Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2021年10月

2021-10-31 | Weblog-Index


 
カラカラも選択の一つ 2021-10-31 | 文化一般
長短調システムの精妙さ 2021-10-30 | 音
赤い風船が飛んでいく高み 2021-10-29 | 文化一般
すかさず手が伸びる 2021-10-28 | 文化一般
ゴーゴリの鼻の威厳 2021-10-27 | 音
伴奏のつけ方の違い 2021-10-26 | 音
ミュンヘンへの行楽日和 2021-10-25 | アウトドーア・環境
行楽の週末を走る 2021-10-24 | 生活
一人佇んでいたハイティンク 2021-10-23 | マスメディア批評
自分自身に合わなければ 2021-10-22 | 雑感
そろそろの潮目時 2021-10-21 | 暦
お昼はニムフェンブルク城 2021-10-20 | マスメディア批評
頭の中で熟成させる芸術 2021-10-19 | 文化一般
二枚目の招待券を確保 2021-10-18 | 文化一般
ぼちぼち始めたいお勉強 2021-10-17 | 生活
お仕事させられるご招待 2021-10-16 | 文化一般
漕ぎ着きたい期待の岸 2021-10-15 | 文化一般
全てのものからのお別れ 2021-10-14 | 音
先四週間ぐらいの準備 2021-10-13 | 生活
夏の日差しを思いながら 2021-10-12 | 文化一般
誰かの代わりにしている行為 2021-10-10 | 音
「聖書」ではないお話し 2021-10-09 | 音
7月の明かりを求めて 2021-10-08 | 文化一般
全てに向けたお別れの歌 2021-10-07 | 音
課題解決への工程 2021-10-06 | テクニック
実存のそのピクニック 2021-10-05 | アウトドーア・環境
マスク無用の咳仕放題 2021-10-04 | 雑感
綺麗に流せるのだろうか 2021-10-01 | 生活
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カラカラも選択の一つ

2021-10-31 | 文化一般
冬である、冬時間に戻る。連休になるので助かるが、少なくとも日曜日には一時間損をする。金曜日にデジタルコンサートホールの一週間券を購入したので一時間損をする ー 正しくは時計を戻すで、一時間余分に睡眠、得。

それでも一週間後のバーデンバーデンでの日曜朝の練習が決定したので喜びとしておこう。急遽日曜日の早朝の練習が決定した背景にはSWRの放送が入ることになったことがあるだろうが、既に金曜日に生中継して更にスカンディナヴィアからハムブルクに戻り更にローマで演奏するので、四回目の演奏は二度目の収録には早過ぎるような気もする。メンデルスゾーンのスコットランド交響曲の練習が予定されている。一体どれだけよくなるのだろう。

その日曜日の朝の方が遥かに厳しい。土曜日の帰宅は21時過ぎとなるので、23時半頃には床に入るとして、翌朝は6時過ぎに起床しなければ間に合わない。そして本番の演奏会は18時始まりなので、開場迄どこかで過ごすことになる。ピクニック準備の時間もなさそうなので、お昼をどこかで摂って、膝掛を持って行って車中で熟睡か?陽射しがあれば助かるのだが、ないと摂氏12度程なので厳しい。ホッカイロのようなものがどこかに残っているか?

カラカラ浴場は開いているようで、フィルハーモニカーも来ていそうな気がするが、サウナで誰と一緒になるというのだろうか?弦楽のお姉さんたちよりも管のおやじさんたちと一緒になる可能性の方が強い。こちらは泊まりでないと着替えなども面倒なのだ。サウナを入れて三時間で23ユーロだから、自宅と往復するよりは安い。しかし、サウナでも入ったら草臥れるだけではなかろうか、更にこれはというお姉さんの全裸に逆上せてしまうと音楽会の集中力が落ちる。考えものである。ファゴットの毛深そうなおやじらと裸の付き合いも御免である。サウナ以外では、タオルや草履以外にも、水着が必要になる。場所は分かっているので、見学は考えてもいいが、日曜日のその時間はどんな人が来ているのだろうか?フィルハーモニカ―ならば来そうな人の顔が思い浮かぶ。彼らは練習後に風呂に入って飯を食って午睡出来るのでこちらとはやはり条件が異なる。サウナから出て車で寝ていたら酷い風邪を引くに違いない。

引き続き、「マスケラーデ」二幕、三幕と最後まで眼を通した。LPを購入した時の印象と大分異なっていた。音楽的には長短調の聞こえ方が変わってしまったかのような差なのである。楽譜を見ていることもあるのだろうが、やはりあの頃よりは悪く言えば長短調性システムに耳が捉われてしまっていることと、同時に現代のみならずルネッサンス以前の音楽への耳が慣れてしまっていることもあるのかもしれない。より自由に音が聞けるようになった可能性もある。

少なくともあの時点では後期ロマンティックの管弦楽法のその範疇でしか聞けなかったが、流石に微妙なところのモードを使う作曲にも沢山馴染んできたこともあるだろう。二十世紀後半の時点では前半で耳が固まってしまった人を見ていて保守的だなと笑っていたのだが、しかしその時よりも二十一世紀になって遥かに自由になっている自分自身の耳を発見する。

トビアス・クラッツァーの演出に興味が向かう。そもそもオペラブッファをモデルにしていて、原作自体も「フィガロ」などと異なり、更に啓蒙へと進んでいるので、またニールセンの作曲もリヒャルトシュトラウスよりも早く直截な形で古典回帰していて、デンマークの保守的な社会ではかなり社会主義的とされる。歌詞も詳しく研究してみないと分からないが、音楽的にはスプラスティックなものとコメディアデラルデのようなものを合わして、舞台を初演の1906年ほどに置けば上手く嵌まるのではなかろうか。ポロネーズの使い方などもとても参考になるだろう。上手に演出すれば音楽的な価値と共に可也出来の良い音楽劇場制作になる筈だ。少なくとも現在から原作の1724年の舞台を転換しても何ら表現とならないないことは誰にでもわかる。1900年当初にはそれなりの読みが出来たことを考慮する方が重要なのである。



