Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

機会均等への社会的判断

2024-07-17 | マスメディア批評
一走りから帰宅への車中。SWR交響楽団の次期音楽監督ロート氏との契約の履行の決定が報じられた。そして文化局長のアンケ・マイ女史が答える。まず最初に、フランスで報じられた事件のようなことはSWR内部では断じて許されない。現在までには問題がなかったとの調査結果 — 嘗て長らく合弁前のSWF交響楽団時の見解は以下の決定過程に繋がるかもしれない。同時にその役割と昨日から楽団との信頼関係なくしては任務が履行されえない。そこから防止策として、指揮者・楽団、客演ソリスツなどに適用される基準が設定された。それを話すマイ女史も楽団のマネージャーと共に自ら監視する責任を負う。

今回の判断には公共放送局として、ケルンでは顧みられなかった、多様化の中での差別のない機会均等の権利を尊重するという社会的な使命がある。つまり本人も過去の誤りを認めていて、そして新たに適用される基準に同意していることから、もう一度機会を与えられてしかるべきだという判断。また同時に芸術創造の場、つまり感情的な親近感などの無いところでは仕事が実らないという特殊性もあって、お互いの信頼感を構築する為には基準の中で試してみるしかないというのである。

こうした判断に至る経過には既に言及した様に過去の楽団からの楽員などの支持も少なくはなかったということで、即ち楽団内にも批判もある一方今後音楽をする環境にはあるということらしい。そしてその決断が社会的に批判を受けてということになるかもしれないが、前任者の時と同じく、楽団と指揮者が何を芸術的に示せるかというSWRの主張となる。

指揮者ロートへの個人的批判点が今回のことでより明白化されることで、音楽的にも明晰化されるのではないかと期待する。舞台上や裏そして会場の受け止められ方は分からないが、最終的には芸術的な評価の如何でしかない。

スチールブラシでゴリゴリやった。昔何かに使ったことがあると思うが自分で購入して使うのは初めてだった。銀色の固い方でごしごしやったが、思っていた様に表面の痘痕が落ちるほどの効果はなかった。だから紙やすりで擦る必要はあった。回りの鱗が少し落ちる感じは悪くない。二種類の柔らかい方を使う必要は無く、やすりで表面を滑らかにするだけで十分だった。

そこで走りに行く予定だったが、まだ陽が高く摂氏30度に近かったので、断念して錆落としの薬品をピンセルで塗ることにした。念のために両方の後輪タイヤには布を掛けて保護した。

細いピンセルを使ったので最小量を満遍なく塗布するに終ったが、少なくとも削った錆の粉などはこれで綺麗に落ちる筈だ。12時間待つので、朝一番に車を動かして走ることで、又一日車を停めておくことが可能となる。上手く行くとその間に塗料も配達されてスプレー塗布も可能となるかもしれない。

念のために下塗りの材料を再検査すると3CM以上の量があり、下に溜まっているピグメントを掻きまわして溶かすと、先ずは一通りは塗れるような気がした。錆び落とした場所も深くはなく薄く濃く塗ることが重要である。痘痕を如何に平らに塗るかだけである。大きな刷毛で塗ってから、クレディットカードのようなものをヘラにして表面を平らにするしかない。



参照:
SWR hält an François-Xavier Roth fest, Anke Mai, 16.07.2024 vom SWR2
隈も何もない浅墓さ 2024-05-25 | SNS・BLOG研究
週末の小片付けもの 2024-07-15 | 音
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雷雨のあとの祭り

2024-07-02 | マスメディア批評
ベルリナーフィルハーモニカーの上海公演が終わった。フィルハーモニカー自体は様々な編成で中共公演を引き続きするようだ。予想通りに盗録が自録と称して先ず最初の二回の公演のものがアップされている。

それ以外にも地元のTV局が公演のリポートとして、ユジャワンが演奏する場面などの映像の多くのセクエンツがアップされている。但し正式のマイクロフォンとの組み合わせはなさそうだ。

中露では何でもありなので予想された事であるが、こうした遵法精神の欠如は中華人だけでなく極東に共通したもので、罰則さえ受けなければお構いなしが通る世界である。如何せん極刑が必要とされると、それらの社会が考える所以だ。

初めからこういうことになることは分かっていたのだから正式な録音なり録画をさせればよかったのではないか。まだ最後の二晩のプログラムの隠し録音は出ていない。

ざっと流すと立派な演奏をしていて、ベルリンでの野外での演奏とは格段異なる精密な演奏が為されている。それはワンのプロコフィエフでもそうであり、ドイツ風と上海で批判のあったラヴェルも素晴らしい音響で、これだけの演奏はブーレーズ指揮でも到底無かったものである。そこにはフランス風の奏法とかの徹底以上にやはり異なるものがある。やはり先入観で聴いている玄人も多いのだと改めて確認する。

その中共サイトで探していたら、てっきり先ず最初に出てくると思っていたロシアのサイトよりも早く、プラハでの音楽祭開幕「我が祖国」の実況中継オンデマンドンのコピーが二種類見つかった。音質も悪いので映像での確認ぐらいにしか使えないが、先ずはダウンロードして保存した。そのようにネットで無料で入手不可能なデジタルデータなどは皆無である。

メディアデータに限らずソフトウエア―なども殆どは無料でダウンロード可能なので、ウインドーズ以来今迄有料で購入したソフトウエアーは三種類ぐらいしかない。勿論メディアデータを有料でダウンロードしたことなどは皆無である。絶対どこかに転がっているからだ。必要ならば検索すれば出てくる。その様な実際から一時ドイツでも海賊党という政党が国政選挙に出た背景があった。上の「我が祖国」においてもウニテルが共同制作とあるようなので絶対そういうものには一銭たりとも支払わないという腹が座る。メディア産業が壊滅した背景がそこにある。

先週の夕立あたりから夏の一休みとなっている。三日も続かなかったような夏日だったが、それでもここ迄気温が落ちると体調を崩しやすい。

急激に気温が下がって、眼が塞がって中々開かない。開いても閉じそうになる。なによりも昨秋の疲れからか右肩が痛い。数年前に痛めたのは左肩だと思うが、こうして冷えてくると右肩も痛む。軽く走って来て再び様子を見るしかない。



参照:
すっきり焚いて金鳥 2024-07-01 | 生活
上海公演での指揮者評価 2024-06-29 | 音
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今後へ問いかけインタヴュー

