミ 背筋を伸ばして草原をピョコピョコという感じで歩いています
同上
ヒヨドリ 外で見かけるヒヨドリは可愛らしいです
ヒッソリした釣り場(これは寒さがまだ厳しい3日程前の写真です)
クロッカス
ヂンチョウゲ
同上
今晩の食卓
ナノハナのおひたしと海藻の酢の物
我が家のベランダのビッグニュースです。
今朝、ベランダの鳥かごを見ていると、2羽が仲良くミカンを食べているので、「仲のええメジロやなぁ」と羨ましく思っていたのですが、何か少しいつもと雰囲気が違うように思え、良く見ると何と籠の中にいるのはメジロの番ではなくて、メジロとウグイスでした。
慌ててカメラを向けましたが、直ぐに両方ともが籠から出て行ったので、鮮明な写真とはなりませんでしたが、間違いなくメジロとウグイスが向かい合って同じミカンを啄んでいました。
ベランダにツレアイが作った籠を置きだしてからもう20年近くになるでしょうが、このような風景は初めてで少し興奮しました。
人間界ではまたもや血なまぐさい軍事進攻という愚行が繰り返されているだけに、余計にホッとする風景でした。
また今日は2週間に1度のツレアイとの面会日。
間もなく雛祭りなので、雛アラレや桃の花を持参して喜んでくれたのですが、今日は何となく寂しそうで、帰ろうとすると涙ぐんでいるようですがどうしようもなく、玄関のガラス戸越しの携帯での話のもどかしさを痛感しました。
後でケアマネさんに聞くと、最近は感情の起伏がちょいちょいある様で少し心配です。(まさ)
メジロとウグイスが仲良く同じミカンを啄んでいます
同上
昨日の「いたいけない」という言葉の説明で、「〇〇〇〇ない」と、言葉の後に『ない』が付くが、この『ない』は否定形ではなく、“前の言葉の意味を強調し形容詞化する働きをもつ接尾語”だということが判りました。
このような使われ方の例として、「切(せつ)ない」「はしたない」を挙げましたが、その後この使い方が気になって調べてみると、他にも「あどけない」や「おぼつかない」「せわしない」というような言葉があることも判りましたし、古くは『なし』だったのが、『ない』になったことが判りました。
しかし、これらの言葉の『ない』の前にある言葉の意味が分からねば、その言葉の意味が判りにくいと思いますので、少し整理しておきましょう。(語源由来辞典などを参照しました)
◆あどけない(し)
昨日の「いたいけない」や「いとけない」と同じように、“邪心がなくかわいい。無邪気であるさま“を表す言葉です。
この「あどけ」については、中世頃から“「無邪気だ」や「子どもっぽい」”という意味で用いられた「あどなし(あどない)」に、「け(気)」が加わったものと考えられていますが、「け」が加わったのには、「いとけなし(いとけない)」など、意味の関連する言葉との類推か混同によるものらしいです。
◆切ない(し)
“切ないとは、寂しさや悲しみなどで胸がしめつけられるさま。つらくやるせない気持ち”を言いますが、この「切」は“心が切れるほどの思い”を意味し、「切なる思い」や「切に願う」など、「親身なさま」を表す言葉としても用いられるということです。
「切ない(せつなし)」は、元々「大切に思う」といったポジティブな意味も表し、広い意味で「切実な気持ち」を指す言葉として使われていたが、時代とともにネガティブな意味のみで使われるようになったようです。
◆はしたない(し)
現在では、主に“行儀が悪い、見苦しい”といったように、相手の態度に対して抱く不快な感情を表す言葉として使われていますが、元々は“中途半端なさま”を言ったようです。
「はした」は漢字では「端」で“数が揃わないことや半端なこと”を表すとともに、“ どちらともつかないこと。中途半端なこと。また、そのさま”を意味します。
「端金 (はしたがね) 」や「端女 (はしため) 」などという言葉もここから来ています。
◆おぼつかない(し)
最近では歩くさまが頼りない時に、「おぼつかない足取り」「足元がおぼつかない」といった言い回しをしますが、元々は“はっきりしない。疑わしい。心もとない”という意味です。
この言葉は「おぼ」+「つか」+「ない」に分けられます。
「おぼ」は、「おぼろげ(朧げ)」の「おぼ」と同じで“はっきりしないさま”を示し、「つか」は「ふつつか(不束)」の「つか」などと同じ接尾語で、更に「ない」は上記で説明したように意味を強調する接尾語で否定形ではありません。
従って、時々漢字で「覚束無い」という書き方をされているのを見ますが、これは当て字で正しくはないです。
◆せわしない(し)
“忙しい、落ち着かない”様子を表す言葉に「せわしない」というのがあり、特に関西では「せわしないなぁ」と多用されているので、関西の方言かと思っていましたがそうではなく現在では標準語になっているようです。
この「ない」も上記同様に意味を強調する接尾語で、「せわしい(忙しい)」を強調した言葉になっています。
以上、「ない」「ない」の連続で長くなりました。(まさ)