参照:
長短調システムの精妙さ 2021-10-30 | 音
スイスの山小屋で露天風呂 2017-02-15 | アウトドーア・環境
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長短調システムの精妙さ

2021-10-30 | 
「マスケラーデ」のお勉強を始めた。久しぶりに取り出すLPを資料にする。昔日本で中古で購入したモノであるがいつかは資料になるかなと思っていた。そして思いがけない機会となった。今でも楽譜を購入しようと思えば面倒だったかもしれないが、ありがたいことに無料でDL可能だ。LPであるからそれなりのテキストと解説がついている。嘗ては音を出しながら英語と原語デンマーク語の対訳を見ていたと思う。対訳を見るというのは小学生の時からの学びだった。

最近は、よって未知のオペラでも先日の「鼻」の様に対訳というものを見ることがなくなった。それでも粗筋だけは予め目を通しておく。細かな歌詞よりも音楽的に理解するためには粗筋とそこで生じるドラマテュルギーを押さえておいた方がよい。つまりロシア語なんかで苦労してキリル文字を捉えるよりも楽譜を追って、よさそうな録音で音を確かめておく方が価値がある。そもそもその言語を知らなければ単語を理解してもあまり意味がない。今回のフランクフルトの上演はドイツ語に新訳されて人気絶大のトビアス・クラッツァー演出で上演される。

音楽的には、一幕への序曲が個別に終結部をつけて演奏されることがあるように、手本とする「ドンジョヴァンニ」の序曲以上に凝縮されていて、音楽語法的にも緻密である。兎に角、長短システムの中での自由な扱いとそのデンマーク語のニュアンスが絶妙であって、外国人が歌えるようなものではないのと同じように演奏するのも難しいと思う。そこにリズムであり上の三度、七度の扱いが更にデンマーク音楽語法になっているのだからどうしようもない。指揮者ティテュス・エンゲルが若い時からの新作の歌付きの管弦楽曲での経験をどのように活かしてくるだろうか。作曲語法からすれば決して容易ではない課題だが、ドイツ語のニュアンスは流石のキリル・ペトレンコでもそこまで音楽に反映させることはできない。それだけでも対抗できるか。

収容制限があった時に真っ先に席を確保したので、結果二列目になってしまった。だから最終日には一列目を再購入した。しかし、この制作の内容を考えると、指揮が見えない席で視線が指揮者から解放される価値はある。どうしても気になる所を、舞台に集中できるので、個人的な依怙贔屓に無しに舞台を判断できるかもしれない。どうしても耳は奈落の音に行ってしまうだろうが、ドイツ語のニュアンスを楽しめるようならば、またテロップを読むことが可能ならば、一回目としてはとても為になる。
Einführung zu »Maskerade« von Carl Nielsen


金曜日には来週日曜日にバーデンバーデンで四回目の本番が演奏されて収録される予定のプログラム生中継を観た。先ずはそのメンデルスゾーンが素晴らしかった。「スコットランド」は数年前にヴィーンのニコライコンサートでフィルハーモニー定期公演デビューとして指揮されたものだが、似ては非なる演奏で、如何にヴィーナーフィルハーモニカーが何もできない三流管弦楽団かというのが改めて知らされる。よく言われるように超一流楽団は他所の楽団が終えた程度から練習を始めるというが、ヴィーナーフィルハーモニカは何度やってもその域に達さないから初めから練習しないという座付き管弦楽団である。

それにしてもベルリナーフィルハーモニカーの弦のしなやかさと、折しもハイティンク逝去黙禱に続いて演奏された憂いのある歌の味わいのあること。そしてそのバランスの素晴らしさは、到底カラヤン時代のフィルハーモニカーの技術程度では不可能だった演奏実践である。パユを筆頭にあのような音は嘗ての名人でも出せなかった。

メンデルスゾーンの殆ど復権というようなものであって、それはヴィーンでの演奏でも感じられたのだが、そのバランスはお決まりの劇場のジンタのような重苦しいものであったが、こうした清澄さはこの作曲家たるものだったのではなかろうか。先日言及したカラヤンサーカスのサウンドの重い中低音の壁塗りのようなものは新フィルハーモニーが出来上がってからの新規のものであって、それ以前はアムステルダムのメンゲルベルク指揮コンセルトヘボーにしてもフルトヴェングラーは当然のこと、そのような単純な軍楽隊のような三和音の響きは芸術音楽には忌避されていたものなのである。

それにしてもこのコロナ禍でのフィルハーモニカーとペトレンコの活動は、こうして最初の頂点へと成果が表れてきた。ルツェルンでも進展は感じられたのだが、より進んできていると思う。火曜日のシューベルトプログラムも楽しみである。



参照:
ペトレンコ指揮に音をあげる 2016-04-04 | 音
怖気づいた伊人の実力 2019-03-16 | 女
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赤い風船が飛んでいく高み

2021-10-29 | 文化一般
日曜日の大初日の批評にざっと目を通した。自分自身の印象とコメントと超えるものはフランクフルタ―アルゲマイネ新聞の批評ぐらいだろうか。その差異が高級紙たる所以であって、ミュンヘンの批評を必ずしも扱っている新聞ではないが世界最高の歌劇場の新体制初日ということで重要な批評となっていた。

しかしほとんど半分は今回の音楽劇場上演への環境を説明していて、芝居の中身に関してはその残りの紙面を使っている。そこで演出家のキリル・セレブニコフがどのような舞台を作っているかである。いつものようにシュールレアリズムとの二元の放物線を描いていて、カフカと同様にそこに実像を描くとなる。つまりここでは「鼻」が無くなる前提を鼻を増やすことで顔につけた勲章としている。それは「鼻」を沢山つけていることがノーマルとすることで、既に明確な宣言をしていて、主人公は端からアウトサイダーであることが示される。