2024-06-13 | マスメディア批評
先日新たに公表されたケルンでの演奏会、その背景が新聞記事のインタヴューで分かった。ティーテュス・エンゲルの予定表には入っていなかった「メルティング・ポット」というクロスオーヴァーの演奏会である。演奏会というよりもイヴェントというべきだろう。

内容はデスメタルの作曲家でその音楽アクセントから最も現代のブルックナーとなっているベルンハルト・ガンターの作品で、交響楽団に加えてラップやDJにブレークボクサー、ブレークダンサーが一緒にやるというものである。だから客層も双方からで、会場もホールなどではないパーティー会場。

そしてこのイヴェントは元々は地元の老舗のギュルツェニッヒ楽団をその首席指揮者ロートが振ることになっていたようで、今回のMeToo事件でサドンデスでお役目御免となったことからこの作品を既に指揮したことがあるエンゲルが飛び入りすることになった。知っていたらミュンヘンでなくてこちらに向かっていた。

初演のヴィーンでの映像が残っているようにコルネリウス・マイスター指揮で行われていたようで、それなりに再演されているらしい。しかしこうして同年配の指揮者三人が振るとなるとそれは偶然とは思えない。
melting pot, Bernhard Gander 1:1

melting pot, Bernhard Gander 1:2

melting pot, Bernhard Gander 1:3

2011 Wiener Festwochen melting pot

making of melting pot - Wiener Festwochen/into the city 2011


エンゲル以外の二人の指揮者の顔ぶれを見れば分かるようにどちらかというと保守的な指揮者のレパートリーとなっているようで、エンゲルからすると若干保守的な作品となろう。しかしインタヴューでは、異なる世界を文字通り混ぜ合わせるものだと語る。

指揮者ロートと話したかと尋ねられて、直接ガンターと話したと語るのは当然、何曲もその作曲家の初演をしているのはエンゲルであり一昨年もピアノ協奏曲をシュトッツガルトで素晴らしい演奏で行い実況中継された。そして、今回ラッパーからもその内容をテキストとして提出されて、その主旨を理解したと語っている。その方の総合音楽プロデュースに関しては第一人者であり彼以上にこういうことを上手くやれる人はいない。その意味からすれば指揮者ロートの比ではなく、楽団の後任に決まっているオロスコが如何に指揮の技術が卓越していてもこれからの音楽活動に成果を残せるとは全く限らない。そのことはまさしくここで新しい指揮者の立場が求められていて、その合意の在り方や機能について言及している。最早それ以外の指揮者なんて時代遅れの非芸術的な猿回しでしかないとなる。

そして興味深いことにクラシック音楽作曲家がそうした自由な表現の場を提供することになっているというのがとても興味深い ― このことは先日のバーゼルでの作品に深く関わっている美学的な今日からの視点となっている。

ケルン自体もフィルハーモニーの新支配人、更にペトレンコのアシスタントであったマリージャコーが放送交響団の主席になることに言及して、今後どうなるか、新たな道が拓けるのかと質問されている。それに対して、既に始まっていて、様々な道へと繋がっていて、今回の「メルティングポット」のように異なる層に訴えかけることであるとする。反対に現在の定期公演のようなプログラミングのあり方には大きな疑問を呈していて、象牙の搭に籠るようなそのようなものではなくて、新しいものへのより開かれたプログラミングなどが必要だと結んでいる。

この地元紙を読むとケルンでの活動が前提になっているようにも思われる。先行き不明のSWRのみならずWDRにおいてもジャコーらにだけは任せられないのでエンゲルを必要としているのではなかろうか。



参照:
„Melting Pot baut Brücken zum Publikum von Morgen“, Jan Sting, Kölnische Rundschau vom 11.6.2024
永遠朝七時の目覚まし 2024-06-11 | 女
文化芸術のデスメタル 2023-02-05 | 音
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ルネッサンスの倫敦交響曲

2024-06-04 | マスメディア批評
承前)全く楽譜を読めていなかった指揮者タルモ・ペルトコスキ―がプログラムのメイン曲ヴォーンウイリアムスで見事な演奏をする。この偽印象派の作曲家の作品はそれなりに録音もされている。比較的有名なのはダニエル・バレンボイムが英国の室内合奏団で小曲を重ねて録音などをしたりしていたことであるが、今回のような交響曲を立派に演奏はしていない。

今回はプレヴィン指揮等の録音は聴いていたのだが、恐らく英国人指揮者で得意な人はいるのだろう。しかしタルモが指揮するような素晴らしい演奏は出来ていない筈だ。この若い指揮者がルネッサンスとなる演奏をしていることになる。「オペラ座の怪人」の音楽で喜んでいたのだろうが、その奥にある英国の音楽素材を丁寧に読みだしていて、五音階の終止も上手につけていて、中華民国雑技団とはならない。

そして今回の放送で繰り返し流してみても、演奏もとても上手にやっていて、練習にも時間を割いているようだが、それ以上に指揮でリズムを保持しながらの音出しは、自らのピアノでしっかり確認してあるようで、とても微妙な管弦楽となっている。

同年齢時のラトル指揮もここまでの指揮は出来ておらず、この指揮者の能力の高さが明らかである。

つまり時間を掛ければ楽譜も読めて深いところまで理解しているのだが、レパートリーを作りながら大交響楽団にデビューするというところで、客演続きではやはり厳しい。同様な無理はラトルが日本デビューした時にフィルハーモニア管弦楽団といざこざになったというのはまさしくそうした似通った背景があったからだろう。それでもそれなりにどの曲も纏めて来てはいたのだが、要求されるものはそれ以上だった圧力があったに違いない。既にそういう立場にいたからだ。

今回の場合には既にそうした20世紀中盤の指揮者像などは過去のものとなっているのにも拘らず、ビジネスモデルとしてポップスターにもならないタレント発掘をしているメディア業界の滅亡があり、そこに関わることで今回の演奏会のように一夜のそれとして完成させられない状況があることが大問題なのである。

ストリーミング生中継された一方予定されていた期日にはオンデマンド化されない背景には、前半のプログラムをカットしてもそれでも後半のメイン映像を容易にアップできない事情があるのだろう。

最終的にはどのような形になるかは分からない。恐らく今回の録画はタルモが指揮した演奏の中では最も商業的な価値も高いものだと思われる。そうなるとレーベル側もヴォーンウィリアムス全集で一儲けとなるところだ。しかし指揮者がそこ迄準備しているとは限らなく、先ずは今回のロンドン交響曲を持って一流管弦楽団で成功を収めないとお話しにならない。

