鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 佐久平その3

2009-09-21 07:01:41 | Weblog
鴎外の「みちの記」、山田温泉滞在中の記述にも興味深いところがいくつかあります。鴎外が宿泊したのは「藤井屋」で、7軒ある宿屋の一つ。部屋の中央に囲炉裏があって、そこで煮炊きが行われていました。湯壷の周囲には、多くの湯治客が手拭いを身に纏(まと)って臥しており、その状態で湯壷から湯を汲んで体に灌(そそ)いでいました。それをまたいで湯壷に入るのに、裸の鴎外は苦労したようです。近在から挽物細工を売りに来る、「お辰」という12、3歳の少女もいました。注目すべきは、「藤井屋」において鴎外は、2日前の『朝野新聞』と『東京新聞』に目を通していること。東京で発行された新聞が、その2日後には信州高山村の山田温泉の宿屋で読まれているということは、汽車や馬車鉄道、運搬業者などによって、東京の新聞が津々浦々に運ばれていたということであり、即日ではないが、信州の山奥であっても、2日後には届いていたということ。東京の新聞は、地方の、財力があり政治的関心を持つ人々(たとえば豪農層)の間に広く読まれていたであろうことをうかがわせます。その新聞は、鉄道の普及とともによりスピーディーに地方へ運ばれていくことになりました。佐久地方においても例外ではない。小諸停車場に下ろされた新聞各紙は、運搬業者により、それを定期購読している佐久地方の人々の家に届けられたのです。さて、山田温泉に滞在中、鴎外の関心を引いたのは「荼毘所」でした。「山田にては土葬するもの少く、多くは荼毘」に付していました。つまり火葬ですが、その火葬の現場を鴎外は目撃しました。鴎外は興味を持ったものについては詳細に記述します。火葬にするのに、薪のほかに糠(ぬか)を入れた俵を使っていることに注目しています。「秋月の乱」のことを詳しく知っている人にも会っています。鴎外が再び碓氷馬車鉄道に乗り込んだのは、その温泉保養の旅の帰途、明治23年(1890年)の8月27日のことでした。しかし客車ではなく、なぜか貨車に乗っています。「払暁(ふっぎょう)荷車(貨車─鮎川)に乗りて鉄道をゆく。さきにのりし箱(客車)に比ぶれば、はるかに勝(すぐ)」れ「壁なく天井なきために、風のかよいよくて心地あしきことなし。」今度は、鴎外は車酔いすることなく横川停車場に到着しますが、水害による鉄道不通のため、旧街道(中山道)を松井田停車場まで草鞋ばきで歩かざるをえませんでした。 . . . 本文を読む