同時に演出家自身がおかれている社会環境にそれが投影されることで、プーティンのイデオロギー社会では、意味の政治的発言や凍り付いた民主主義、キッチュ化された宗教に対して一つしかない鼻のデモ参加者となる。そこには感傷もパトス化も無く、他紙によると、世界こそはフーガであるとなる。

最終景で注目されたのは、弦楽四重奏曲八番に繋がる室内楽演奏である。そこで二つのアパートメントの間で起きる風景はプログラムによるとセルゲイ・ルチィシキン作のそこから風船が飛んでいくという絵から印象されている。そこの窓の一つで首吊りがなされるのだが、空虚で孤独な人生が、赤い風船が飛んでいくときに流れているということになる。一つの鼻の主人公は、酔い心地で少女愛に将来を夢想するということになって、激しく幕が閉じられる。

まさしく劇場空間の時間的な断絶となるのだが ― 上の演出の作り方こそが我々を劇場の壁と現実世界の間でトリップさせることを理解されるだろう ―、この結果をして音楽と舞台がともに高めあう制作はミュンヘンでも長くなかったもので、地元南ドイツ新聞によれば、アウグスト・エファーディンク、サヴァリッシュ、ペーターヨーナス、ズビン・メータ、バッハラー、ナガノ、ペトレンコがなしたことを超えたところでドルニーとユロウスキーがやろうとしたことであり、それは聴衆を驚かすことなく、開かれ、拡大へと向かう、勇気と危険を顧みずになしたとなるが、国立劇場の転機となるだろうかとしている。

少なくとも初日に続いての二日目の中継でもブーなどは全くなく、支持者が集っていたのだろうかと思うほどだ。個人的には故モルティエー一派としては、待ち望んでいた音楽劇場の成果であり、期待に添った出来栄えだった。なるほどミュンヘンの聴衆の多くも同じような認識を共有していてもおかしくはないので、今後の疑問はどの程度の聴衆がついてきてそして新たに増えるかとなる。

新聞には、制作への練習をおろそかにするようなスター歌手は無用で、今後は制作に必要な歌手にしか声が掛からないだろうと書いている。つまり今後はメトとかとの共同制作よりも地元やお隣の芝居劇場との共同制作で、五月のエンゲル、クレンツィス、各々グートやカステルッチとの新制作がなされるとフランクフルターアルゲマイネ新聞は伝える。

そもそも今回の制作においても、初日に声の競演を求めるような向きには失望があったのかもしれないとしていたが、今後はこうした評論や評判などから残席がコロナに関わらずどれほど埋まっていくかなど注目される。初日においても天井桟敷は立ち見などぎっしりだったのを見ると、要するに通向きの音楽劇場となっている。

既にそうした試みは九月からの格安での解放で着々と進められているという見方があって、若い人を中心に問題意識の高い聴衆層が押し寄せるようになれば成功となる。

ユロウスキーの成果に関しては、既に私が言及したチームワークと対位法などで頑張るに尽きる。それだけでも大きな成果であり、より大きな作品での更なる成功が期待されるとある。
20211028 BaySta DieNase Oper DE




参照:
Winterbilder ohne Selbstmitleid, STEPHAN MÖSCH, FAZ vom 27.10.2021
Krachend provokant, Reinhard J. Bremeck, SZ vom 25.10.2021
ゴーゴリの鼻の威厳 2021-10-27 | 音
赤い国を生きた女性 2021-05-23 | 音
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すかさず手が伸びる

2021-10-28 | 文化一般
ここに来て感染者数が増えている。つまり隅から隅まで感染が広がって終わりに近づいている。英国の様に600とかいう指数が出始めている。そこから11月25日にはコロナ終結宣言も計画されている。一方、未接種者を守るには彼らに向けてのロックダウンも準備されている。既に接触の制限が予定されている。

バーデンバーデンも225で増え続けている。お年寄りが多い土地柄で死亡者が増えていない限り全く問題がない。祝祭劇場の練習参観に関するお知らせでは2Gになるかもしれないと書いてあった。既に間隔をあけて発券してあり、売り切れにもなっていない公演に適用してもお話しにならない。しかし上のような状況になればそれもあり得るのかもしれない。

そして祝祭劇場のHPを見ると嫌にコンセプショナルな記載がある。それは「マゼッパ」でのチャイコフスキーの創作が、歴史的に基準となっていた独墺ロマンティズムに対抗してのロシア民謡を使ったりの欧化志向でもあり、同時にナショナリズムでもあったのだとある。そしてその二極化は現在のロシアにも通じるとしている。

その序曲1882年のツァーのメロディと今度はそのウクライナを舞台とした反ツァーへの動きの中で、同時に上の独墺ロマンティズムから離れてのナショナリズム的な音楽とそのアイデンティティーの発露が同居しているという見解である。

その意味合いにおいて、交響曲の枠を取りながらの時間のそれとしたシューベルトのロマンティズム、フォンヴェーバーの音楽で始まるプログラムは、ヴェーバーの取り入れたトルコ、ハンガリー音楽をヒンデミート自身のアメリカ亡命を重ねてあると注意を促す。

そしてチャイコフスキーの伝統を受けてのショスタコーヴィッチこそは、ソヴィエトにおけるそのスターリン死去二年目での初演を迎える交響曲。全体主義からの憧れはあくまでも西欧における個人主義。

一体これだけのプログラムコンセプトは、バーデンバーデンでの解析だけではないと思う。支配人スタムパとペトレンコの会話の中でのキーワードから綴られたものかもしれないが、それ以前に先日ミュンヘンで見かけたクラスティング氏のアイデアが見え隠れする。

同時に発表されたのは、SWRでの「マゼッパ」とショスタコーヴィッチプログラムの収録の決定である。実は早朝から朝練習を公開するという連絡があって、一体何事かと思っていたのだが、これで少し狂ったような日曜の朝練の意味が分かった。