ボストン交響楽団ぐらいで後任指揮者になれるかどうかなど、そうなるとまだまだ準備不足が甚だしい。やはり、じっくり適当な劇場で数年間振る方がその後の上り詰める早さが違う。



参照:
なんじゃらほい交響楽 2024-05-19 | 音
お家芸の指揮棒飛ばし 2023-03-26 | 音
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史上最強の映像制作楽劇

2024-04-22 | マスメディア批評
土曜日の第一回ARDオペラ中継は素晴らしい船出だった。ある程度の予想は立てていたのだろうが、ここまでの中継録音になるとは企画者も考えていなかっただろう。今迄ラディオで様々なラディオ中継を聴いてきて、そしてエアーチェックと称して、今でも手元に沢山のカセットテープがある。しかし何回も繰り返してリフェレンス録音となるようなものは殆どない。音質の問題もあるのだが、映像がないので聴いていられないというのも少なくない。また映像は面倒だから殆ど観ない。

だから先日購入した「マスカラーデ」も音だけ出してその演奏内容を確認することになる。流石に舞台を二度も観ているので、視覚は記憶で補える。そしてその音が修正も加えて近接マイクで捉えていることから、本当に素晴らしい愉楽でさえある。そしてエンゲル指揮がいい仕事をしていることを確認して大満足なのである。

その意味から今回の放送の復活祭の中継録音も三回の訪問でその視覚で補えるだけでなくて、どの夜にどこがどのようにというのは朧気乍ら記憶されている。だから余計に今回のマイクによる収録が成功していることがよく分かった。逆に知り過ぎていて、又楽譜でチェックはしていないので判断が付きかねるが、今回の録音は修正はされているものの劇場実況録音としては金字塔の出来となっている。

ホールの音響もくまなく捉えられていて、もう少し容量が大きければ世界最高の音響になっていただろう、それが録音から再体験可能となっている。この音響は横長扇型のザルツブルクでは不可能なので、記録に捉えられたことになる。

そして番組では、この新たな番組企画の紹介に続いて、イゾルデ役などと違い長く歌っていたエレクトラ役を最後に歌う主役のニナ・シュテムメに初日の翌日インタヴューをしている。その前にまさしく彼女の頂点の歌声であった初日のモノローグを特別に流した。これで、この中継録音も制作録画の音声もこの初日を中心に編集されることが確証された。つまり予定通り3月26日二回目公演は映像の為の晩だった。音楽的には一番弱かったが、最終日31日に最終修正されることで素材が揃った。

初日のフィナーレの拍手までが其の儘で、部分的に修正されていたのだろうが、詳しくは調べてみないと分からない。他の歌手の出来の凸凹の修正があるのもそれ故だが、全体的に画期的な映像制作になる。

これだけ感動させる中継録音を聴くのは初めてで、フィナーレなどはその時と同じぐらいに興奮する。更に適当に編集されているので、弱いところが無く一気に最後まで引き付けられた。この映像制作は、リヒャルト・シュトラウスの楽劇のそれを越えて、史上最強のものになりそうで、一夜を潰して丁寧に撮ったライヴヴィデオがどのように繋げられるかを期待したい。

昨年の「影のない女」の様にその舞台を含めての大成果ではなかったが、今回のそれは聴覚だけでも視覚だけでもとんでもなく素晴らしい制作となった。こうしたものが、ヴィーンでの演奏会キャンセルに関して書いたが、決して商業主義的な目的で制作されるものではないという事に改めて注意を喚起したい。



参照:
究極の表現主義芸術実践 2024-03-24 | 音
聖金曜日からの不信感 2024-03-31 | 暦
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音楽劇場演出の重要性

2024-03-13 | マスメディア批評
ミュンヘンからの生中継で語られた。支配人ドルニーは、こうした作品を上演するには今がいい時期で、ドイツも解き放たれる時だというようなことを語った。詳しくは語らなかたのだが、ポストアドルノ時代に即ちアウシュヴィッツ以降に詩を書けるかという呪縛からである。

同時に現在のガザの状況を見るにつけ所謂「追憶の歴史」から導かれる「追憶の文化」から解き放たれる時だということでもある。車中のラディオのニュースでベルリンの映画フェスティヴァル時にガザへのパレスティナ共闘がコメントされた問題が扱われていた。思想と表現の自由とはまた異なるアンティセミティズムは許されないという事である。

今回のクラッツァーの演出では、アウシュヴィッツの場面は具体的な囚人服や丸坊主などでは表現されない。しかしそれ以上に暗示するところがあって、それは批評にあるように殆ど音楽的な認識が深くない聴衆でも分かる音楽になっていることに合致する。

最も印象的だったのは、ショスタコーヴィッチ同様にヴァルツアーを使って、囚人がそれを要求されて拒絶するところでバッハのシャコンヌが弾かれるというところであったようだ。そうしたやり方は、音楽監督ユロウスキーが最初に上演したショスタコーヴィッチの「鼻」においても弦楽四重奏曲は八番の挿入などは印象としてとても強く残った。

反面批評を読むと、今回の初日に劇場にいたチェルニコフの演出でウクライナ侵攻によって再制作された昨年の「戦争と平和」が挙げられて、演目そのものの上演の必要性が論じられる。そこでもソヴィエトにおけるプロパガンダの歌詞などが大きく削除されたことが思い出される。しかしその音楽の価値が大きく異なるのは確かで、プロコフィエフはやはりそれだけの作曲をしていたことには間違いがない。

一方各紙で語られている最後に小さなモニターに映る収容所の映像は、眼がある人には皆見えて気が付くというのである。まさしく、遠くアウシュヴィッツで起こっていたことは、ドイツの生活では全く気が付かなかったというその年齢の人たちの言い訳を砕く観察である。

当然のことながら、このことはこの新制作の企画時にはまだ起きていなかった大規模なガザ地区での出来事についても突きつけられることになっている。フランクフルトのルンドシャウ紙はこの制作を絶賛して、特にクラッツァーの演出家としてを仕事を評価する。

オペラに通じていればいるほど、ここでの演出家の判断を確信するだろうと、否そうではなくて、このオペラを既に知っていればこそクラッツァーの読み方を理解することが出来ようとしている。

