鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その1

2009-11-04 06:23:36 | Weblog
前回の取材旅行では、「御坂みち」の旧道と新道(バス通り)が交わるところ、すなわち「藤野木」バス停のところまでを歩きました。思いがけず、「山彦」という売店のKさんといろいろと話しこみ、かつての茅葺き屋根の棟に植えられていたであろう「イワヒバ」や「イチハツ」を見ることができました。こういう棟は一般に「芝棟」といわれ、東海道や甲州街道近辺にも見られ、またその間の脇往還の村々にも見られたものです。この「御坂みち」の民家の屋根にも見られたものであることを確認することができました。確認したのは、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』に収録されている臼井秀三郎が撮った3枚、すなわち同書P18の上下およびP19上の写真の撮影地点も。撮影されたのは明治15年(1882年)7月15日の早朝から午前9時頃にかけて。写した順番は、P18上(藤野木宿)→P18下(駒木戸・現立沢)→P19上(上黒駒)となる。当時の「御坂みち」は、藤野木宿より下(上黒駒方面)では、現在の旧道よりさらに東側を走り、場所によっては金川沿いに、または金川より東側の山沿いに走っていたことがわかりました。P19上の写真のところに記されているように、「谷を登り降り」するかなりアップダウンのある道であったのです。しかし明治40年の大水害を始めとする水害により、金川の流路は変化し、また金川の流域も大きく変貌し、かつての「御坂みち」の一部は失われてしまいました。今回の取材旅行のポイントは、同じく『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』の臼井秀三郎が撮影した写真、P15~P17にかけての6枚の写真の撮影地点を確認することでした。P17下の写真を除いては、藤野木宿に泊まる前日の7月14日ないし13日に撮影されたもの。吉田村と河口村、それに河口湖越しに富士山が写されています。撮影された地点は、取材の結果、吉田村からP15上→P16上→P16下→P17上→P15下であることが判明しました。この日、ヘンリー・ギルマール一行と随行写真師の臼井秀三郎らは、「無数の蚤と蚊」に悩まされた河口村の宿を出て午前中は河口湖からの富士山を撮影。昼食を摂ってから、河口村の写真を撮影した後、藤野木に向けて出発。P15下の写真の奥に見える御坂峠の険しい山道を越えたのです。その途中で撮った写真がP17の写真。ということはこの写真も7月14日に撮影されたものかも知れない。 . . . 本文を読む