鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「シンボル展 よみがえる!甲府道祖神祭り」をみる その7

2018-02-03 07:13:25 | Weblog

 

 道祖神祭礼の祭礼用具としては、「四神」(しじん)の彫刻も展示されていました。

 四神は天の四方を司る聖獣で、朱雀(すざく)・青龍(せいりゅう)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)の四神。

 これらは、往来に面して設けられた御仮屋(仮設の拝殿)の前に一列に並べられた「四神幟」(しじんのぼり)の上部に備え付けられた装飾であると推測されるとのこと。

 幟の上に設置されたにしてはずいぶん大きなものです。

 ほかの展示物としては、「道祖神祝儀並に諸入用永代帳」や『諸国祭礼尽双六』、「東海道五十三次画巻」、「柳町二丁目道祖神祭礼帳簿類」などがありました。

 「道祖神祝儀並(ならび)に諸入用永代帳」は、安永9年(1780年)から文政10年(1827年)までの八日町一丁目の道祖神祭礼を担う若者組が、各年の収支・用具の管理先一覧・祭りの負担金の割合・飾り類作成のための材料などを書き留めたもの。

 町の「若者組」が道祖神祭礼の担い手であることが推察されるし、集めた御祝儀の収支を計算していたこと、用具は分散して管理していたこと(火事などでまとめてなくなることを防ぐためか)、飾り類が新調されたりしていたことがわかります。

 『諸国祭尽(づくし)双六(すごろく)』は歌川広重が日本各地の祭りを紹介するものとして描いた双六で、振り出しは江戸神田明神祭礼で上(あが)りは江戸山王祭り。

 その中に甲府道祖神祭が含まれています。

 人家の軒先に幕絵が張られており、絵柄は桜の花を見上げている女性二人を含むもの。

 隅田川の堤(墨堤)の花見風景でしょうか。

 「東海道五十三次画巻」は作者不詳ですが、伝歌川広重筆の「東海道五十三次画稿」とともに伝来するもうひとつの幕絵の下絵であるといい、1巻につき幕絵5枚分で計20枚分の下絵が残されているとのこと。

 「御油(ごゆ)赤坂」には客の袖を引く飯盛女たちが描かれています。

 「東海道五十三駅」を幕絵として飾ったのは柳町三丁目であったことは前に触れたところです。

 「柳町二丁目道祖神祭礼帳簿類」は、元治2年(1865年)から明治5年(1872年)までのもので、道祖神祭礼における分担金や祝儀金などが記されています。

 八日町一丁目の「永代帳」や柳町二丁目の帳簿類などを見ると、祝儀金の収支などの明細、分担金などについて記録されていたようであり、その帳簿類は次の「年番」に受け継がれ大事に保管され続けたものであることがわかります。

 これは八日町一丁目や柳町二丁目だけでなく、どこの町や村の道祖神祭礼においても同様であったと考えられます。

 展示物を見終わった後、会場を出る手前の通路を利用した形で当時の幕絵が張られた夕方の通りを歩く体験コーナーがありました。

 LEDの灯りが点る提灯を持って、その通路を右手の幕絵を見ながら歩いてみました。

 幕絵は広重の「東都名所 目黒不動之瀧」。

 実際は子どもたちの打ち鳴らす太鼓や囃子の音が鳴り響き、祭提灯が通りにずらりと並び、また手に持つ提灯の火はロウソクであったから風に揺らめき、その提灯の灯りは通りに満ち満ちていたことでしょう。

 さらに通りには、幕絵を見物する多数の老若男女の歓声や話し声、土を踏む草履や下駄の音も満ち満ちていたことでしょう。

 そして見上げる空には満天の星。

 そのような実際の道祖神祭礼の夜を通路を利用した体験コーナーで実感するというのは無理というものですが、その情景の一端を味わうことができました。

 このような甲府道祖神祭礼の賑わいの様子は、常設展の江戸時代のコーナーの見事なジオラマによってより具体的にみることができます。

 以上で「シンボル展 よみがえる!甲府道祖神祭り」を見終えたわけですが、見終えてから気になったのは、この道祖神祭礼用具を保管していた「十一屋」野口家が近江商人であったということでした。

 リーフレットに、「祭礼用具を伝えた十一屋(じゅういちや)は、本家を近江(現在の滋賀県)におく商家で、明和年間(18世紀半ば)に江戸・関東市場への進出を見据えて甲府に店を開き」、「江戸時代には酒造業を中心に札差(ふださし・金融業)も営み、甲府城下を代表する商家に名を連ねて」いたとありました。

 「十一屋」という変わった屋号については、実は『国定忠治の時代』高橋敏(平凡社)で見掛けた記憶があり、帰宅してから『国定忠治の時代』にあらためて目を通してみると、確かに「商家の年中行事」の中に藤岡町(群馬県)の近江商人として「十一屋」が出てきました。

 この論考は、「商家の年中行事と町共同体」の問題を論じたもので、商家が生き延びていくための近隣や町共同体への配慮を商家の年中行事を通して探っています。

 他国者(よそもの)である藤岡の近江商人「十一屋」が、その町や地域で生き延びていくために年中行事においてどのような配慮をしていたか。

 藤岡の「十一屋」の取り組みは、甲府の「十一屋」においても共通するものがあったに違いありません。

 商家がそのような近隣や町共同体への配慮をないがしろにした時、一揆において「打ちこわし」の対象となる可能性が十分にありました。

 この高橋敏さんの論考は、「天保の大飢饉」に連動した「天保騒動」における一連の「打ちこわし」を考える際に大いに参考になるものでした。

 次回(最終回)は、その論考を取り上げてみたいと思います。

 

 続く

  ※写真は広重「甲府道祖神祭幕絵 東都名所 目黒不動之瀧」の一部。

〇参考文献

・シンボル展のリーフレット(山梨県立博物館)

・『国定忠治の時代』高橋敏(平凡社)



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