なるほど、この演出家の仕事はその作品との深い関係から導かれる制作企画となっていることが多い。そして新シーズンへと向けて「指環」四部作の準備が進んでいる。その配役などは指揮者を除いては皆目分からないのだが、今迄に無い大きな話題となることだろう。



参照:
Maximal eindringlich: "Die Passagierin" im Nationaltheater, Robert Braunmüller, AZ vom 11.3.2024
Erinnerung für Fortgeschrittene: „Die Passagierin“, Markus Thiel, Merkur vom 11,3,2024
Der Alptraum, die Täterin zu sein, Judith von Sternburg, FR vom 11.3.2024
音楽劇場の使命を果たすか 2024-03-12 | 文化一般
「ありの侭の私」にスポット 2021-11-05 | マスメディア批評
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演奏実践の歴史的認識

2024-02-18 | マスメディア批評
NHKのラディオでメシアン作曲「テューランガリア交響曲」1962年7月4日の日本初演の録音が流れた。LP化されていたもののようであるが、一般市場には出ていなかったと思う。

小澤征爾が最初の音楽監督をしていたトロントでの1967年の録音は今もリファレンス盤として評価が高い。オンドマルトノを作曲家の奥さんの妹のロリオが受け持ち作曲家自らの指導の下にというのは当然だったかもしれないが、1949年の世界初演のバーンスタイン指揮の録音が残っておらず、1950年のアクサンプロヴァンスでの欧州初演、1961年のフランスでの録音に並んで古いものかもしれない。

先ず何よりもリズムがよい。指揮者のリズム感覚というよりもその指揮が素晴らしく、これは昨年数回続けて聴いた「アシジの聖フランシスコ」公演での参考にした小澤指揮の初演の録音で嫌というほど再確認した。

しかしここで改めてその後の録音で有名になった指揮者のサロネンとか、プレヴィンとか、ナガノらとは程度が違うと感じた。個人的には1970年代に引退間近の指揮者井上がニュージーランドで振ったものをエアーチェックしたカセットが手元にあるのだが、敢えて聴かないでもそれは比較に為らないだろう。

楽団の方はついていくだけのだけの演奏以上には出来ていないのだが、それでもよく鳴っている。小澤と共にここ百年ぐらいの音楽に集中していたならば、斉藤記念の様な一過性のクラブ活動とは違って歴史的な活動が出来ていただろう。オスロ交響楽団の次ぎぐらいには来ていた可能性もある。

金曜日のベルリンからの生中継は画面は観ていて、ラディオも録音だけしてまだ聴いていない。しかし最初のブラームスは流したのだが、大分ベルリナーフィルハーモニカーの伝統が出ていると感じた。今回のプログラムの二曲はミュンヘンの座付き楽団の演奏で知っている。後半の家庭交響曲はその水準には至らないと思われるが、最初の悲劇的序曲はみっちりと鳴り響いていた。

勿論ベルリンでの全盛期のカラヤン指揮によって模範的な録音が残されているのだが、流石にミュンヘンでは叶わなかった。その密な音響でもあり、カラヤンの芸術であったと同時にやはりフィルハーモニカーのそれでもあったのだと気が付くものがある。

この件は来月バーデンバーデンで演奏されるブラームスの交響曲四番における演奏法に深く関わっていて、私個人もベルリンの伝統というものの核を見究めたいと思っている。それは、逆にミュンヘンのシュトラウスの伝統を改めて確認することになっていて、復活祭における楽劇「エレクトラ」を評価する場合に基準作りの一つになるのではないかと思っている。

少なくともペトレンコ指揮のミュンヘンでの「サロメ」、「ナクソスのアリアドネ」、「薔薇の騎士」、「影のない女」に関しては認識しているので、これはとても価値のある演奏実践歴史認識になると思う。



参照:
有機的な鳥の囀りの表徴 2023-07-21 | 音
ブラームスのイライラ感 2023-08-12 | 音
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現代的過ぎた小澤征爾

2024-02-11 | マスメディア批評
フランクフルターアルゲマイネ紙の訃報記事に続いて独語圏最古の新聞ノイエズルヒャー紙からスピノラ女史の記事。

指揮台で情感的に、練習では精密に、回りには友好的で物分かりの良さと音楽の世界の舞台で最初の日本人を表した。

1960年代の販宣の写真を掲げて、当時の日本ではその鼻っ柱からも適さなかった保守的ではない様相だったとしている。ニューヨークフィルに同行して、そしてそれがNHK交響楽団での演奏拒否に遭い、小澤の余りにも現代的で自意識が高かったとの記述に先行させて書いてある。その出立が、保守的な興行界に対峙したモードだったと。そうした計算された光彩が当時の知識人を逆なでして、それでも日フィルを起用しての日生劇場の特別演奏会は大成功に終わった。

トロントのあと、サンフランシスコの交響楽団を任されると、同時にボストン交響楽団の夏のタングルウッドでバーンスタインのアイスタントをギュンター・シェラーと別け合ったとある ― その人物が一昨年のそして今年同じエンゲル指揮で再演されるミンギス作曲「エピタフ」の校訂者である。

栄光のボストン時代での成功に続いてヴィーンの歌劇場では「オネーギン」引き摺らないテムピで、大河のように迫る意味ある響きの融け合いがセンチメンタルにもなることなく分厚くもならないチャイコフスキーとして大成功をあげた。

独墺音楽の録音は他の者に任せる一方、そのブラームスは仕事部屋の自然の香りがして素晴らしく、その音楽を取り巻く難しい闘争から解放するものだった。フランス音楽は、ベリオーズ、フォーレ、ドビュシー、ラヴェルからオネガー、デテュユ―迄のレパートリーを明らかにより自身のものとしていた。そこでは万華鏡の如くキラキラして、透明な風景が開けることで、その表現の園を拓いていた。

その透明で細部に亘る音響は、浪漫派や後期浪漫派においては上手に距離を開けることから、パトスへの節度の無い極端とスポーティーなデトックスの間の中庸を見つけていて、その水彩画的な透明な響きの流れに高揚感へと誘いその全ての感情の制御が、オバートーンの輝きの中に昇華させるのは特筆されるものだった。

バルトーク、ストラヴィンスキー、シェーンベルクを取り囲む第二次楽派への興味、リゲティ「サンフランシスコポリフォニー」、ヘンツェ八番、ケージ、ミヨー、クセナキス、武満の初演が、そして「アシジの聖フランシスコ」のエポックメーキングな初演指揮。

