鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.1月取材旅行「新川口~本行徳~妙典」 その4

2011-01-30 06:20:10 | Weblog
『明解 行徳の歴史大事典』鈴木和明(文芸社)によれば、「行徳船」は下総本行徳村の「新河岸」から江戸日本橋小網町三丁目の「行徳河岸」までを往復した「渡し船」であり、船頭1人の手漕ぎ船でした。10石積みほどの川船で、7~24人乗りであったという。3里8丁の所要時間は約3~6時間。途中での乗り降りはできませんでした。したがって「長渡船(ながわたしぶね)」とも言ったという。崋山たち3名が小網三丁目行徳河岸で乗り込んだ「行徳船」は借り切りであり、船賃は本行徳まで500文でした。もし乗り合いで行けば、1人あたり64文で済んだのが、借り切りにしたために1人あたり166文余と、3倍近くの船賃になりました。「行徳船」を借り切りにした小網町三丁目の船問屋は「加田屋長左衛門」であったことを、崋山はちゃんと記しています。小網町三丁目の「行徳河岸」を出て、夏の炎天下、日本橋川→隅田川→小名木川→中川番所前→新川(船堀川)→江戸川と進んでいった「行徳船」は、その日の昼ごろに本行徳村の「新河岸」に到着。上陸した3人は、街道沿いの旅籠兼茶屋である「大坂屋」で昼食を摂り、それから街道を進んで「成田街道(佐倉道)」の八幡(やわた)宿の方へと向かっていきました。本行徳村内を江戸川からやや離れて、それに平行して走っている街道を現在は「行徳街道」と呼んでいますが、前掲書によると、それは浦安から本八幡(もとやわた)を結んでいた街道で、古くからの呼称ではなく、「東房総街道」「香取鹿島街道」「八幡船橋街道」などと呼ばれていたらしい。江戸時代の本行徳村は、この街道沿いに家々が軒を連ねていたという。 . . . 本文を読む