老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

政治家の言葉  その②  ~違和感がある言葉遣いの源~

2019年08月31日 21時03分33秒 | 政治・経済・環境・核兵器など
 昨日は、政治家の「違和感がある言葉遣い」ということで、松尾氏のご意見を参考にして書き込みさせて頂きましたが、なぜこのような言葉遣いが増えて行ったのかと思って色々と調べている中で、少し前になりますが、「AERA」(2018.6.6)の記事が目につきました。

 この中で、都築勉氏(信州大学名誉教授)と、藤井裕久氏(元財務大臣、元民主党最高顧問)が安倍首相の発言などに関して、下記のような事を延べられており、上記のような政府高官の話し方がはびこる大きな要因になったと思われますので紹介しておきます。(まさ)

安倍首相の答弁は『飛び石』的な特徴がある。論理的に言葉を積み重ねて体系的に説明するのはあまり得意ではなく、個々の事象について自分なりの正当性を強い口調で主張する。
自身の思いの強さゆえ、繰り返し何度も断定表現を使うので、強い口調なのに言葉が軽いという“インフレ状態”になっている
「私や妻が関係していたら総理大臣も国会議員もやめる」が代表的だが、安倍首相の答弁は「間違いなく」「必ず」「一度も」など過度の強調や断定が多い。
このために、“逃げ道”がなくなった側近や官僚たちは、結果的にウソの答弁を強いられ、どんどん袋小路に追い込まれていく。元凶は安倍首相の発言だが、本人がそれに気づいている節はない。
「政治や人間の複雑さが理解できていない。つまり、単純なんです。強い言葉を使いたがるのは、その表れですよ」(都築勉氏)

・安倍政権では国会でのウソがまかり通るようになり、政治、行政の信頼を大きく毀損した。これは、外交で国益を損なうことと同等の政治的損失です。
怖いのは、この「ウソがまかり通る政治」に国民が慣れてしまうことだ。乱暴な答弁が繰り返されると野党は何度も追及せざるを得ない。それを見ている国民は「同じことの繰り返し」「まだやっている」と状況に飽きてくる。政権もその意識に乗じて、問題を矮小(わいしょう)化させ、最終的にはうやむやにしようとする。(藤井裕久氏)

政治家の言葉   その①  ~違和感がある言葉遣い~

2019年08月30日 19時50分19秒 | 政治・経済・環境・核兵器など
 先日「喫緊」という言葉の語源に関して書き込みをしている時に改めて感じたのは、現在の政治家は如何にも丁寧そうな言葉を使いながらも、その言葉に全く真心が感じられない事で、かっての“政治家の言葉は命”と言われるような、自分の言葉に責任を持つという姿勢はどこに行ったのかという気持です。

 そんな時、8月17日の毎日新聞の「土曜サロン」の「松尾貴史のちょっと違和感」というコラムで、松尾貴史氏が政治家の言葉遣いに関して“重さも、厳粛な意識も、含羞もない”というテーマで寄稿されているのを読みました。

 同氏は主に、国民に対して説明する責任がある権力者の立場にある官房長官などが遣われる下記のような言葉に違和感を覚えるとされています。
全くその通りで、違和感どころか、安倍一強と言われる状態の中で“上から目線からの押さえつけでも良い、如何にして真実を隠して誤魔化そうか”との思惑が見え見えで、不信感を倍増させるに充分だと思います。

「仮定の質問には答えられません」
  ⇒ 「確実に決定した事」や、「実際に起きた過去の問題」にしか答えないのか。

「対案を出せ」
  ⇒  性質の悪いへりくつで、反対している側に「サボタージュする者」というレッテルを張ることができる印象操作用語。

「その指摘はあたらない」
  ⇒  単に否定するとその根拠を問われるかも知れないので、客観的な事実を話しているような錯覚を与える表現。

「誤解を与えたのだとしたら撤回する」
  ⇒  非常に不遜で尊大な言葉で、まるで世間が勝手に誤解したような口ぶりで、完全に相手のせいにしている。
  
「私の発言の一部だけが報道されて」
  ⇒  何故全てを報道せねばならないのか、それ程ありがたいお言葉を発信しているというのか。

 尚、同氏はこれらの言葉を直接に聞きながらも、これ以上の突っ込んだ質問をし得ないマスコミ担当者の弱腰を指摘されていますが、これも多くの国民が感じている状況でしょう。
(まさ)

東電柏崎原発の廃炉問題

2019年08月29日 19時33分43秒 | 原発関係
 日経新聞などに拠ると、東京電力HDの小早川社長は8月26日に柏崎刈羽原子力発電所(新潟県)の立地先である柏崎市の桜井市長と会談し、廃炉計画の策定を求めた市に対して、一部の廃炉を検討する方針を伝えたという事ですが、その内容は概ね下記の様です。

 “6、7号機の再稼働の実現後、5年以内に1~5号機から廃炉対象を選ぶ”