晩年の教えたがりにも言及してあるが、ここでは日本での音楽の定着と継承を斎藤に倣ってとなっている。ヴィーナヴァルツァーのことと同時にそこの劇場が必ずしも理想的なビオトープでなかったとしていて過不足無い記事になっていて、両紙で十分で、欠けているのは指揮に関するその才能と天才性への言及のみだろうか。誰かがどこかで書き加えるだろう。
Boston Symphony Orchestra Remembers Seiji Ozawa with Remarks and Bach's Air on the G String




参照:
Er diente sieben Jahre, um selbst ein Diener der Musik zu werden, Julia Spinola, NZZ vom 9.2.2024
ただの天才音楽家の死 2024-02-10 | 文化一般
齢を重ねて立ち入る領域 2017-07-01 | 文化一般
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赤飯擬きで祝う

2024-01-03 | マスメディア批評
元旦に文化大臣ロート女史の声明が通信社に向けて出ている。バイロイト音楽祭に関してである。既に話題になっていた連邦政府が主導権を持つ話に関してである。要するに以前は三分の一あった友の会の発言力が減らされた。

その背後事情として2.4ミリオンユーロへと1ミリオンユーロの寄付金減少とある。出資する経済力がなくなったいうことであり、連邦政府が改築費用を出すことが全てである。因みに同じように連邦政府は3.4ミリオンユーロ出すためにその位置づけが変わる。

それによって、ロート女史はプログラムに責任を持ち、執行部の全面支援をすると声明した。つまり執行部が連邦政府の意に適う陣容でなければいけないということだ。

具体的には、平土間に座る人々に社会の多様性を反映させたいということだ。既に様々な議論を生じさせている女史の真意であるが、客観情勢からして、ヴォルフガンク・ヴァ―クナー時代に権勢を誇った友の会のいつものような人が陣取るのを是正したいということだ。その背景には協会の重鎮であったマンハイムの会長の死などに表徴される世代交代がある。

要約すれば、ヴァ―クナーファンなどはドイツ連邦共和国ではなつまみ者のオタク。そうした聴衆の為に貴重な税金を使えないということ。だから開かれた将来性のあるヴァ―クナーの芸術の為に芸術祭を催すということ。

元旦に赤飯擬きを炊いた。大晦日から元旦へと色々なものを食過ぎて、軽く食べたかった。その前に晴れ間を活かして走った。幸いなことに身体は重かったのだが戻って来ての軽量は大台に至っておらず、不健康な体重増加は避けられた。アルコール量と食事そして籠っていたので心肺機能など不安はあった。それで毒抜きが出来た。

赤飯擬きとしてフジッコの煎り黒豆と呼ばれる北海道産の黒大豆を炊飯器で米と一緒に炊くだけである。米さえもう少しそれらしいもち米などを使えば、なにもそれ程赤くなくても悪くはない。簡単に郵送できるものなのでとても使いやすい。日本からのお土産に貰った時はビールのあてにしてはそれ程ではないと感じたのだが、使えると分かった。

日本にいた時も赤飯などは年に二度も食するかどうかもものだったのでこれで十分である。前日にはバラ寿司も作っておいて元旦は蒸寿司だったので米尽くしであったが、食するものは沢山あった。

リースリングも年末年始で三種類のグランククリュを楽しめたので満足であった。どれも全然悪くはなかった。十年前後物を並べたのであるが、飲み頃であった。まだ数年楽しめても瓶熟成頂点であったものもあった。

今年の経験から今後も十年前後のグローセスゲヴェックスを年末年始に明けるのがいいと感じた。食事にも合わせ易く、且つその個性が旨味としてが出ている。果実風味が上手に統合されている。具体的には改めたいが、魚料理や日本風の味に合わせて、スレート土壌のラインガウ、ナーヘ、ザールの三種類のリースリングを開けた。



参照:
Claudia Roth will mehr „Diversität“ in Bayreuth durchsetzen, dpa vom 1.1.2024
菊牛蒡とタロイモの年始 2016-01-03 | 料理
芸術音楽が表現するもの 2022-03-07 | 文化一般
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バーンスタインのメロドラマ

2023-12-19 | マスメディア批評
承前)レコードプレーヤーでマーラーの交響曲「復活」を掛けた。待降節であるから季節外れだ。音楽的シオニズムの具体例として詳しく聴いていくつもりでいた。しかし二三回流しているうちに興味がどんどん薄れてきた。当該LPは1973年のエディンバラ音楽祭での演奏に因むもののようで、1974年制作になっている。最近の関連映画でこの演奏が話題になっていて、この録音はケムブリッシヤーのイーリー聖堂で行われていて、なるほどヴィデオが復興されてYouTubeに上がっている ― そこでカナダの指揮者ネゼセガンがサウンドトラックを指揮しているトレイラーも流れている。

映像も録音も制作編集されている訳だが、その音響から独特な音響で行われていることは分かり、映像もじっくり観てみないといけないと思った。因みにイーリー自体も郊外で田舎町の小さな聖堂なのだが、ケムブリッジのキングスカレッジのクワイヤーなどが録音していたり、小さな音楽祭が開かれたりしていて、出かけたこともあった。そこでなにかオルガン録音のCDのようなものを購入したが探してみないと分からない。

この録音については以前にも触れていて否定的な反面教師面が多かった。一般的な批判点は早くからどこからがマーラーの音楽でどこからがバーンスタインのものかが分からぬという点があって、これの具体的な指摘が意外に困難なのは、バーンスタイン指揮演奏が細部においては楽譜とその内容を忠実にクローズアップしていからで、批判し難いからだ。しかし、そうすることで、クローズアップから引いた時に何事が起こっていたか分からなくなる。要するに一種のモンタージュ映像のような演奏になっていても全体が繋がらない。

特に復活交響曲においてはメロドラマ形式が曲の基本構造になっていて、次の瞬間への繋がりが聴かせどころとなるのだが、その細部への拘りが悉くその転換に影響することになっている。バーンスタインにとっては、マーラーの創作における形而上のトランスするところが全てであり、それがバーンスタインにとっての世界観そのものであった。

しかし、帝国歌劇場の音楽監督でありカトリックに改宗していた作曲家にとってはやはりあくまでも交響曲の伝統とそこからの逸脱は創作であり、そしてその現実の世に作品を問うていることから、芸術としてのバランスがとられていた。