今年のペトレンコの指揮とその活動は最初の頂点を迎えているような充実度があるのだが、それを取り巻く我々にも熱が波及してきているような感じさえもする。

フランクフルトのオペラ劇場での「マスケラーダ」初日が週末に迫る。そろそろお勉強をしておかないと一回目の訪問とはいっても肝心なところを聴き逃してしまう。そのあまり期待できない座付き管弦楽を絞め直す為にも現在の音楽監督ヴァイグレはもう一シーズンで契約が切れて、後任人にはベルリンの同じバレンボイム門下から28歳のトーマス・グックアイスが抜擢された。最近はティロルの音楽祭などでも名前を見かけることが多かったので、どのような人かと思っていたら、大出世である。後任候補にはマルヴィッツなども挙がっていたようだが、到底トレーナーとしての腕は期待されないので、それは無理だと分かっていた。これで浪人になるヴァイクレとマルヴィッツの二人はドイツ国内ではとても難しい立場になった。各々上のキャリアを狙うとしてももはや適当なところが見つからなくなっているからである。前者もバレンボイムの後任は荷が重すぎ、後者もニュルンベルクよりも上のところが中々空いていない。ドイツェオパーベルリンぐらいの可能性があるだろうか。

兎に角、若いグックアイスは低バイエルン出身で、少年合唱に続いて十歳からピアノを始めて非音楽的な家庭出身らしいが、おじさんは有名な太鼓叩きだという。ノイフェルツ演出「サロメ」を急遽振ることになって脚光を浴びて、フランクフルトのレェーデ支配人がその現場にいたらしい。その後シュトッツガルトの音楽監督マイスターに請われてアシスタントになって、直ぐにベルリンに引き戻されたのがこのコロナ期間中だったらしいが、そこにフランクフルトからすかさず手が伸びた。



参照:
ゴーゴリの鼻の威厳 2021-10-27 | 音
「聖書」ではないお話し 2021-10-09 | 音
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ゴーゴリの鼻の威厳

2021-10-27 | 
水曜日の第二回公演が中継される。方々で批評記事もネットに出てきている。先ずはそれらに目を通す前に初日の印象を書き留めておく。演出は舞台の奥が見えない席なので、放映を待っていた。しかし音楽的な出来は奈落の上から吟味できた。新音楽監督の劇場指揮者としての腕を吟味したかった。

楽団は以前からの主要奏者を揃えていて、準備はできていた。指揮が異なるので、ペトレンコ時代のような響きはないのだが、矢張り座付き楽団としては並々ならない力を示していた。それだけを見ても新監督ユロウスキーの「チームワーク」が意味するところは明白であり、あとは如何に楽団に動機付けを与えていくかの腕の見せ所だろう。新体制新音楽監督新制作初日の出来としては文句のつけようがなかった。それでもここというときには更に力が入ってくるのが、その指揮と全く同じで、ホケテュスとかパンダの打楽器とか音楽的に面白いとなると精彩を浴びてくる。そこが前任者の一音も漏らさず仕上げてくる尋常ではないスーパーオーパーのやり方と異なる所で、それ以上に音楽劇場上演としての纏まりを重視した指揮だった。

その分若干保守的な印象も免れなかったのだが、現在ドイツの劇場指揮者で質の高いこうした指揮をする人はそれ程いないと思う。言及したようにアトナールの中でもここというところの響きを出したりという拘りがここかしこに聞かれた。但し劇場指揮者としてのキューの出し方などは最低限必要に止めるという感じで、前任者のような親切さはないのではなかろうか。そこまでの余裕がないというのはロンドンフィルハーモニーを指揮して交響曲11番を見た時にも感じた。だから音楽劇場の公演で破綻を帰さないというのが最大限の信念であろうか。それをして初めて公演としての山を築くというのが計算されていて、劇場感覚を自らが吟味しているという印象が強い。

指揮者でもあり音楽的にはドラマテュルギ―を決している。そういえば入り口ロビーに降りていくとペトレンコのアドヴァイザーで劇場でドマラテュルギーを担当していたクラスティング氏を横から見て気が付いた。すると先方も一瞬の視線を感じたのかこちらを確認したようだった。以前から会釈程度はしていたのだが、今年はガルミッシュパルテンキルヘンや「トリスタン」の最後の拍手など方々で顔を合わせていて、ペトレンコの追いかけにあらずで、ベルリンへの土産話しになるだろうか。確かフォアアールベルクには来ていなかったと思うが、こちらやルツェルンではペトレンコに気が付かれている。先方は嘗て仕事をしていたのだから仲間のところで見に来るのは当然なのかもしれない。バーデンバーデンで練習の見学の時にでも見かけたら声を掛けようと思う。こちらも自身のホームをはっきりさせておかないといけない。

歌手陣は、タイトルロールの鼻の持ち主が矢張り優れていたが、たっぷりとロシア語の音楽を浴びれてよかった。「鼻」は22歳ごろの初期の作品であると同時にスターリン時代には二年ほどあるために、若く希望に溢れたボルシュヴィツキのソヴィエト文化とそこから顧みて嘲笑される帝政ロシアがあり、作曲家にとっても学生時代からの両方のかなめにある時期だとインタヴューで語られている。つまり、ここでは後年のようなひねくれた作曲表現はなくて素直にソヴィエトの20年代の前衛が活きているとされて、同時に将来への予知のようなものがあるとしている。演出とともに詳しくは中継映像を見てからとなるのだが、演出家セレブレニコフの腕はとても確かだった。

思われているように自宅軟禁の状態などではなく、公金横領で訴えられているので金を返すまでは国外に出られない状況にあるという。だから支配人のドロニーとユロウスキーは何度もモスクワに計画中に訪問して相談がなされたらしい。なるほど政治的なアピールや援助とは別にそのようにしてでも制作を依頼する価値のある芸術家であることは明らかだった。

そして何よりもその音楽劇場としてのドラマテュルギー感はユロウスキーの音楽運びとともに秀逸であって、丁度の日本の新劇の芝居を見るような心地よさと若干の狭苦しさもあった。この作品自体がそうしたものであると同時に決して小劇場向きの作品でないということからまさしく初期ソヴィエトの芸術なのだろうか。(続く)



