鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その5

2011-08-15 06:58:42 | Weblog
 吉田口登山道と吉田口遊歩道が合流する「中の茶屋」に出たのは9:10。遊歩道を出発してから1時間15分ほど、浅間神社の参道入口から1時間40分が経過しています。

 ここには「吉田ルート案内板」があり、現在地と山頂までの吉田口登山道のルートおよび須走口五合目への下山ルートが示されています。また「富士山山頂→14.5km598分(min)」と記された案内標示も立っています。「598分」とあって「およそ10時間」としてないところが、なぜかマニアック。同じ「14.5km」であっても、人によって登るスピードや登り方はまちまちです。「598分」という数字はどこから出てきたのだろう。

 「軍人林瑞穂村日露戦役記念会」と記された古い角柱の看板も立っています。

 「富士急 中ノ茶屋 山梨バス」と記されたバス停があるということは、ここをバスが通るということであり、時刻表を見ると、中ノ茶屋を経由して馬返まで、また富士山駅まで行くものであるようです。期間は7月16日~8月31日まで毎日運転、9月は土・日・祝日のみ。バスで「中ノ茶屋」あるいは「馬返」まで来れば、そこから吉田口登山道を利用して富士山頂まで登れるということです。

 この「中ノ茶屋」の広場の周囲にも数多くの富士講関係の記念碑が立っていました。「東京 講社」「五十五度」「田巳之助君」「大願成就」といった文字や人名などがその碑には刻まれています。「五十五度」とは、五十五回富士登山をしたということであり、一年に一回、毎年登ったとしても、55年かかることになる。やはり講員を富士登山へと連れて行く「先達」でないとできない回数だと思われます。「田巳之助」という人物は、そういう「先達」の一人であったのでしょう。

 ここの別の案内板では、五合目まで「8km 3時間40分」とありました。今のペースで歩いていけば、午後1時頃には5合目到着ということになります。

 広場のまわりに立っている富士講関係の記念碑をざっと見て回ってから、ブルーシートの屋根の張られた長椅子と長机のある休憩所でしばらく休憩。

 休憩をしていると、上から下りてきた男性と出会いました。この人がこの登山道で出会った二人目の人物。五合目あたりに車を停めてそこから下ってきたらしい。「浅間神社まで、これからどれぐらいありますか」と聞かれたので、「下りだからおよそ1時間ほど、道は歩きやすいですよと答えました。男性は、浅間神社まで下って、そこからまた5合目まで登るようです。「この道がむかしのメインルートだから」と付け加えて、下っていくその男性と別れました。

 かつての「中ノ茶屋」の様子は、『絵葉書にみる富士登山』(富士吉田市歴史民俗博物館)でよくわかります。

 P17下の写真は「明治四拾四年」頃の「中ノ茶屋」を写したもので、P18上は年代はわからないが、ほぼ同じ頃の「中ノ茶屋」を写したもの。茶屋には、各講が奉納した「マネキ」(講旗)が、数多くはためいています。この「マネキ」には、講印・講名・先達ほかの役員名などが染め込まれています。

 現在の「中ノ茶屋」と較べてみると、周囲の木々の繁りが少なく、行く手に富士山の姿がよく見えます。菅笠を被った富士講の講員と思われる人物が歩いている道が、かつての「吉田口登山道」。幅は二間(約3.6m)ほど。もちろんアスファルト舗装はされていません。石ころまじりの土道です。茶屋の壁は一部石積みで、屋根は石を載せた板屋根となっています。茶屋の左手の丘に突き出て立っている一本の大木が印象的ですが、これが、現在のどの木に相当するのかは、よくわかりませんでした。


 続く


○参考文献
・『富士講の歴史』岩科小一郎(名著出版)
・『小谷三志日記』(『鳩ヶ谷の古文書 第7集、第8集』)
・『儀三郎日記』(あきる野市教育委員会)
・『絵葉書にみる富士登山』(富士吉田市歴史民俗博物館)


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