そうした創作の内面を最も上手に表現しているのが、やはりLP時代の決定的名盤であったメータ指揮ヴィーナーフィルハーモニカーの演奏だろう。今回もバーンスタイン指揮の当該のLPボックスとこの名盤を変わり替わりに針を下ろすとその差異があまりにも明白だった。恐らくこのLPは20世紀後半に録音されたヴィーナーフィルハーモニカーの演奏として頂点にある歴史的な演奏だというのが分かる。そもそもヴィーナーフィルハーモニカーで数限りなく経験した生演奏で聴いた演奏でベーム博士指揮以外では、ホルスト・シュタイン指揮とメーター指揮に匹敵する演奏はなかった。

端的に言えば、バーンスタイン指揮の音楽はアングロサクソン的というよりもブロードウェー的でアメリカ的というのに尽きる。その作曲は東海岸の文化として高い価値を持つかもしれないが、その指揮の亜流の幾多のイスラエル人指揮者のそれらとともに歴史的には恐らく顧みられることはないだろう。同じ大衆化の二十世紀の音楽文化としてもやはりカラヤン指揮のそれとは異なる。(続く)
Leonard Bernstein, LSO - Mahler: Symphony No. 2 in C Minor "Resurrection", V. Finale (Excerpt)

Leonard Bernstein: Mahler - Symphony No. 2 “Resurrection”, I: Allegro maestoso [1/5]

Bradley Cooper conducts Mahler’s Second in Maestro | Netflix

How Yannick Nézet-Séguin taught Bradley Cooper to conduct like Bernstein | Classic FM




参照:
交響する満載の知的芸術性 2013-04-03 | 音
真正ハイカルチャー 2022-05-29 | 音
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BePhil番組をネット鑑賞

2023-12-18 | マスメディア批評
11月のベルリナーフィルハーモニカー日本公演からBePhilのフジTVの番組を観た。ネットでオンデマンドしてあって、VPNを中継させることで観れた。CMはカットされているので内実40分に満たないのだが、それなりに見応えがあった。

BePhilと称するフィルハーモニカーが日本で集ったアマチュア―音楽家を97人を集めた楽団にフィルハーモニカーが加わって、ペトレンコもたった一夜の演奏会の後半を指揮するという企画である。1200人もの応募から厳選されただけのことがあって、大編成で立派な演奏をしていた。

番組自体は日本人の好きそうな音楽人生物語となっているが、参加者各々のエピソードを上手に編集して纏めていた。幾つもの様々な取材からこちらも厳選されていたのだろうが手慣れた作り方である。

うなぎパイの販売の情景とか小児科医の病院演奏会の風景とかは誰が観ても其々の音楽との繋がりがよく分かるものである。ペトレンコ自身も珍しく音楽との関りについて短いインタヴューを披露していて、この企画の真髄を語っている。

音楽的に気がついたのは、やはりユース楽団とは異なって瞬発力はないのだが、その編成も相まって重さもあり、なによりも若干イスラエル的な粘りがあった。浪花節に為らないのは指揮が違うからだろうが、やはり日本的な音の出方だと感じた。

勿論ペトレンコはそれにも馴染みがあり、総合的に大変満足だったと思う。なによりもカメラに捉えられる表情はいつもと同じで音楽の表情を其の儘伝えていて、客席に魅せるものではない徹底したものである。嘗て無表情での指揮を試してたことがあって全く上手く行かなかったことなどを語っているが、それら試行錯誤の全てが現在に繋がっている。そしてやはりここ二三年でも指揮に無駄が無くなってきている。

陽射しが燦燦と輝いている。早朝は冷えただろうが、こういう日は室内で温もれて一番気持ちがよい。そしてクリスマスそして年が開けてこうい陽射しがどんどん増えてくる。雪が積もればそれはまた美しく、一歩一歩春に近づく。待降節は春を待つ節でもあるのだが、本年は早くも好天となった。11月の暖房は比較同規模のアパートで607kwhのところが353kwhしか消費していない。11月上旬は使っていないので安心はできないが、その分を概算補正しても月500kwh程にしかならない。因みに2013年に2460kwhとなっているので、残り最長四カ月としてもそれを超えることはないだろう。これだけ陽射しを活かせるようになれば此の侭冬籠りしないでもいける。この春の感じでは大分抑えられたと思う。

クリスマスには暖かくなることは多いのだが、こういう陽射しが射すのは珍しい。それだけ空が乾燥しているということだろう。放射冷却が起きても陽射しが強いならば以前のように北側の寝室に籠る意味は全くなくなった。やはり、こうなったのも窓掃除だけでなくて、気候変動が大きいと思う。以前はこういう傾向はあまりなかった。



参照:
ライフ・ウィズ・ハーモニー~夢の共演 ベルリンフィルと97人のアマチュア奏者~, 配信終了日:〜2023年12月30日 15時59分
喜びの2013年通知簿発表 2014-10-17 | 生活
資料整理の枝払い 2023-12-12 | 雑感
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演奏会と劇場での相違

2023-12-13 | マスメディア批評
トリフォノフ演奏の「パガニーニの主題によるラプソディ」他が放送された。やはりマイクを通してもネゼセガンの指揮が悪い。楽団も前半はサブの面々しか出していないのだが、指揮さえしっかりしていたならばやれる楽団である。

ペトレンコが出てくるまでは頂点の領域でここまで指揮で変わると思ってもいなかった。それは後半の交響曲でのようにじっくり時間をかけて練習しておけばある程度出来るのとは大違いだ。ペトレンコ指揮で日本でも同曲を演奏したようで、その練習回のミュンヘンでの演奏が放送されていた。勿論その時のピアニストのイゴール・レヴィットとはなにもかも違ってその反応速度も要求されるものも違う。しかしペトレンコも協奏曲となると合わせることに全力を注いで、それは歌手に合わせる時よりも遥かに徹底している。そうして合わせれる実力が全く違うのである。

実演ではなんとか鍵盤を走る指に注目することでピアノに集中できたのだが、マイクを通すと今度は楽譜が必要になりそうだ。これからはピアノ協奏曲を聴く場合は指の見える位置に陣取ることにさせる貴重な経験だった。

嘗てはカラヤン指揮ヴァイセンベルクのべートーヴェンでも不満は感じなかったのだが、やはりつけたしのような演奏家が奏する協奏曲は御免である。同じバーデンバーデンの祝祭劇場でランランのピアノを残り残らず聴かせたペトレンコの指揮はそれだけで立派だったと今改めて思う。

