鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その4 

2012-12-17 05:42:03 | Weblog
「喜太郎絵本」については、芳賀登さんの『士魂の人 渡辺崋山探訪』(つくばね舎)の第三章「『喜太郎絵本』全作品と解説」に詳しい。喜太郎が生まれたのは文政3年(1820年)。崋山が初めて桐生を訪問した時には12歳。従って崋山が観音院の岩本家の墓地に墓参りをしたとき、同行した喜太郎は12歳の少年であったことになる。「喜太郎絵本」に納められている崋山が描いた正月江戸風俗画は全部で25図。喜太郎が江戸を訪ねた時の様子を描いたものであり、描かれている喜太郎がまだ幼いことから考えれば、天保2年(1831年)以前に、喜太郎はおそらく母茂登の里帰りの時に、母と同行して江戸へ行ったものと推測することができます。つまり喜太郎は、崋山の初めての桐生訪問以前に、江戸においておじさん(母の兄)である崋山と親しく接していることになるのです。芳賀登さんは、この「喜太郎絵本」の成立時期を「文政七年ごろ」に設定されています。この「喜太郎絵本」で注目されるのは、「麹町岩城桝屋の帳場」と「田原藩御用の岩城桝屋の」が描かれていること。おそらく崋山は喜太郎を近くの麹町の呉服屋「岩城桝屋」に連れて行ったに違いない。桐生の玉上家(岩本家の主家にあたる)と岩本家は、江戸麹町の「岩城桝屋」を第一の取引先としており、岩本茂兵衛は桐生と江戸麹町の間をしばしば往復。「岩城桝屋」と田原藩上屋敷との取引関係の中で、岩本茂兵衛は田原藩上屋敷にも出入りするようになり、そこで渡辺家とも親しく接するようになって、ついには渡辺家の娘茂登がその岩本茂兵衛に嫁ぐまでになったからです。茂登が長男喜太郎を連れて「里帰り」したところは、もちろん半蔵門外の田原藩上屋敷内の長屋であったはずです。そこから麹町の「岩城桝屋」までは、歩いて10分前後とほんの近距離であったのです。 . . . 本文を読む