唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (124) 開導依 その(29) 護法の正義を述べる (3)

2011-07-07 22:40:27 | 心の構造について
 第二 ・ 安慧等の説を論破する。
 二つに分けられ説明される。
 (1) 諸識不倶難(諸の識倶ならざるべしという難 - 異類の識の開導を認めるならば諸識は倶起しないであろうと論破する。)
 (2) 色心無異難(色と心と異なることなかるべしという難 - 異類の識の開導を認めるならば色法と心法とに異なる所が無くなるであろうと論破する。)
 「下は初の難なり。」(『述記』)
 「若し此れが彼と倶起する義無しといはば、此れを彼に於て開導する力有りと説くべし。一身に八識既に倶起す容し、如何ぞ異類を開導依と為すという。」(『論』第四・二十四左)
 (もし此れが彼と倶起しないというのであれば、此れは彼に対して開導する力が有ると説くべきである。一身に八識がすでに倶起することを承認しているのであるから、どうして異類の識を開導依とできるというのか、できないはずである。)
 「述して曰く、・・・此れ(前念の眼識)は、彼(後念の眼識心・心所)が與に此の依と為すと説くことは、即ち是れ要ず開導する力有るが故なり。(然るに)一身に八識既に倶起するの理有りと許す容し。如何ぞ自識を他識の識が與に開導依と為すというや。彼の處を開避し引導して生ぜしむるに要ず相い力有り。他(耳)の現に生ぜる處は我(眼)が路を障へず。自(眼)の前の心の如きには非ず。如何ぞ他識(耳)を此れ(眼)が與に依と為るという。薩婆多師の六識倶起せずというが如きは(六識)心いい(互に)相障へたり。故に(六識)互に依とすというべし。今は既に倶生すというを以て(互に)開導すること無かるべし。」(『述記』第五・十二右)
 護法の理は、前念の識(心王)は後念の識(心王)・心所を生じる為の路を開避し、後念の識(心王)・心所を引導する働きを依とするのが開導依であるという。そして八識倶起説(難陀・安慧等も承認している)からみると、八識は倶起するのであるから八識同士は互いに他識が生起するべき路を妨げないということになり、八識は互いに開導依とはならないのです。「自識を他識の識が與に開導依と為すというや」と。自識からみて異類の他識は開導依とはならないというものです。
 前念の識が生起している限り後念の識の生起する路を塞いでいるわけです。そして前念の識が消滅してはじめて後念の識が生起するわけですから、前念の識が後念の識を開避し引導する力が存在することがわかるといいます。「此れを彼に於て開導する力有りと説くべし。」と本文は述べています。
 そして、八識倶起ということは、八識相互の関係は異類になりますが、八識が倶起するということは互いに妨げないで生起することになりますから、八識相互の間においては開導依は成り立たないということです。逆にいうと、倶起しないということは、ある識が生起する路を妨害しているということになりますから、妨害している識には妨害されている識の生起する路を開避し引導するという力が存在することになります。従って開導依となるのは(自識)前念の自識に限られるというのが護法の開導依説になります。
 尚、八識倶起については2010年12月29日の項を参照してください。