老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

近くの桜や、花木・野草など 

2021年03月31日 19時20分35秒 | 散歩中に見かけた風景

(大津・坂本は一時お休みです)

 今日で3月もお終いですが、絶好のお花見日和。

 桜は先日滋賀県の大津と坂本でしっかりと愉しんできましたので、今日は大川沿いの桜の宮毛馬公園の桜を楽しむだけにして、後は団地内の花木や淀川河川敷の野草を楽しみましたが、見頃の花が多く正に春爛漫で、心ウキウキでという感じでした。(まさ)


桜が満開の桜の宮毛馬公園

城北運河のハナイカダ


カリン

同上

アカバナマンサク

同上

ヤマブキ

ウンナンオウバイ

同上

アリアケカズラ(キョウチクトウ科)


ウマノアシガタ(キンポウゲ科)

ノミノツヅリ(ナデシコ科)

ムラサキサギゴケ(ゴマノハグサ科)

ノジシャ(スイカズラ科)

同上


大津・坂本の桜を求めて  その②   ~三井寺~

2021年03月30日 19時39分39秒 | 旅行/色々な風景

(夕方に黄砂に関する記事をアップしましたが、大津・坂本関係の桜の話題も余りズレると季節感がおかしくなりますので、今日は2本目を書き込みます)

 琵琶湖疎水を楽しんだ後、直ぐ近くにある三井寺に向かいました。
三井寺というのは通称で、正式には長等山(ながらさん)園城寺(おんじょうじ)といい、天台寺門宗の総本山の寺院です。


 かっての政治の中心地であった京都に近く、また天台宗の比叡山延暦寺とも近いだけに、この寺院の歴史は非常に複雑ですが簡単にまとめると、

・園城寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興され、平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化した。

・天台宗の開祖は最澄(さいちょう)で、これを更に発展させたのが3代目座主の円仁(えんにん、794〜864年)と5代目座主の円珍(えんちん、814〜891年)ですが、この二人には法華経と密教のあり方に関する考え方に違いがあったようです。
 円仁と円珍が亡くなった後に、この両派の対立が激しくなり、993年に円珍派は比叡山を降り独立し、円珍派は比叡山を下りて園城寺に移った。(比叡山に残った円仁派を山門派、園城寺に移った円珍派のことを寺門派とよばれています)

・両派は共に支持者も多くて強い影響力を持っていたが故に、両者の対立は単なる思想対立を越えた激しい武力闘争に発展してしまったようで、比叡山宗徒による園城寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を初め度々あったようです。
 園城寺は平安時代から戦国時代までで合戦・焼き討ち・火災などで23回も炎上しているが、うち14回は延暦寺による焼き討ちであったともいわれています。

・戦国時代に入ると、勢力を強めた織田信長と延暦寺の対立は頂点に達し、元亀2年(1571年)には有名な信長による比叡山焼き討ちが行われましたが、この時は園城寺は信長と良好な関係を構築・維持し続けていて、信長の本陣は園城寺にあったということです。

・次いで園城寺は天下人となった豊臣秀吉とも良好な関係を築いていたが、文禄4年(1595年)11月、園城寺は突如として豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられ廃寺同然となった。
 その際には、本尊の弥勒菩薩像や智証大師坐像、黄不動尊などは元園城寺長吏の道澄が自ら住持を務める照高院に避難させたり、ほとんどの仏像や宝物は他の寺院へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的破却、移築された(当時の園城寺金堂は比叡山に移され、現在も延暦寺西塔転法輪堂<釈迦堂>として現存している)ようです。

・このように、幾多のの苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、園城寺は「不死鳥の寺」とも称されているようで、明治以降は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年(昭和21年)に天台寺門宗と名称を改めたうえで天台寺門宗総本山となりました。


 このように歴史のある寺院で、また桜の名所でもあるので、人出も多いかと思っていたのですが、境内はそれ程でもなく、密を気にせずに比較的ノンビリと拝観し、折から見頃の桜も楽しむことができました。(まさ)


仁王門

護法善神堂

桜越しの金堂

金堂

閼伽井屋にある左甚五郎作と伝えられる龍

弁慶の引き摺り鐘。延暦寺との争いで弁慶が延暦寺まで引き摺り上げたと伝えられる鐘です

有名な三井の晩鐘

一切経堂

三重塔

塀と桜


モミジの花

もうシャクヤクも開花

観学院の塀と桜

同上



毘沙門堂とミツバツツジの蕾

ヒトツバダコ(ナンジャモンジャノキ、モクセイ科)