参照:
ミュンヘンへの行楽日和 2021-10-25 | アウトドーア・環境
行楽の週末を走る 2021-10-24 | 生活
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伴奏のつけ方の違い

2021-10-26 | 
頭が痛い。まだ年内十四回公演の僅か二回目で可也来ている。今後どうなることか。最高記録を出した十代の時も最後の数か月は完全にバテテいて、もう意地だけで音楽会に通っていた。あの当時はお勉強も真面にしていなかったのだが、勿論ツボも押さえていなかった。でも今の方が集中度は高く、お勉強をすればするほどきつくなる。

録音準備をしていたのだが二つとも間違った時刻を入れていたようで、録音出来ず。キャッシュも取れずで、ペトレンコ指揮ブレゲンツでのマーラーの九番は比較的マシなオンデマンドを録音しておいた。シュヴェツィンゲンにはナヴィが働かずに間違って走ってしまった。それでも何とかたどり着いたが、途上で写真撮影がなかったかとびくびくする。知らない道を走るときは不安だ。

中継はまたどこかで再放送で聴きたいと思うが、コンサートはとてもよかった。歌曲の夕べとしては可也満足度が高かった。やはりドイツで最も注目度の高いヘルムヘェンのピアノがプラスアルファーとして、この夜だけでなく秋に順延されたこの音楽祭のハイライトではなかったか。しかし、同じドイツのレヴィットとかの派手なライトは当たらない。それでも伴奏をしていても名人のフーバーなどとは全く異なるピアノを弾く。

合わせ物では、ベルリナーフィルハーモニカーのつけ方とかいろいろあるが、明らかにスター演奏家の伴奏で、似たケースではフィシャーディースカウにつけたブレンデルとかを思い出す。それよりも全く表には出てこないばかりか音楽の形や和声の色合いやリズム的な骨子をしっかりと押さえていて、室内楽奏者としても第一級のピアニストだなと思った。特に独墺音楽ではこの人を超える人はいないのではないかと思わせた。それでもとても今日的な感覚が新鮮で、久しぶりの本格的なドイツのピアニストでないかなと思う。

それに負けないだけの本格的な歌をプレガルディアンが披露した。技術的な精査とかは放送で聴いていたその通りだったが、先ず何よりも声が大きい。これはマイクを通しては分からなかったが、あれだけの声があれば、まだ大きなところで歌える。そしてヴュルツブルクの無観客では聴かせなかった熱の入り方は流石で、今回のプログラミングコンセプトにそれが生かされていた。つまり、新曲を上手く嚙ませながらこの二年間の総決算をしながら記録とするだけの演奏会としていた。「Hingabe」の作曲家ツィマーマンも来ていて祝福を受けていたが、とてもいいプログラムになっていた。

二月にはバーデンバーデンでの無観客でも歌っていたのだが、まさしくマイヤーホーファー作曲の歌詞「彼はひとり、そして何にもならない。歌手もその通り」、全く以てその通りなのを如実に示してくれた。技術の洗練だけでは歌にはならない。その意味からも、「月光ソナタ」も弾いたヘルムヒェンの演奏実践は明らかに当日聴いたアラウのものよりも良かった。とてもいい弱拍の解決をしていた。これはまさしく逆説的にドイツ音楽のアウフタクトがとても自然に打てているということであろう。

なるほど芸術歌曲演奏会なんて余程歌手に魅力があるとかのオペラ歌手の余興的な興行が殆どであるが、それを本格的に芸術として催すとどうなるかという一つの手本であろう。そしてこういう公演を行えるタレントはそんなにいないと思う。そういうことでは八月に聴いた「冬の旅」のネゼセガンのピアノでは矢張り物足りない。技術ではなくて音楽表現という意味で足りないのである。例えばユジャワンが誰かと合わせてそこまでするのも大変難しい。

昨年とは異なり10月末なので庭を歩くなど到底無理だった。矢張り九月頃がいい。今回は初めて腕輪を嵌められた。シャツの下に隠れるので問題は全くなかった。会場は満席使用では追加で余り売れなかったようで、売れていた筈の前の席も空いていて、昨年並みだった。丁度安い席の始まる36ユーロだったので、大変お得だった。そもそも歌手がこちらを向く場所を選んだが、目線もよく合った。



参照:
金を取れるということは 2021-07-06 | 女
シュヴェツィンゲンから中継 2020-10-25 | 音 
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ミュンヘンへの行楽日和

2021-10-25 | アウトドーア・環境
零時30分に帰宅した。ミュンヘンの劇場を出るときには予定より20分押していて、21時15分ほどになっていた。どこで押したのかは水曜日の中継を見ないと分からない。ナレーション部分も長くなかったが、省略など無しに演奏したのか?カーテンコールも通常並みで、最後一度だけだった。駐車場を出るまでに10分以上掛かったのは、自身の準備と待ち時間の両方だった。アウトバーンに入るのもBMW本社経由の長い距離を走った。

それでも昼間のカンカン照りを反映して予報よりも低温化して零下三度が報じられていた。実際に車外温度は摂氏一度に満たなかった。しかし、いつもにない乾きぶりは激しく、いつも湿り気の多いアウグスブルクまでの行程が完全に乾いていた。それだけで走行感が全く異なって、飛ばせた。ピクニックしながら飛ばせるのは、日曜日なので貨物車がないことと合わせての気候条件が大きい。薄い霧が掛かったと思ったらドナウの広い平野部に掛かるブルナウの原発のあるところともう一カ所ぐらいで、合わせて三キロほどで、あとは視界がよかった。

兎に角、バイエルンを出るまでにほとんどの食料品を食いつぶして、濃く淹れたシナグリーンティーの苦みがとてもよく効いたようだ。更に新しく試した眠気覚ましのビタミン済が口の中で溶けて、視界に鈍りがなかった。流石に最後の20kmほどは眠くなったのだが、視界狭窄は殆どなかった。眼鏡と加齢かと思ったが、条件さえ整えれば何とかなると思った。

