鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.夏の取材旅行 香取~香取神宮~潮来 その1

2011-09-02 05:33:00 | Weblog
 JR千葉駅でJR成田線のホームに出て、鹿島神宮行の普通電車(前4両)に乗り、香取駅に到着したのは9:46。

 駅前で案内図を確かめた後、香取市立津宮小学校の前を通って、JR成田線の「津の宮踏切」を越えました(9:53)。

 その道はまもなく左右に走る道にぶつかりましたが、そのぶつかったT字路の左奥に「←香取神宮」と記された四角い案内標示があり、迷わず、そこで左折しました(9:56)。

 鉄道も駅も、もちろん江戸時代にはなかったから、駅からここまで歩いてきた道は崋山が歩いた道ではなく、この左折して入った道こそが、崋山が津ノ宮河岸から歩いた道に重なるものだと思われました。

 つまり、利根川を船を利用してやってきて、津ノ宮河岸で船を降りて、香取神宮へと多くの人々がかつて歩いた道は、ここであったと思われました。

 左折したところの右手に石鳥居がありますが、その左手に「神道山古墳」と墨書された標柱が立っており、その鳥居を潜って進んで行けば、前方後円墳があるらしい。

 そのことがわかったのが、そこに立っていた「津宮小学校3年生製作」の案内板。前方後円墳ばかりか円墳もあるらしい。それらをひっくるめて「神道山古墳」というようです。この道路の右側の小高い山は「神道山」というのだろうか。

 道を進んですぐに目に入ってきたのは、やはり右手に立つ大きな看板で、それには「平成二十六年庚午年 香取神宮式年神幸祭御駐輦所 四月十四日式年祭十五日十六日式年神幸祭り」と記されています。

 「輦(れん)」とは「天子の乗り物」のことであり、「駐輦(ちゅうれん)」とは「天子が行幸の途中で車を止めること」だというから、ここは、式年祭の時に「天子の乗り物を止めるところ」であるということになる。

 ここが「神道山古墳」といって、古代豪族の前方後円墳や円墳があるところであることを考えると、おそらくそのことと「御駐輦所」とは深い関係にあるものと思われました。

 「平成二十六年庚午年」は、3年後ということになりますが、今からその準備が行われているということがこの大きな看板からわかります。

 そこからしばらく歩くと、やはり右手に金属製の標柱があり、それには「香取市指定史跡 神道山古墳群」とあり、その右側面に、「前方後円墳一基(全長四十五m高さ六m)・円墳十基が確認された。古墳時代後期の古墳群である」と説明がなされていました。

 また左手に「←香取駅600m →香取神宮1,400m」という案内標示も立っています。これで、香取駅と香取神宮間の距離がおよそ2kmであることがわかります。

 この香取神宮へと通ずる道は、右側が「神道山古墳」がある小高い丘陵ですが、左側は緑の田んぼが一面に広がっており、道の行く手にはやはり小高い丘陵が見えています。田んぼが丘陵と接するところに道路があり、その道路に沿って人家が並んでいるという、この地域一帯に一般的に見られる道路や人家の配置が、ここでも見受けられます。

 まもなく十字路にぶつかりますが(10:06)、その右手前に「香取神宮↑表参道三〇〇メートル」とあったので、そのまま舗装道路を直進していこうと思ったところ、そこから左手へと入っていく旧道と思われるような幅の狭い道路があったので、その道へと入っていくことにしました。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第一巻』(日本図書センター)
・『渡辺崋山 優しい旅びと』芳賀徹(朝日選書/朝日新聞社)


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