鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.1月取材旅行「新川口~本行徳~妙典」 その2

2011-01-27 06:02:32 | Weblog
新川口(しんかわぐち)は、かつては南葛飾郡瑞穂(みずほ)村下今井の新川の北岸にありました。そこで左折した「行徳船」が向かう先である行徳は、かつて「行徳千軒、寺百軒」と言われたように、ここから成田街道や木下(きおろし)街道を利用して、成田新勝寺、あるいは香取神社・鹿島神宮・息栖(いきす)神社の「三社詣で」へと、江戸の人々が向かう町として大変賑わったところでした。特に成田参詣講中の中宿は、12軒も軒を並べていたという。この行徳の江戸川べりにある行徳河岸は、江戸と房総を結ぶ玄関口であり、寛永9年(1632年)に本行徳村内にできた河岸でした。江戸までは船道で三里八丁(約13km)。「行徳船」は、この本行徳の行徳河岸と、江戸川(旧江戸川)─新川(船堀川)─小名木川─隅田川─日本橋川を利用して、江戸日本橋小網町三丁目の行徳河岸とを結んでいました。「木下(きおろし)街道」というのは、この本行徳村の「行徳河岸」と、下利根川筋の手賀沼付近の「木下河岸」とを結んでいた街道で、「木下河岸」は、香取・鹿島・息栖の「三社詣で」に向かう人々が乗る「木下茶船」が発着するところでもありました。したがってこの「木下街道」は、江戸から下利根川筋へと向かう最短路として、盛んに利用された道であったのです。渡辺崋山一行も、江戸日本橋小網町三丁目の行徳河岸から「行徳船」でまずその終点である下総本行徳の「行徳河岸」へと向かい、そこから「木下街道」を利用して下利根川筋へと出る(つまり木下河岸に至る)というルートをたどったことになります。 . . . 本文を読む