BPOでハゲ漫才に関する議論が必要となる可能性が出たらしい。
「ダメ」という結論では無く、あくまで議論という事だが、ここまで堕ちたか・・・
ルッキズムがどうの、という話らしいが、ハッキリ言えば、芸能そのものがルッキズムの塊である。
スタイルの良い美人を表紙にする事。
イケメンを主役のドラマを作る事。
これは、人間が「見た目で判断する生き物」だから仕方が無いのだ。
ハゲのネタで飯を食っている芸人を見て、ハゲが悩むだろうか。
いや、悩む人もいるだろう。
こればかりは、悩んでいる人でないと分からない感情だ。
(分かりやすさを優先しハゲと書いてるが、傷つける意思は無い)
が、問題なのは「ハゲをバカにしているのか」と「自身のハゲをネタにしているのか」は大きく違う事。
それと、ハゲをバカにするネタがあっても「真似してはいけない」というだけだ。
昔、コント番組で、セクハラをする医者なんてものがあった。
上半身を脱がせて触診、家族で見ていると気まずい雰囲気が流れた。
が、これで「世の中の医者は、エロ目的で診察をしている」とは思わないハズだ。
真似る事は無いし、医者をバカにする事も無い。
なぜなら「ネタ」として理解できているからだ。
人間、そこまでバカなんだろうか。
ネタをネタとして理解できない。
これを避け「ハゲ漫才はダメ」とすると、さらにNGが増えるだろう。
突っ込みそのものが「傷つける行為」となる日が近いのでは無いか。
こうやって、どんどん道を狭め、首を絞めているように感じる。
「面白い」が理解できない時代になっている。
だから、面白いを求めてネットに耳目が流れ、抑制が効かなくなっていくのでは無いか。
少々話が逸れてしまうが、城攻めをする際、必ず逃げ道を用意するのが鉄則である。
これは、頑強に抵抗されると味方の被害も多くなるからだ。
分かりやすく逃げ道を用意し、相手の戦力を削ぐ。
そして城を落とした後、逃がした人たちの手も使い、地域統制を図るのだ。
ネタは社会生活の中で「逃げ道」とならないか。
ネタすらできない世の中は、苦しくならないか。
「ダメ」という結論では無く、あくまで議論という事だが、ここまで堕ちたか・・・
ルッキズムがどうの、という話らしいが、ハッキリ言えば、芸能そのものがルッキズムの塊である。
スタイルの良い美人を表紙にする事。
イケメンを主役のドラマを作る事。
これは、人間が「見た目で判断する生き物」だから仕方が無いのだ。
ハゲのネタで飯を食っている芸人を見て、ハゲが悩むだろうか。
いや、悩む人もいるだろう。
こればかりは、悩んでいる人でないと分からない感情だ。
(分かりやすさを優先しハゲと書いてるが、傷つける意思は無い)
が、問題なのは「ハゲをバカにしているのか」と「自身のハゲをネタにしているのか」は大きく違う事。
それと、ハゲをバカにするネタがあっても「真似してはいけない」というだけだ。
昔、コント番組で、セクハラをする医者なんてものがあった。
上半身を脱がせて触診、家族で見ていると気まずい雰囲気が流れた。
が、これで「世の中の医者は、エロ目的で診察をしている」とは思わないハズだ。
真似る事は無いし、医者をバカにする事も無い。
なぜなら「ネタ」として理解できているからだ。
人間、そこまでバカなんだろうか。
ネタをネタとして理解できない。
これを避け「ハゲ漫才はダメ」とすると、さらにNGが増えるだろう。
突っ込みそのものが「傷つける行為」となる日が近いのでは無いか。
こうやって、どんどん道を狭め、首を絞めているように感じる。
「面白い」が理解できない時代になっている。
だから、面白いを求めてネットに耳目が流れ、抑制が効かなくなっていくのでは無いか。
少々話が逸れてしまうが、城攻めをする際、必ず逃げ道を用意するのが鉄則である。
これは、頑強に抵抗されると味方の被害も多くなるからだ。
分かりやすく逃げ道を用意し、相手の戦力を削ぐ。
そして城を落とした後、逃がした人たちの手も使い、地域統制を図るのだ。
ネタは社会生活の中で「逃げ道」とならないか。
ネタすらできない世の中は、苦しくならないか。