往路も二時間余分に時間を取ったが、一時間のいつものドナウ河畔での休息、更にミュンヘン以内で前での時間調整で、予想通りの行楽渋滞を含めても18時前に地下駐車場前で待った。他の車は18時を待とうとしていたが、二分前に突入した。で結局3時間17分で11ユーロ。その他、ダルマイヤーのツィトロントルテとドッペルエスプレッソで10ユーロ。マスクを取るところでは3Gプラスとして、PCR検査が必要になるので新たにチェックしていた。プログラム8ユーロ。チケット代68ユーロに燃料代を入れて200ユーロ超えとなった。これで違反とかがなければよしである。

今晩は、シュヴェツィンゲンの離宮での音楽祭演奏会で生中継となる。これもタイマーで録音しなければいけない。それ以前にお勉強をする時間があるのか。眠い。

更に、21時から二時間番組でキリル・ペトレンコ指揮マーラーの交響曲九番の中継録音が流れる筈である。これもオンデマンドではなくて生録音しようと思うと、二つの録音を準備しておかなければいけない。上手くいくだろうか?



参照:
行楽の週末を走る 2021-10-24 | 生活
秋のシュヴェツィンゲン再訪 2021-09-14 | 雑感
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行楽の週末を走る

2021-10-24 | 生活
愈々、いつものお出かけ準備である。まだ燃料を入れていない。燃料高騰の折チャンスを捕まえるのは大変だ。19時始まりなので、午後出発で問題がない。しかし天気が良さそうなので行楽の車で混みそうだ。だから二時間近くの余裕を持って出かける。兎に角帰りを頑張らなければいけないので、ゆっくり睡眠を取って、ブランチをして、ピクニックの準備して出かける。ひざ掛けも持って行って、いざとなれば車中で睡眠したい。外気温は摂氏数度なので温かいお茶類をテルモスで持って行く。

衣装は完全に合いになる。服装コードゼロとされても困る。そもそも礼服などを着て行かないので、無難にスーツを着るかどうかぐらいだ。合いでも下着は薄いままで、シャツを厚めにしておけば日差しが厳しいので寒くはないだろう。道中はセーターか。寒ければタイもしておけば温かい。靴下は厚めがいい。バイエルンは滞在時間には余り気温が上がらない。

肝心の「鼻」のロンドンでのバリーコスキー演出も観た。音楽はメッツマッハ―で、流石に再演のロジェストヴィンスキーとは異なるが、そもそも英語上演なので本物とは何もかも異なる。但し、作曲家の横にいてふてぶされたような顔をしていたロジェストヴィンスキーとは大分楽譜の読みが異なる。そうこうしているとミュンヘンからメールが入った。沢山のリンクの一つにどうも総稽古の音らしいものが流れていた。ユロウスキーの指揮にも期待したいが、演出のセレブニコフに話などを聞くと結構期待できる。
Shostakovich - The Nose - Rozhdestvensky

Dmitri Shostakovich - The Nose

Schostakowitsch: Die Nase (deutsch, Dresden, Joachim Herz)


まだテークオフなので新体制のやり方が安定はしていないのだが、徐々に形になってきたと思う。あとは現地での初日の雰囲気でどのように変わるか、変わらないのか、なによりもドキドキするところだろう。

昨日並みの価格になったので燃料を満タンにした。序に短く走ってきた。秋の散歩で人が溢れて駐車場も一杯だった。人をかき分けて走ってきた。そのお陰で頑張りが効いて、最近では一番早く走れたようだ。このところ腹の調子がカタル気味で悪かったのですっきりさせようと思ったが、どうだろうか。道中の腹具合が気になっていた。これで、ぐっすりと眠れるといい。二度寝しても悪くないと思う。体重は変わりなし。

エンジンオイルも足しておいた。恐らくこれが今の車での長距離運転の最後になると思う。何事もなく走り切って欲しい。序に無料ナヴィヒアウイゴーの調整をした。アップデートしてから上手く使えなくなっていたからだ。結局春のヴァ―ジョンまでダウンした。音楽を聴きながらの警報とかナヴィ音声が出来なかったからだ。そんなものは何にもならない。



参照:
自分自身に合わなければ 2021-10-22 | 雑感
赤い国を生きた女性 2021-05-23 | 音
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一人佇んでいたハイティンク

2021-10-23 | マスメディア批評
オランダの指揮者ハイティンクが亡くなった。2019年に引退してから殆ど表には出ていなかったが、ルツェルンではなくロンドンで亡くなった。92歳であった。2018年に最後に聴いたのはチューリッヒでのブルックナー七番だった。その前には当時MeToo問題で辞めた指揮者ガッティーに変わって急遽マーラーの九番をルツェルンで振った。個人が振った最後のマーラーだった。それ以前にも同曲を指揮して転倒などを繰り返していたので、特別な意味合いがあった。本人も住居のあったルツェルンへのお別れのつもりでこの曲を選定したと語っていたようだ。しかしその翌年も引退興行でブルックナーの七番をそこで振ることになった。

マーラーの交響曲は先日も言及していたように様々な面で物足りない演奏で、期待が大き過ぎたので失望した。しかしスタンディングオヴェーションとなって余計に違和感が益した。終楽章の触りが一時ネットで流れていてDLしたのでその出来は今も確認できる。要するにそこまでの指揮はしていなかった。

しかし、その二週間ほどブルックナーの交響曲七番はとてもよかった。トーンハレ交響楽団でそれ程慣れていない楽団だと思ったが、楽曲のプロポーションやそのツボを良くわきまえていて、あのアンバランスな終楽章をもってしてもまさしく大伽藍としていた。そしてその演奏後の表情も忘れがたい。この指揮者の全てを語るような様子であった。

そもそも足が不自由になってから長く経ち、晩年には転倒こそあったが杖無しで歩けるようになっていた。気持ちの問題も大きいのだろうが、やはり不自由でない自分を取り戻そうとしていたのだろうか。またその前にはミュンヘンで第九を指揮して、舞台上に座ってせかされると怒っていた表情がヴィデオに残っている。観客の様子を見て、自身の芸術的な成果を確かめるのをなによりもの生き甲斐としていたような感じがした。それは、上のブルックナーを指揮した後で舞台脇で長く一人佇んで客席の方を向いている表情を覗き込むとそうなる。その時は一体何を見て何を考えているのだろうと不思議に思ったのだった。