 即ち、「6、7号機が再稼働してから5年以内に廃炉も想定したステップを踏む」というもので、“まず6、7号機の再稼働を認めてくれれば、少なくとも1基以上の廃炉を検討する”という、例えは悪いかも知れませんがまるで「居直り強盗」のような対応です。
 
 県民が、なぜ廃炉を求めるのかという本質への対応を最優先せずに、“まず再稼動を認めて”という強圧的な態度には驚きますが、同新聞などに拠ると、その背景としては下記のような東電の事情があるようです。

・東電は福島第1原発や第2原発の廃炉作業を進めるなかで、並行して柏崎刈羽の廃炉を手掛けるのは人手確保や財政基盤の観点などから難しいと判断した。
現時点では具体策は示せない代わりに、再稼働を実現できれば、5年以内には経営が立ち直り、廃炉が可能になるとの結論を出した。

・東電は原発事故の賠償費用などに使う資金として年5千億円を確保したうえで、毎期4500億円の連結純利益を稼ぐ計画を立てているが、電力の全面自由化で顧客離れが進み、19年3月期の純利益は2324億円にとどまった。収益改善には出力の大きい柏崎6、7号機の再稼働は不可欠だ。

・1~5号機も本当は廃炉したくないが、桜井市長が2017年6月に6、7号機の再稼働を認める前提として1~5号機の廃炉計画の早期提出を求めている以上、6、7号機の再稼働への目途を付ける為にも1~5号機の
廃炉を表明せざるを得ない為に、止むなくこのような中途半端な表明となった。


 東電は早ければ21年度の6、7号機再稼働を目指しているようで、17年12月に国の安全審査に合格したものの、安全対策費が1兆1700億円程度は必要とされている。

 更に再稼働には新潟県の同意も必要となるが、花角知事は県独自の検証を終えるまでは議論ができないとの姿勢を示しています。この検証作業が終わる見通しは立っておらず、6、7号機の今後の道筋は不透明だということです。(まさ)

医者通いが続いています

2019年08月28日 20時34分01秒 | 高齢化社会での生活・終括・社会保障など
 ここの所、少し体調が悪くて医者通いが続いています。

 13日(火)の夜から、左上半身(腕と手も含めて)に痛みを感じ、夜も何度も目が覚める状態になりました。丁度その日は暑い昼間にテニスをしたこともあり、痛みが左半身ということで素人として熱中症や血栓を心配しましたが、この状態が3日程続きました。

 しかし、運悪く丁度お盆の最中とあって、近くの開業医は全てお休みで、16日(金)にたまりかねて大阪市総合医療センターで高血圧のお世話になっている内科医に診て貰った所、同医師も熱中症や血栓を心配してくれてましたが、”症状的にその心配はない。恐らく神経に拠るものと思うので、念のために頸部や肩を調べて見よう”とのことでレントゲンを撮って貰いました。
その結果、“頸椎の変形で、神経が圧迫されている疑いが濃厚”とのことで、MRIを予約して貰い23日(金)に検査を受けることになりました。

 その後も、背中などの痛みは少し引いたものの、肘から指先の痛みが続くし、指先に湿疹ができたりしたので、盆明けを待ちかねて今迄も肩や膝/肘の治療世話になった近くの整形外科医を訪ねました。
ここでも、レントゲンの結果、やはり“頸椎が変形しており、この為に神経が圧迫されている疑いが濃厚”との診断でした。
しかし、左指先の痺れや湿疹については、判り兼ねるので、皮膚科にも聞いてみて欲しいとのことでした。

 その為、急遽予約を取って26日(月)に皮膚科を訪ねました。
この先生の診断では、指先の症状は「帯状疱疹(たいじょうほうしん)」と酷似しているとのことで、この症状に適した処方をして貰うと共に、疲れが溜まるような運動は暫く見合わせるように言い渡されました。

 昨27日(火)に総合医療センターで、MRIの結果を聞くと、”確かに頸椎の変形があり(3番と4番が癒着)があり、脊柱管の狭窄があるが、明らかな椎間板ヘルニアには到っていない”とのことで、皮膚科の診断結果を報告すると、“指先の湿疹などから見ても、皮膚科の診断が正しいと思うので、暫くはその皮膚科で様子を見て欲しい”とのことになりました。

 初めての症状で心配しましたが、原因が一応特定できることになりましたので、暫くは皮膚科で様子を見て見たいと思います。
この「帯状疱疹」はヘルペスウィルスの一種のウィルスで起こりますが、水ぼうそうにかかった人は誰でもこのウィルスを体内に持っていて、加齢やストレス、さらに過労などが引き金となる様で、症状が収まるまでは運動などは控えるように指示されましたので、暫くはおとなしくしていることにしました。

 時期が時期だけにあちこちの医者の手を煩わせることになりましたが、どの医者も丁寧に対応して頂き、本当に感謝です(まさ)

パラリンピックの正式名!? 

