鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その8

2009-11-12 06:35:15 | Weblog
臼井秀三郎が写した河口村の鎌倉往還(御坂みち)の路上両側に敷かれているのは、茣蓙であり、それはどうも養蚕関係のものであることがわかってきました。実は『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』に抜粋されているヘンリー・ギルマールの『いなごの喰った年』の中に、次のような記述があります。場所は吉田。「きれいな山中湖を過ぎ、吉田に着いた。旅行者はすぐに吉田が養蚕地であることに気づく。なぜなら、通りに沿って茣蓙が並べられ、その上で何百万という数の金色の繭が干されているからである。もしそれがなければ、スイスに少し似ていることを思い出すかもしれない。家の屋根にあるこけら板の重しには、スイスで見かけるように、石または石ぐらい重い綱が使われているからである。」これは御師(おし)の町である上吉田のことではないように私には思われます。上吉田周辺の街道筋の村か、あるいはこれは吉田の記述ではなく河口村の記述であるかもしれない。あるいはほかの村と同様な光景が、河口村でも見られ、それらを全部ひっくるめた記述かも知れません。道両側に、真ん中の通り道をのぞいて茣蓙が延々と敷かれている光景に興味をもったギルマール一行は、その景観がもっとも整然としていた河口村の通りを、同行カメラマンである臼井秀三郎に写させたのかも知れない。明治15年7月14日のギルマールの『旅行日誌』には、「舟を漕いで島から戻り、湖上の向こうにある内陸部の写真を撮った。それから、昼食。その村の写真を撮り、藤野木に向けて出発した。」もちろん「湖上」とは河口湖の上ということであり、「村」とは河口村のこと。村の写真を撮った場所は、現在のN・Kさんの家の前。左手には現存するN・Tさんの家が写り、また中央右手にはやはり現存する道祖神が写りました。通り両側、用水路に沿って延々と敷かれているのは茣蓙であり、白い布のようなものは「何百万という数の金色の繭」を天日干ししているものかも知れません。茣蓙も白い布のような何かも、この当時、河口村の重要な生業(なりわい)の一つであった養蚕に関係するものであることは間違いのないもののようです。こういう沿道の光景は、山中湖から河口村までの沿道(鎌倉往還の)で、この時期(旧暦では6月中旬頃)にはよく見られた光景なのでしょう。当時の村人にとってはあたりまえの光景でしたが、外国人一行にはきわめて興味深い光景であったのです。 . . . 本文を読む