スイスの独語最古の高級紙ノイエズルヒャー新聞の訃報がよかった。人を語ることに語り手の人柄が表れるとして、故人の言葉を挙げている。長く足が不自由で指揮台に椅子をおいて指揮していた。嘗ての本拠地アムステルダムのコンセルトヘボーの担当者が故人に合わせて指揮椅子を作った。そしてその仕事ぶりをして「素晴らしい専門家だ」と驚嘆して、尊重を以て語った。故人の体に合わせるために、「木から手で繊細に触りながら作り上げた、長年の職で楽団からも愛されている」と心暖かな人柄を偲んでいる。そして特製の指揮棒をプレゼントした友人はバーベキューに使っていると、マーラーの指揮棒の様に聖品になっていることを暗に皮肉っていたということになる。

この逸話を読んで、上の故人の表情を思い浮かべる。好き好んで肢体が不自由になった人はいない。心は昔の様に自由であった筈だ。そうした色気がいつもあったからこそ職人の気持ちもよく分かったのだろう。聴衆の満足や不満足な表情を見ることで自身の成果を自身にフィードバックしたのだろう。



参照:
Die Summe eines Lebens – zum Tod des grossen Dirigenten Bernard Haitink, Wolfgang Stähr, NZZ vom 22.10.2021
杖無しに立たせる指揮棒  2018-09-21 | 音
蒼空のグラデーション 2018-09-08 | 音
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自分自身に合わなければ

2021-10-22 | 雑感
メーカーの支店から連絡があった、試乗したい車が手配できないと。ディーゼルのものならば金曜日にハイデルベルクからなら走れるとあった。今時ディーゼルを買う人はいまい。しかしご近所さんは新たにディーゼルの中古車を買っていた。話を聞くと定年で車を市内には知らせることもなく、市内進入禁止のディーゼルでも問題がないということだった。勿論価値が全くなくなっているので馬鹿安で購入したのだろう。同じ理由で今回の新車購入の選定が定まった。緑の党が公約にしていた制限速度施行は連立構想三者の話し合いで引っ込めたが、脱化石燃料エンジンへは舵を切るとあった。すると、今後市内では化石燃料エンジンでは通行が不可能になる。恐らく十年以内に実施されるだろう。

その確信を持ったのが市場で大きな要素となっているプラグインハイブリット車の勃興で、三菱車などに続いてダイムラーなどだけでなく小型車にも急に増えてきた。どうも身近で走っている音のしない車の殆んどはそれで、完全な電気自動車は郵便局の車やテスラなどまだ少数派であることが知れた。つまり、五年後に市内通行禁止にしても市場は追いついて来るとなる。

一方電気自動車の方は到達距離が660KMとかでミュンヘン往復が出来ない。800キロに延びても充電時間が数時間かかるとなると、事実上旅行が制約される。その点、上のハイブリットでは少量の燃料を積んでおけば従来通り走れて、必要ならば充電も可能となる。明らかに走行距離が延びるだろう。

プラグインハイブリットは本格的にはコロナ中に紙上を賑わしてきたようで、一昨年の最後の車検の時にはまだ通常のハイブリットを超えての選択の要素とはなっていなかった。つまり、現在はまだ上のディーゼルなどが市場で混在している。そこで俄然テクノロジーの変化期としてのそれにとても興味を持った。現在の車は丁度ディーゼルが大人気になった時のオットーモーターを敢えて選択したのだった。

更なる特徴として四輪駆動にしたいということだ。現在の車は後輪駆動で、前輪駆動車は殆ど乗ったことがないので、四輪になれば雪道などに強くなるだけでなく、自動化運転への大きな制御機能となる。その他昔から希望の空気ばねは、どうも調べてみると三段階のコンフォートとかスポーツと彼の調整しか出来ないことが知れた。嘗てメルセデスでは600リムジンに使われていた技術とあまり変わらない。それが現在は自動調整になっているとあって、これは不要と分かった。空気ばねが他のシステムよりも有利になることはもう殆どないだろう。

その他サンルーフとかを本革使用とかメタリック塗装とかをコンフィギュレーションをしていくと売上税を加えて予算を超えてしまった。思ったよりもスタイリングとかは金を掛ければそれなりになることは現用の車両の時と同じで、同様に時間が経つとその価値は保険でもあまり賠償されないものになっていく価値の喪失が結構大きい。謂わば何百万円のものを趣味で購入するかどうかということになって、必要性の経費とはまた別の話になる。

ミュンヘンの宿はキャンセルした。これで何とか午前様で安全に戻ってくることに全力を注ぐ。眠気止めの新たな口に入れるものも購入して試してみる。久しぶりにガムもやる。飲み物とか復路の車中で口に入れるものも吟味する。新音楽監督ユロウスキーのインタヴューを読むと面白かった。矢張り話しが上手い。そして、モスクワでの監督の指揮を後任のヴァシリー・ペトレンコに譲って名誉指揮者として空いたときに指揮しに行くと語る。今までも政府の干渉を受けたこともなく、大臣とは顔馴染みだがプーティンとはまだ会ったこともないとしている。つまり、爺さんからの関係で文化界に大きな繋がりがあるということで、完全にエリート階層であり、如何に同じユダヤ系でもシベリアのキリル・ペトレンコ家とは大違いということである。だからプーティンと個人的な友好関係のあるゲルギーエフにも一定の理解を示している。勿論本人は干渉を受けるようなことがあれば二度とロシアでは活動しないと言い切っている。

そう一つ注目されるのは、演出などの企画が音楽監督である自分自身に合わなければ新制作を任せられる指揮者を探しているという件である。勿論実力がなければ監督の責任でもあるので容易ではないだろう。例えば来年デビューするエンゲルなどもそうした候補なのだろうが、本当に力がある人とならばライヴァル関係になるのではなかろうか。兎に角、週末にその腕を見せてもらうことになる。



