鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 小諸その5

2009-09-15 07:09:41 | Weblog
島崎藤村が、「堅実」「質実」「勤勉」と見た小諸商人の気風ですが、『小諸商人太平記』の「小諸商工業史」(大井隆男)にもそのことが指摘されています。たとえば、大井さんは、明治の小諸商人を代表する人物として「柳田茂十郎」という人を紹介しています。その中で次のように記しています。「それから商売の態度と申しますか、心掛けとして一番大事にしたものは、誠実と信用であったと思われます。つまり商業といいますと、ちょっと駆け引きしたり、ちょっと狡(こす)いことをして利益をあげるというような手段を、昔の商人はよくやったようでございます。小諸の商人はそういう手段は少しもとらなかった。あくまで正直と誠意をもって商売に当たり、客に満足感を与えるというような精神が、小諸の商業経営の特徴であったと思います。これと同時に商人はたいへん質素でありました。…小諸商人の場合、非常に生活が質素で勤勉で、忍耐強いのがその生活態度でありました。」そこで、明治初期の商人として柳田茂十郎のことが紹介されるのですが、この柳田茂十郎については、実は島崎藤村も言及しています。藤村は次のように言う。「私達の学校の校長に逢うと、よく故人(柳田茂十郎のこと─鮎川)の話が出て、客に呼ばれて行って一座した時でも無駄に酒を飲まなかったと言って徳利を控えた手付までして聞かせる。『酒は飲むだけ飲めば、それで可いものです』万事に茂十郎さんはこういう調子の人だったと聞いた。」「私達の学校の校長」とは木村熊二のことでしょう。この木村熊二に逢うと、よくこの柳田茂十郎の話が出たというのです。「先代柳田茂十郎さんと言えば、佐久地方の商人として、いつでも引合に出される。茂十郎さんの如きは極端に佐久気質(かたぎ)を発揮した人の一人だ」と藤村は述べているのです。柳田茂十郎が亡くなったのは明治33年(1900年)、藤村が小諸義塾の教師として小諸にやってきた翌年のことでした。大井さんは、「小諸の町というのは、信州で一人前の商人になるなら、まず小諸へ行って修業してこい、というような町になった」とも記しています。小諸で修業する中で、「堅実」「質実」「勤勉」「正直」「誠意」といった、根本的な商人道徳を、信州の商人の卵たちは学んでいったのです。 . . . 本文を読む