唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (140) 開導依 その(45) 護法の正義を述べる(19) 

2011-07-27 21:52:26 | 心の構造について
 
「言は総じて意は別なり、亦相違せず。」(『論』第四・二十六右)
 (『瑜伽論』の記述は言総意別によって説かれている。従って護法説に相違するものではない。)
 「述して曰く、(『瑜伽論』巻第五十二)彼の論は言は総じて六識に遍ずれども、意は乃ち六識の自類を説いて各々相望するなり、亦理に違せず。即ち総じて意の言く、若し諸識生ずといはば、意は決定せる識を取って一切を取るにはあらず。今総じて言うが故に諸識生ず等といへり。『摂論』第一に一法としても未だ達せず未だ遍知せずと云う意の如し。」(『述記』第五本・十九右)
 『瑜伽論』の記述は異類の識が等無間縁や開導依になるという意味で説かれているものではなく、その真意は前滅の眼識は後滅の眼識の等無間縁となる、乃至。自類の等無間縁の意味で説かれているのである、という。従って『瑜伽論』の記述は護法説に相違するものではないといい、難陀等或いは安慧等の主張を論破するものである。
 『述記』の「如一法未達未遍知意者」とは、
  「無着は八を小の為に説かずということを明かす。無性は外の経を以て難を為すを挙げて、而も為に之れを通ず。今略して引いて云はく、彼の本論(『摂論』巻第一)に、復次に何故に、声聞乗の中には、此の心を阿頼耶識と名づけ、阿陀那識と名づくと説かざるや。此れは深い細の境の所摂なるに由るが故なりと云へり。無性は(『無性摂論釈』巻第一)外の経を引いて難ずるを牒して云はく、「我一法として未だ達せず、未だ遍知せざる等を説かずと説くが如しとは外難の意を釈して云はく、頼耶は深細にして小の為に説かずんば、即ち小乗の人は第八を見ざるべし。云何んぞ惑を断じて阿羅漢と成るべけん。何の所以とならば、世尊の説くが如し、我一法として未だ達せず未だ遍知せずして阿羅漢と成るとは説かず(達は通達、無間道・遍知は解脱道、すべての煩悩を断じたと遍く完全に知る智慧)。我は唯説いて一切の法に於いて已に達し已に遍知して方に能く惑を断じて阿羅漢と成ると言う。・・・・問、別を以て総を詮わすという其の意云何。答、総は是れ別の真実性なりということを顕すが故に。・・・・」(『演秘』第四末・八左)
 「今『瑜伽』の文も亦復是の如し。意は前の各自の別識を後の各自の別識等無間縁と説くが故に。総処に於いて説く。若し彼六識を此の六識が為に等と云う。此れは是れ別意の言声の総処に於いて転ずるが故に。又此に「言は総じて意は別なり」と云うに三有り。
 一に前の第三を会して云く、若し此の識の無間に諸の識決定してせいずと云うは、若し此の識と云う及び諸識は皆是れ総じて語と云へり。意は各別の八識を説く。此の総じて声を挙げたり。諸の識は互いに縁と為ると許すと謂うには非ず。
 一は云く、第三の意別を解す。後の識は定んで生ずと説きて、無学最後心を簡とし、然も総の諸の識の生ずる声を挙げたり。
 一は云く、前の又「此六識為彼六識」を会す。意は別に各自の六識を説かんと欲して彼の総の声を挙げたり。意は別の六に目たり。此の六の言に総じて八識を含めて言総意別と謂うに非ず。難とならば、(『瑜伽論』巻第五十二)五十二の初に諸の心・心所の無間に後の諸の心・心所生ずと云うを挙げて、通じて八識を詮ず。重ねて復た此の六つと彼の六つと言うは、三乗によって通じて説けり。故に八に通ぜず。」(『了義燈』第四末・二十四右)
 上記のように「この六識は彼の六識の等無間縁と為す」と説かれるなど、異類の識が等無間縁になるというように解される文言がありますが、まとめて述べればこのような表現になるのであって、真意は別であると解されます。