日曜日から流していたLPを最後まで通した。件の雑音はある程度の時間を超えると出てくるが、オペラ全曲をBGMで流しておくのはそのもの針も消耗して勿体無い。しかし、名盤の「シモンボッカネグラ」を二回に分けて最後まで流した。事務仕事をしながらの流れ聴きであるが、今迄感じていた問題点が分かった。問題点とは戦後のミラノスカラ座公演で最も成功したストラ―レル演出の制作録音であるが、初訪日引っ越し公演で文化会館で演奏されたものからすると大分相違がある批判点である。

LPで聴くことでの問題点でないのは同じスタディオを利用しての「マクベス」では大成功しているにも拘らず、この録音のダイナミックスなどの問題は録音にある。明らかに弱音の表現は文化会館での上演の方が優れていて、更に制作録音の「マクベス」にも劣る。録音の問題もあり得るのだが、それ以上に比較的大きな編成に楽団が奈落に入らずに演奏しているために、奈落でのようなダイナミックスの凄味が失せてしまっている。

勿論制作録音のマイクロフォンの問題もないことはないのだが、例えば舞台の前に下された紗の幕の効果もここでは全く得られていない。要するにこの制作の音楽的な効果としても絶賛されたそのダイナミックスが、制作録音でもそしてコンサート形式の公演でも絶対得られないということである。如何にコンサート形式のオペラ上演というのが不完全なものであるかの典型的な実証である。

そして勿論歌もその感情移入には至らず、そして大成功した制作ゆえに少々のキャスティングに相違があったとしても完成度の高い制作は維持されていた。そうした音楽劇場の妙が伝わらないのである。



参照:
舞台に現れるメダリスト 2023-11-15 | 音
変わるヴェクトルの大小 2023-12-11 | 音
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社会文化的な意味あい

2023-12-10 | マスメディア批評
走ろうとしたら時計がなかった。忘れたので先日電池を入れ替えたところの万歩計を使った。上りで18分を切っていて、歩数は1780歩程だった。明らかに時間は短く出る。先日頑張った時でも18分台だったから、この朝は20分を超えていて23分ペースだった。今回はどうも誤差が大き過ぎたようだった。下りて来て30分台3800歩で、下りは比較的正確だったかもしれない。気温は上がって摂氏5度を越えて襟巻も要らず手袋だけだったので走りやすかった筈だが、パンツが膝にこびりつくようで走り難かった。

金曜日のスカラ座からの批評が色々と出ている様であるが、劇場からのYouTubeのミュンヘンのティーレ氏のそれはいつも緩い。音楽が分かっていないのだから仕方がないが、これだけ緩いと名演を批評した時のその的確さが疑われることになって信憑性がなくなる。プレス席を得たとなるとああゆう風になって仕舞うのがいたい。そしてローゲには常連の大統領などは欠席して右翼政治家と収容所の生き残りが同席したとその意味合いを語っていた。

ベルリンの新聞がペニスの飾りを大々的に報じていた。何事かと思って読むと、首都の目抜き通りのフリードリッヒシュトラーセにあるコンツェルトハウスの向かい側の仏デパートギャラリーラファイエッテのシューウインドーに飾られたクリスマスツリーである。そこにぶら下げる「玉の飾り」がこの「ブータンのお守り」に替えられているというのだ。当然のことながら人目を引いて、とても好評の様である。

このデコレーションは一月末までみられるという、しかし樅木は非売品と落ちが書いてある。一月にベルリンを再訪する予定なので是非見てこようと思う。ウンターデンリンデン通りの歩いていない所も散策しよう。今回は市内のパンコウに連泊する予定なので、路線図や駐車場や靴や美術館なども調べておかないと埒が明かない。

春に公的プールでのオーベンオーネ、つまり女性の上半身解放へと向かったベルリンなど独各大都市であるが、ベルリンは元々共産圏でフライケルパーカルテュアーFKKとされる運動が盛んでこうした展示にはアレルギーは薄い。勿論フランスの企業がそれに乗じて話題作りに客寄せするのには全く抵抗がない。同時に社会的に様々な宗教や民族性が渦巻くベルリンにおいて、こうした68年代に西側では最も大きな運動となったフリーセックスが今こうして性の多様化の中で改めて話題作りになる社会的素地がある。フランスの企業にとってはその文化性をも示す好機ともなっている。

ドイツの大都市において例えばミュンヘンの老舗の店舗などではこうしたものは似合わない。やはり保守性というものがそこには存在する。同じことを銀座の目抜き通りの展示としたらどうだろうと考えるとやはり賛意が得られないということは容易に想像できるのではなかろうか。

早速チャットのパートナーにこれを転送しておいた。まだ既読やその反応はないのだが、公共プールの対応についてはクールと答えていたが、これについてはなんと反応するのだろうか。やはり羨ましいと思うのではなかろうか。勿論私もただでは転送しないでしっかりとここぞとばかりに口説く。FKKといっても決してその性的な効果や意味合いが払拭される訳ではないので、それにはそれなりの意味がある。だから客寄せにもなるのである。それが社会文化的な意味合いということになるだろうか。



参照:
Weihnachtsbäume mit Penissen statt Kugeln dekoriert, Christian Gehrke, Berliner Zeitung vom 07.12.2023
やるべきことを達成 2023-12-09 | 音
MTBを抜き切る 2017-11-28 | アウトドーア・環境
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強烈な破壊力の音源

2023-11-28 | マスメディア批評
夕方初めて放送があるのを知った。無事に放送を録音も出来た。6月からの「アシジの聖フランシスコ」公演二回目の公演の中継録音だった。この回だけはアムステルダムに出かける予定で準備していたので、片方がキャンセルになっても出かけなかった。中間部分のオープンエアーには暑すぎたからだ。しかしこれで全公演の演奏は一部でも聴いたことになる。

オープンエアーの部分は容易に収録できないので、一幕と三幕だけの放送であった。先ずは一幕の音楽が重いのに気が付いた。基本的にはライヴでもバスの出し方等は絶えず注意して聴いているので、舞台の上でその様な印象はあまりなかったのだが、各々の場面にとても大きく影響しているのが分かった。指揮者エンゲルを昔のクナッパーツブッシュとか身長2メートル近い巨人クレムペラー指揮としか比較仕様がない強烈な破壊力の源を思い知った。

