鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 軽井沢その3

2009-09-01 06:24:03 | Weblog
碓氷馬車鉄道について詳しい記述がなされているのが、『碓氷峠の歴史物語』(櫟)・『信州の廃線紀行』(郷土出版社)・『信州の鉄道物語』(信濃毎日新聞社)の3冊。この馬車鉄道については資料はそれほど多くなく、写真も私は一枚しか知らない。この写真は、『信州の廃線紀行』にはP32に、『信州の鉄道物語』にはP85に掲載されていますが、これは明治23年(1890年)頃に写されたものであるらしい。小さく5両の車両が見えます。客車についていえば、こは木製で、長さは1,8m、幅は1,35m、重量は499kg。客車は上等車の5人乗りと、中等車?の10人乗りがあり、上等車は馬1頭が曳き、10人乗りは馬2頭が曳きました。森鴎外が乗ったのは10人乗りの方で、外が青いペンキで塗られた車体の中央に長い仕切り板があって、互いに背中を仕切り板に合わせるようにして外側に向かって5人ずつ、計10人が乗れるようになっていました。木製の腰掛には「フランケット」が2枚敷かれていました。左右には木綿のカーテンがあって、上下に筋金を引くと、それを開け閉めできるようになっていました。車両・線路ともにフランス製でドコービール方式の馬車鉄道であったという。対して貨車の方は、長さが約1,0m、幅が約72cm、高さが15cmほどの台に木枠を組み立てたもので、客車に較べると一回り小ぶりなものとなります。これに生糸・繭・塩・味噌・織物・米などさまざまな物資(それまでは馬や荷馬車で運んでいたもの)を積載したのです。客車は明治21年(1888年)に14台であったものが翌22年には35台に増加し、貨車は21年に12両であったものが23年には65両に増えています。22年一年間の乗客は7万7668人、荷物は79920トン。乗客は一日平均200人余。一日4往復であることを考えると、利用客はそれなりにいたものと思われます。鉄輪には木製の歯止め(ブレーキ)が付き、急勾配が全長18,87kmのうち4分の1近くの4,5kmもありました。最小曲線半径はわずか7,2m。スピードを出せば横倒しになってしまうほどの急カーブの連続でした。乗車賃は一人40銭。貨物は10銭~14銭(大きさや重さによって異なったのでしょう)でした。アプト式鉄道の開通とともに会社が解散したのは明治26年(1893年)の4月1日。社長の高瀬四郎は全財産を失ったといわれています。 . . . 本文を読む