愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題66 漢詩を読む 酒に対す-3

2018-02-15 11:49:38 | 漢詩を読む
正にピッタリ!この一句:
 (三四杯以上も飲むと)陶然として、あらゆる煩わしさを消してくれるわ

中唐の詩人白居易(楽天)の詩:「陶潜(トウセン)の体に倣(ナラ)う詩十六首 其の五」の中の一句で、心底お酒を愛する白居易の感想です。
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「陶潜の体に倣う詩十六首 其の五」は、18句からなる長編ですが、下に全編を挙げました。非常に平易で分かり易く、我々日本人にとっては、字ずらを見るだけで、言わんとすることが凡そ想像できます。なお、陶潜は、陶淵明のことです。

白居易は、詩を作るたびに文字の読めない老女に読んで聞かせ、老女が理解できなかったところは平易な表現に改めて完成した との伝説があります。日本へは平安時代に紹介され、その平易さ故でしょう、日本の貴族社会でよく読まれたようです。

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倣陶潜体詩十六首 其の五  陶潜(トウセン)の体に倣(ナラ)う詩十六首 其の五
朝亦独酔歌、 朝(アシタ)に亦(マタ) 独(ヒト)り酔いて歌い、
暮亦独酔睡。 暮(ク)れに亦 独り酔いて睡(ネム)る。
未尽一壺酒、 未(イマ)だ一壺(イッコ)の酒 尽(ツク)さざるに、
已成三独酔。 已(スデ)に三(ミ)たび独り酔うを成(ナ)す。
勿嫌飲太少、 嫌(ウタガ)う勿(ナカ)れ飲むこと太(ハナハ)だ少きを、
且喜歓易致。 且(シカ)も致(イタ)し易(ヤス)きを喜歓(ヨロコ)ぶ。
一杯復両杯、 一杯 復た両杯、
多不過三四。 多くとも三四を過ぎず。
便得心中適、 便(スナハ)ち心中の適(テキ)を得て、
尽忘身外事。 尽(コトゴ)く身外の事を忘る。
更復强一杯、 更に復た一杯を强(シ)いれば、 
陶然遺万累。 陶然(トウゼン)として万累(バンルイ)を遺(ワス)る。
一飲一石者、 一飲(イチイン)一石(イッコク)の者、
徒以多為貴。 徒(イタズラ)に多きを以(モツ)て貴(トウト)しと為(ナ)す。
及其酩酊時、 其れ酩酊(メイテイ)の時に及(オヨ)べば、
與我亦無異。 我と亦た異(コト)なる無し。
笑謝多飲者、 笑って多くを飲む者に謝(ツ)ぐ、
酒銭徒自費。 酒銭(シュセン) 徒(イタズラ)に自費(ムダヅカイ)すると。
 <現代語訳>
 陶淵明に倣う詩十六首 其の五
朝に一人で飲んで酔って歌い、暮れにまた一人で飲んで酔っては眠る。
徳利の一つも空けないうちに、すでに三度も一人で酔うことになる。
飲む量が甚だ少ないではないかと疑うなかれ、
しかもやすやすと心地よい気分になるのを喜んでいる。
一杯、また二杯と、三四杯を超えることはない。
それでいて胸の内はちょうど良い気分で、身の回りの事どもは悉く忘れる。
更にもう一杯強いて飲むならば、陶然として、あらゆる煩わしさが消える。
一度に一石(イッコク)もの量を飲む者は、量が多いことをやたらと誇っている。
ほら、酔っぱらってしまえば、私となんら異なることはないではないか。 
笑って大酒飲みに告げる、酒代を無駄に費やしているぞ と。
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白居易 (772~846) は、陶淵明 (365~427) の直系の後継者であるとも評されている。文学の面に限らず、酒好きの面でもそうである。ただ、お酒に向かう胸の内は、両者に違いがあるような気がしてならない。

お酒は人生に喜びを求めて飲むのであり、飲めば、陶然として世俗の煩わしさを忘れ、天地自然と一となる境地に達する、それこそ“お酒の妙味”と言えよう。その点、白居易は、陶淵明から、しっかりと引き継いでいるようである。

しかし前回の陶淵明の詩と上掲の白居易の詩を読み比べてみると、陶淵明にはお酒に対するに当たって、影に“憂”の思いが潜んでいるように思われてならない。一方、白居易は無条件(?)にお酒を楽しんでいる風である。

その違いは、生きた時代を含めて環境の違いによるのでしょうか。陶淵明は、故郷の農村に隠逸して、生活も困窮していたようです。また、前回紹介したように、東晋から劉宋へと移る政治的に激動の時代を過ごしていました。

唐では安氏の乱 (755~763) が起こり一時期乱れたが、白居易が生きた時代には一応落ち着いていた。白居易は、その唐朝の高級官僚であり71歳まで勤めている。以後、隠居しているが、その時期に作られたのが上掲の詩である。

以後の参考の為、白居易の生涯について簡単に通覧しておきます。白居易は、山西省太原の出身である。子供のころから頭脳明晰で、詩を作ることができて、評判の子であったらしい。800年(29歳)で科挙の進士科に合格しています。

ついで皇帝の司る親試に合格して、時代の選ばれた人となり、高級官僚の道を歩きはじめました。その頃、あの名高い玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を描いた120句からなる長編詩『長恨歌』を作っています。

若い白居易は、切り味鋭い政治批判の詩を多く作っています。それが原因の一つになったか、815年(44歳)に、ある事件に関連して越権行為があったとして、江州(現江西省九江市)に左遷されました。

現江西省九江市は、陶淵明の故郷であり、その頃白居易は陶淵明の旧宅を訪問していて、『訪陶公舊宅』と題する長い詩を作っています。また、「香炉峰の雪は簾(スダレ)を掲げてみる….」で知られる有名な詩もこの頃の作品である。

821年(50歳)には、穆宗の即位とともに長安に召喚された。しかし首都長安では、高級官僚間が分裂して激しい権力闘争が始まっていたようです。翌年自ら求めて中央を離れて風光明媚な江南、杭州に刺史(長官)として赴任しています。

54歳で蘇州刺史に任じられたが、間もなく中央に呼び戻された、しかし中央での権力闘争は激しさを増していて、堪らず829年(58歳)に洛陽に永住を決意し、以後、悠々自適の日々を送っていて、842年(71歳)で退官しています。

846年(75歳)に生涯を閉じますが、その間、3000首を越す、非常に多くの詩を残しているとのことである。その作風は、「流麗坦易(リュウレイタンイ)」と評されていて、平易で分かり易い表現の詩である。

多くの詩人と交わり、詩のやり取りをしていたようですが、その一人に元稹(ゲンジン)がいます。元稹は、物語世界の創造者の一人として、中国における最初の小説家と評されているようです。

後の時代北宋の詩人の蘇軾(東坡)は、白居易と元稹を批判して“元軽白俗(ゲンケイハクゾク)”(元稹は軽薄で、白居易は卑俗という意味)と評しています。哲学的意味を込めた詩作を好む蘇軾にすれば、さもありなん と言えようか(蘇軾については、本稿 閑話休題1、2、3及び45を参照)。

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