唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (119) 開導依 その(24) 安慧等の説 (19)

2011-07-01 21:12:41 | 心の構造について

 「第四に八も六・七を以て依と為すという難なり。彼れ先に七・八は各自を以て縁と為すというが故に。」(『述記』)

 (その四は、難陀等の第八識の開導依説を論破する。)

 「中に於て二有り、先は果の中の識に於いて難ず。」(『述記』)

 (これが二つに分けられる。初は、果の中の識から論破する。後に、因の中の識から論破する。今は初である。)

 「円鏡智と倶なる第八の浄識は、初めには必ず六・七の方便に引生せらる。」(『論』第四・二十三左)

 (大円鏡智と倶である第八識・浄識は初には必ず第六識と第七識の方便に引生される。 - 従って第八識は前念の自識とともに第六識と第七識も開導依とする。)

 難陀等の第七識と第八識の開導依は「但自類を以てのみ開導依と為す。」という説を立てていました。この難陀等の説をこの科段では論破していきます。

 「此の位より前に二智を得べきが故に、故に此の時の第八は六・七を持って依と為すべし。余の時には無きが故に。」(『述記』第五本・九左)

 先は果の中の識において論破しています。大円鏡智と相応する第八識は前に二智(妙観察智と平等性智)によって引生されるので、これは第八識が第六識と第七識に引生されているということになり、第六識も第七識も第八識の開導依とすべきであるというのが安慧等の論理になり、これを以て難陀等の主張を論破しています。この論理にも若干の疑問がありますが、後に護法が論破していきます。

 第二に因の中の識を以て論破すます。

 「又異熟心は染汚の意に依ると云う、或いは悲願と相応する善心に依ると云う。」(『論』第四・二十三左)

 (また異熟心は染汚の意に依って引き起こされると説かれている。或いは悲願と相応する善心に依って引き起こされると説かれている。)

 文意は二通りですね。 (1) 「異熟心依染汚意」 (2) 「依悲願相応善心」 という二つの根拠に依ります。

 (1)の論破する根拠は『摂大乗論』巻第三に説かれていると 『述記』 は述べています。

 「摂論の第三に説く。異熟心は染汚意に依ると云えり。無性は染の意と云うは即ち是れ第六なりと云う。世親は染の意と云うは、或いは第七の心なりと云う。故に知りる第八は亦六・七にも依るということを。」

 『摂大乗論』巻第三に「異熟心は染汚意に依る」と説かれているのを、『無性摂論』では染汚の意は第六識であるとし、『世親摂論』では第七識であると理解していることにより、染汚の意には第六識と第七識が含まれいるという。この理解をもって「異熟心依染汚意」 は第八識が第六識と第七識に依って引生されると説かれていることになります。   

 無性と世親の解釈の違いは視点の相違であると『了義燈』は指摘しています。

 「論に又異熟心依染汚意等とは、何故に無性の両釈あり。一に云く、即ち第六識を染汚依と為す。第二は世親に同なり。所謂末那なり。何故に二の別答両の論違せざるや。此れに二義有り。一には恒相続する。二には内外を縁じて増上の愛を起こすが故に。無性は即ち通じて内外を縁じて染汚を起こすに據りて云う。第七を言はず。世親は即ち恒相続する識の、常に染汚を起こすに據ると云う。第六無きにあらず。恒にあらざるを以ての故に、隠して而も説かず。・・・」(第四末・二十一右)

 相違点は (1) 恒相続(第七識) (2) 内外を縁じて増上の愛を起こすが故に(第六識) という視点の相違であって、染汚の意は第六識と第七識を指すことはいうまでもありません。

 「悲願と相応する善心に依る」という二つ目の解釈は次回に譲ります。