2019年08月27日 20時19分34秒 | 散歩中に見かけた風景
 東京2020大会のパラリンピック(Paralympic Games)まで1年とかいう事で、紙面にはこの話題が溢れています。

 この「パラリンピック」というのは、“世界的な身障者のスポーツ総合大会”という事は知っていても、「その正式名は?」と聞かれれば、殆どの日本人がその返答に窮するのではないでしょうか。

 かく言う私も、正式名などは知らなかったのですが、8月26日の毎日新聞の『質問 なるほドリ』というコラムを目にして、今迄気にしたこともなかった「パラリンピック」という名前の由来や歴史を少しは知ることが出来ましたので、同コラムやWIKIPEDIAなどから得た情報を纏めて見ます

◆発祥はイギリスの病院
・イングランド南東部のバッキンガムシャー州のアイルズベリーにある公共病院であるストーク・マンデビル病院には、第二次世界大戦で脊髄を損傷した軍人のリハビリのための専門の科があり、1948年7月28日のロンドンオリンピック開会式と同日に、同病院で行われたストーク・マンデビル競技大会がその起源とされます。

・この大会は、同病院の医師ルートヴィヒ・グットマンの提唱によるもので、戦争で負傷した兵士たちのリハビリテーションとして「手術よりスポーツを」の理念で始められたもので、同病院の車椅子使用入院患者男子14人、女子2人によるアーチェリー競技会が行われたようです。

◆パラリンピックへの歴史
・この競技会は、当初は純然たる入院患者のみの競技大会として毎年開催され続け1952年には国際大会となり、第1回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催されるに到りました。
1960年には、グットマンを会長とした国際ストーク・マンデビル大会委員会が組織され、この年のオリンピックが開催されたローマで、第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催されましたが、現在ではこの大会は第1回パラリンピックと呼ばれています。

・第2回大会は、1964年にこの年の夏季オリンピックが開催された東京で、第13回国際ストーク・マンデビル競技大会が行われました。
大会は2部構成で、第1部が国際ストーク・マンデビル競技大会、第2部は全ての身体障がい者を対象にした日本人選手だけの国内大会として行われた。現在、国際的には第1部のみがパラリンピック東京大会とされているが、日本国内では第2部の国内大会を合わせて呼ばれることがあります。

・その後、当大会をオリンピック開催都市と同一都市で行う方式は定着せずに、いったん中断しますが、1972年のハイデルベルグ大会(ドイツ)で復活しました。
更に、1976年には、国際ストーク・マンデビル競技連盟と国際身体障害者スポーツ機構との初の共催でトロント大会が開催され、同年には第1回冬季大会となるエーンシェルドスピーク大会(スウェ-デン)も開催されました。

・そして、1988年のソウル大会より、正式名称が「パラリンピック」となり、国際オリンピック委員会(以下IOC)が当大会に直接関わる初めての大会ともなり、この大会からは再び夏季オリンピックとの同一地開催が復活した。なお、冬季大会が冬季オリンピックと同一都市で開催されるようになるのは、1992年のアルベールビル冬季大会からである

◆車椅子使用者だけでなく、全ての障がい者の為の大会に
・このように、開始当初は車椅子使用者のために実施されてきた大会が、その他の障がい者にも拡大されていった大会で、同じ障がい者スポーツの競技大会ではあるが、デフリンピック(聴覚障がい者)や、スペシャルオリンピックス(知的障がい者)とは、別の理念と歴史が存在しています。

・現在では、主催者は国際パラリンピック委員会(International Paralympic Committee、略称:IPC)が主催する身体障がい者(肢体不自由<上肢・下肢および欠損、麻痺>、脳性麻痺、視覚障がい、知的障がい)を対象とした世界最高峰の障がい者スポーツの総合競技大会となり、夏・冬共にオリンピックと同じ年に同じ場所で開催される

◆大会の名称
・パラリンピックという言葉は、元々、パラプレジア(Paraplegia:脊髄損傷等による下半身麻痺者)とオリンピック(Olympic)の造語であったとされるが、IOCは1985年に「パラリンピック」を大会名として用いることを正式に認めた。

・同時に、既に半身不随者以外の身体障がい者も参加する大会となっていたことから、大会名の意味を「ギリシャ語のパラ(Para、英語のパラレル(平行)の語源)+オリンピック(Olympic Games)」とし、「もう一つのオリンピック」として再解釈することとした。
これに伴い、1988年のソウル大会から、「パラリンピック」が正式名称となるとともに、1960年のローマ大会以後の国際大会を、遡及的に「パラリンピック」と表記することになった

・大会の象徴であるマーク(パラリンピックシンボル)は、人間の最も大切な3つの構成要素「心(スピリット)・肉体(ボディ)・魂(マインド)」を赤・青・緑の三色で表しています。(まさ)


パラリンピックのシンボルマーク