そのアウフタクトの取り方から音の出方がまるで鉄の巨大球が振り下ろされ地割れするような圧力で迫り、このエンゲル指揮の音楽劇場の最後には劇場ごと熱狂に包まれるその謎解きでもある ― ナガノの取って付けた様なリズム取りでは音楽に為らない。それらが決して指揮によるものではなく演出を含めた制作によると思わせてしまう潜在的な力となっている。

最後の景「死と再生」前に本人が恐らく自宅の電話で答えるインタヴューが流されていて、その部分では自らは洗礼を受けて既に離脱しているにも拘らず、こうした美しいパラダイスが存在するならばという気持ちになったという。決して理性的とは思われないそうした素朴な宗教心などをバッハからアロイスツィムマーマン、メシアンの音楽を得意にした無神論者のブーレーズ、そしてグバイドリーナ迄をなぞって考えてみたと話す。

今回のプロジェクトにおける興味は、最初にピーター・セラ―演出をケントナガノ指揮でザルツブルク音楽祭観た時からのもので、2002年に私が会った時に話していたのかどうかは記憶にないのだが、ベルリンの制作では助手として馴染みがあったらしい。少なくともそれと比較すればそのリズムとフレージングの丁寧さが音楽の感情表現となっていて、アシスタントをしていたカンブルランの指揮演奏よりも遥かにいい。

それは日本でも演奏会形式で演奏された様だが、一幕でもそれでは何をやっているのか全く分からなく追々音響的な面白さに依拠しがちになるだろう。今回は音響の空間性をコンセプトに入れてあったので、舞台の奥の管弦楽団では遠くなる木管群に強く吹かせ、手前の歌手との問題はそれ程難しくなく、三幕の奈落では歌に被らないように、さらにシュトッツガルトの深い奈落では重くならないようにと留意したようだ。そしてオープンエアーではPAをドライな音に潤いを与えるようにエコーも入れさせて、更にライヴエレクトリック的な調整もさせたという。そして、試奏の春にはより盛んだった鳥の囀りは若干弱くなっていて街の雑音や飛行機は邪魔ではあったが、千秋楽での本当に美しい静寂での鳥たちとのレスポンスは作曲家も喜んだに違いないと。

そうしたラウムクラング自体はヴェニスのガブリエリ然り、シュトックハウゼン然りで当然のことながら音楽表現として重要な音楽要素であることは変わりない。演出には決して口出しはしないが、こうした興味深い制作で、それが協調作業によって大成果を上げるのがまさしく音楽劇場の指揮者として第一人者のティテュス・エンゲルの仕事である。
SAINT FRANÇOIS D’ASSISE II, So., 9. Juli 2023 (17:56), Killesberg Stuttgart




参照:
Olivier Messiaen: "Saint François d'Assise", SWR2
時代がまだついて来ない 2023-11-27 | 文化一般
制作者の目、その選択 2023-09-29 | 文化一般
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朝起きラディオ放送録音

2023-11-18 | マスメディア批評
烏龍茶の鉄観音を飲んでいる。昔から銘茶とは知っていたが、今回初めておいしいと思った。先日から感じていた甘みは鉄観音の特徴らしい。水蜜桃風味とある。熱いお湯を注いでも書いてある通りに煎れれば甘い。急須を暖め、そこに入れたお茶から香りが出ているところに、予洗をする。中華ものは洗うぐらいがゴミが出て気持ちがよい。そこに熱いお湯を注いで一分ぐらいで甘みが出る。

真空袋に入っていて、そこには新鮮とか書いてあるのだが、小さな文字の講釈は読めない。何か要らぬことが漢詩で書いてあるような気がする。なによりも許可番号だけで製造者が書いていないのが怪しい。いい山にいい水そこにいい茶が出いずると書いてある。

無事散髪をした。年内最後になる短さにはなった。ハーヴェストカットしてくれと頼んだ。葉が落ちて、秋の葉刈りの様な塩梅になった。やはり気持ちがいい。それに続いて走っておいて、衣服はごっそり洗濯に廻った。寝具を替えるのはもう一週間待つか。

NHKFMで今春の復活祭の「影のない女」が放送された。実はこの音源既にNHKTVで放送されている。映像制作自体がZDFらとのNHKの共同制作となっていて、権利があるので流されたものだろう。因みにドイツではラディオ放送されていない。一般的にはラディオ用のミキシングが別途されるのだが、ざっと聴いた感じでは弄ってないようである。

こちらの朝6時開始の番組だったので目覚ましでいつもの時間に起きて準備したが長い前説があっても録音には頭が欠けた。理由は、複雑な準備ゆえだ。旅行用のミニノートブックにはVPNが完備しているのだが、手間取ったのはデジタルで録音する為の出力段へのデジタル転送準備だった。あまり使っていないので、キャスティングでは録音出来ないことを忘れていて、そこで普段は机上でデジタルアムプに出力するDAC経由とした。旅行時と全く同じだ。

音の印象はやはり低減などが膨らんでしまう。前年の「スペードの女王」のようにDCHにアーカイヴされるとハイレゾで聴けるので嬉しいのだが、さもなければブルーレイ化して欲しい。久しぶりに音を聴くと、やはり三夜だけの公演ではまだまだ聴き取れていないところが多い。

放送の前説は粗筋の一般的なものでくどくて詰まらないなと思っていたが、後説は聴き応えがあった。創作当時のフロイトの分析における子供への視線や主人公の皇后が苦労して得る影とその光における女性像をして、フィナーレにおいてそうした像を得る事での充足への懐疑が呈されるとして、放送では描かれていないリディア・シュタイヤーの演出を俯瞰することになっていた。有田栄という音楽学者の方のようで、分かりやすい原稿だった。

現在訪日中とのベルリナーフィルハーモニカーによる2025年にこの復活祭引っ越し公演が為されるのかどうかが決まると予想するが、ベストメムバーの歌手陣で再演が為されるなら日本旅行に再訪したい。

日曜日には大阪で前日の姫路に続き「英雄の生涯」も演奏されるが、こうした最も困難な楽劇を演奏しているからこその成果が表れる。そしてそこから更に来年の復活祭の「エレクトラ」に繋がる成果が生じるように企画されている。我々とは違い天才ペトレンコはずっと先を見ている。



参照:
ペトレンコの日本への真意 2023-10-21 | マスメディア批評
戦後に初演された楽劇 2023-08-21 | マスメディア批評
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