同上

桜越しに市街地を見下ろす

観音堂。西国33か所の14番札所です

展望台より 中央部右への桜は琵琶湖疎水沿いのものです。


黄砂の影響大

2021年03月30日 16時36分37秒 | 旅行/色々な風景

 昨夜は満月の写真を撮ったのですが、少し赤みがかった感じの写真でおかしいと思っていましたが、今日は久しぶりのテニスで河川敷に行くと、晴れにも拘わらず曇ったような感じで、梅田方面の高層ビルも霞んではっきりと見えません。

 そういえば、昨夜から西風に乗って黄砂が来襲しているのです。
お陰で満月も綺麗には見えず、大阪の梅田界隈すらも見通せない状態でした。(まさ)


少し赤みがかった昨夜の満月


霞んで見える梅田のビル街

 


大津・坂本の桜を求めて  その①   ~琵琶湖疎水/大津運河~

2021年03月29日 19時40分51秒 | 旅行/色々な風景

 3月27日(土)に、滋賀県の大津と坂本に出かけました。
数年前の4月上旬に、京都から琵琶湖疎水を船で遡り大津まで行くツアーに参加し、琵琶湖疎水を満喫したのですが、残念ながらその時は桜開花が少し早くて、花の見頃を過ぎていましたので、何とか見頃の時期にリカバリーしたいと思い、ツレアイが自由に動けるのもそんなに長くはなかろうと、今年の実行を期していました。

 当初は4月に入ってからと予定を組んでいたのですが、今年も桜開花が非常に早く、前回の轍を踏まないように、連日開花状況/天気予報/他の予定を睨みながら、この日の決行と決めた次第です。

 当初の予定では、三井寺に参拝してから琵琶湖疎水に沿って山科までハイキングコースをと思っていたのですが、三井寺で石段を下りている時に左膝に少し違和感を感じたので、大事を取って山歩きを辞めて、坂本散策に切り替えました。


 先ずは、桜が見頃だった琵琶湖疎水と大津運河です。

 私は、大津から京都に通じている人工水路を「琵琶湖疎水」と呼ぶものだと思っていたのですが、説明書によるとその間の大津閘門から第1トンネルの洞門までの間約500m程は「大津運河」と呼ぶようです。

 京阪電車を乗り継いで三井寺駅を降りると、すぐ前に琵琶湖疎水があり、先ずはこれに沿って疎水の第1トンネル迄の散策でしたが、疎水沿いから正面に見える三井寺までは桜が切れ間なく続いていて、8分咲きから満開の桜を満喫しました。

 正に絶好の桜見物日和で、心配した人出もそれほど多くなく、パーフェクトな桜でした。(まさ)


疎水沿いの桜と、正面の山は三井寺の桜

駅近くの桜とヤナギの新芽

疎水の大津閘門

閘門と桜



運河と桜

疎水と運河の柵

第1トンネルの洞門

洞門の扁額は伊藤博文書「気象萬千」

第1トンネルの洞門の上部から


ストレリチア2株目の開花と、近場の桜など

2021年03月28日 19時21分03秒 | 自宅の様子(ベランダ/室内園芸)

 今日は朝から雨模様で、外出を控えて写真整理などをしていましたが、朝起きてベランダを覗くと、ストレリチアの2株目が開花していました。
最初に咲いた1株目はその後変化ありませんが、まだもう一株未開花の株がありますので、今年は賑やかになりそうです。

 例年のことながら、桜が咲き始めるとメジロはすっかり姿を見せなくなり、何となく寂しいベランダですが、今年はストレリチアが慰めてくれそうです。

 また、クンシランも咲き始めましたし、先日べレンダの隅で見かけたアスパラの新芽は、スクスクと伸びてまだ高さは15㎝程度ですが、アップで撮るとまるで巨木のように感じます。


 大阪でも開花宣言された桜は、その後徐々に開花を進めていますが、住居近くではまだ満開には到らず、今しばらく楽しめそうです。
この数日、近くで見かけた花などと一緒に紹介します。(まさ)


ストレリチア 左側が最初に開花した株、右側が今日開花した株

クンシラン

アスパラの新芽


近くの大川沿いの桜

ハコベとホトケノザ

ムラサキツユクサも早くも開花