鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.夏の取材旅行 香取~香取神宮~潮来  その2

2011-09-03 06:07:53 | Weblog
 交差点からまっすぐ続く幅広の舗装道路は、田んぼをまっすぐに突っ切って丘陵へと続いていますが、これはおそらく田んぼを埋め立てて造った新しい道。

鉄道や新しい道は、田んぼを突っ切るように造られていますが、かつては貴重な田んぼの中にあったのはあぜ道くらいであり、道は田んぼと丘陵が接する際(きわ)のところに、地形に合わせて曲がりくねってあったはず(その道路沿いに農家が点在、ないし軒を並べる)。

 私が入った旧道と思われるその狭い道は、さらに丘陵に沿って左へと分岐し、その入口には「→野鳥とのふれあいコース(順路)」と記された標柱が立っています。田んぼはその左手に広々と広がっています。

 足を進める旧道は丘陵の右裾に沿って延びており、立派な垣根が続き、白い肌を見せる樹木が並木のように並ぶ広壮な屋敷地が、その旧道の左側に沿って続いています。

 旧道の右側は田んぼの広がりであり、直線的に走る新道の向こうには丘陵が重なって見える。道脇に、鉄パイプで作られた手作りのブランコがあって、ほほえましい。子どもが田んぼの広がりを眺めながら、このブランコを力いっぱいこぐのでしょう。

 やがて旧道はゆるやかな坂になって、丘陵の間を分け入るように入っていき、そしてまもなく左手に小さな鳥居の立つ四角い水たまりが見えてきました(10:13)。

 四角い水たまりの枠はやや苔むした角石であり、この施設がかなり年輪を経たものであることを伺わせます。

 これは香取神宮へとこの道を進む人たちの「禊(みそぎ)」の場所であったのではないかと思われました。草鞋や足袋を脱いで足を洗ったのだろうか。

 これが「禊」の場所であったとすると、この旧道こそがかつての香取神宮への参道(津宮からの)であったことがはっきりとしてきます。

 そのまま切り通しのような道を進むと、小集落を抜け、「雨乞塚」と記された案内板にぶつかりました。その案内板には、「ここは聖武天皇天平四年(平成七年起算一、二六三年前)この地が大旱魃の時祭壇を設け雨乞いをした処である。香取神宮」と解説がなされています。

 「香取祖霊社」への道がありましたが、そちらへは入らず。

 また「千葉県指定史跡 天真正伝神道流始祖飯篠長威斎(いいざきちょういさい)墓」というのもありました。案内板によると、室町時代に形成されたもので、わが国最古の権威ある流儀として知られている、とのこと。飯篠長威斎(家直)は、この香取神宮の境内で剣法の奥義を極めたらしい。

 この「雨乞塚」の前で右折してしばらく進み、新道とぶつかったところで左折すると、そこが香取神宮前の大駐車場。そこから左手の丘陵の奥に向かって、両側に土産物店や茶店などが並ぶ参道が延びていました。

 この茶店や土産物店の数から言っても、この香取神宮がむかしから江戸や関東各地からの参詣客を集めていた神社であることがわかります。

 その参道を進んで行くと、朱塗りの鳥居が現れ、その右手に石造の常夜燈や「香取神宮」と刻まれた石柱が立っています。その向こうは樹木の繁りで、参道はゆるやかな坂になりつつ左手へと大きく曲がっていきます。

 その樹林の中の広い参道に入って驚いたのは、参道に沿って並ぶ巨大な石灯籠(3メートルから4m前後)のかなりの数が、無惨にも崩壊していること。これはもちろん3月11日の大地震によるもの。大きな揺れのために崩れ落ち、部分ごとに分解して地面に横たわっており、それらの石灯籠の修復はまだ行われている様子はありません。石灯籠はそれほど古いものではなく、大正や昭和に奉納された比較的新しいものが多い。

 この香取神宮の森は、千葉県の天然記念物に指定されており、森の全景が亀に似ていることから「亀甲山(きっこうざん)」と称されているようです。

 参道を進んで、「香取神宮」と刻まれた額の掛かる石鳥居の前に出たのが10:33。

 JR香取駅から、ゆっくり歩いて45分ほどの距離でした。



 続く



○参考文献
・『渡辺崋山集 第一巻』(日本図書センター)
・『香取 津宮 佐原まち』久保木良(聚海書林)


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