参照:
視差を際立せる報道 2008-09-29 | マスメディア批評
639馬力、最高時速315㎞ 2018-10-07 | 雑感
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そろそろの潮目時

2021-10-21 | 
SNSの交流は他愛のないものも多い。しかしおかしなことの回答を貰うことにもなる。何でもないフォンカラヤン時代の所謂サーカスサウンドがドイツの響きだという言及が最近日本では通っているのを不思議に思っていた。そのことに関しては、カラヤンがベルリナーフィルハーモニカーに就任したころの左派雑誌「シュピーゲル」でのインタヴューを挙げれば容易に反論となる。そこでは、南欧気質について言及されると、フォンカラヤンの名前には誇りを持っていると語っている。要するに、ズビン・メータが最初に指揮した時にもドイツ人しかいなかったような楽団で、その十年程前にはカラヤンこそ非ドイツ人だったのだ ― コンツェルトマイスターのシュヴァルべはスイス人と誤魔化されていたとメータが語る。同じような現象はここ二十年でも更に変わってきていて、そもそも残っていた血統主義がもはや意味を成さなくなってきた。

実はそのことと上の殆ど流言と思われるような「カラヤンサウンドがドイツの響き」とする主張の出所が見えてきたような気がした。そのことを暗に示したのはその語り手が日本の教育学の西尾幹二の信奉者のようだったからだ。恐らく彼らネトウヨの世界ではカラヤンもフルトヴェングラーと同じようにゲルマンだったのだろう。それどころかフルトヴェングラーも帝政ドイツではなくヴァイマール文化の典型だと示唆すると尻尾を撒いて逃げて行った。

どうもあの手の歴史修正主義の連中には第三帝国から神聖ドイツへと繋がる何かを軸にして、おかしな妄想に浸るような傾向があるようだ。そもそも一体ドイツとはと、その歴史には触れないが、その「ライトクルテュアー」として緑の党などの推進していたムルティクルテュアーの対抗軸としておかれたのは今世紀の始まり頃だったと思う。その論争も消してしまうだけのこの間の世界の流れは大きかった。現在日本でもネトウヨと言われると心外とする人が殆どになってきたのとよく似ている。

さてカラヤンの音楽に言及しておくと、なるほどそれは決してギリシャ系人のものではなかったのだが、嘗ての楽器や奏法とは離れてインターナショナルへと向かう丁度西ドイツの文化的シューウィンドーの役割も果たしていた。それが、同時に主要輸出品と並ぶことで、象徴的な意味を成していたのである。要するにまさしくドイツの音楽文化ではあったのだが、メディア販売される複製芸術の代表格でもあり、その意味では英国のビートルズに負けないほどの文化出品の意味をも成していた。

我々は今もっと自由にドイツ文化というものを認識することが出来る。ドイツ音楽というものも歴と存在する。我々はそれが正しいのかどうかということにいつも絶えず目を配っている。それはイデオロギーではなく芸術表現の根幹に係わるからである。

窓掃除が一通り済んだ。これで最大限の日の光を室内に招き入れる準備が済んだ。これから年末までは僅かな時間でも部屋の奥へと日差しが差し込んで呉れるのがなによりも嬉しい。そしてエネルギーを節約できる。

金曜日に漸く車の試乗を申し込んだ。今の車の車検が切れるので、先ずはアクションを起こしておかないと、発注も何もできない。つまりもし新車を半年待つとしても、その間の車の都合を手伝って貰えない。新車を注文すれば幾らかは面倒見てくれるだろう。



参照:
一期一会の時を迎える 2021-02-21 | アウトドーア・環境
高いアヴェレージ 2019-11-07 | 暦

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お昼はニムフェンブルク城

2021-10-20 | マスメディア批評
週末の初日が待ち望まれる。その新支配人ドルニーの先週一週間の動向が綴られている。ヴィッテルスバッハ―王家当主に昼食に招かれてと書いてあるので、どこでかと思ったら、ニムフェンブルク城だった。財団が所持していてその代表理事がという形になるのだが、流石と思う。と同時に、あのドルニーも左翼でありながらベルギー出身だから結構慣れているのかもしれない。

今回の注目は新音楽監督ユロウスキーだけでなく軟禁中のセレブレニコフの演出ということでも世界のメディアの注目が集まっているらしい。エンゲル指揮シュツットガルトの「ボリス」もそうだったと思うが、時期が悪かったので損をしたのかもしれない。今回もネットで連絡をとりながらの演出だったようだ。題材が題材だけにどのようになるのかは興味津々だ。三日後の二回目の上演が生中継される。

同じようにミュンヒナーフィルハーモニーを振りに来たナガノも嘗ての仲間だったので訪問したらしい。この三年間毎月リヨンとミュンヘンを往復し続けたらしい。そしてやっと落ち着いたと語る。来年もエンゲルなどもデビューするのでとても楽しみにしているが、先ずは週末から何らかの成果を出して欲しいものだ。

「鼻」の上演時間が休憩を入れても2時間半掛からないことが分かった。初日は19時始まりなので21時15分頃に車庫を後に出来れば帰宅可能だ。気になるのは天候で、日曜日の早朝は場所によれば零下になる。しかし、昼には気温が上昇するのでアウトバーンで問題になることはない。帰宅時も氷点下になるようなところもなさそうで、お湿りぐらいなので、先ず凍結の心配は要らない。順調に眠気さえなければ1時までに帰宅可能なので居眠りの危険性も少ない。

宿は取ってあるが、木曜日中は無料キャンセル可能なので、総稽古の様子を見て、終演時刻を教えて貰えば決断できるだろう。休憩時間もあっても20分、第二回公演のラディオ生中継の予定からすると19時30分始まりで21時15分までになっているので、休憩無しということになる。すると初日は20時45分に終わって、21時過ぎには車を走らせている。その場合、ゆっくり走っても零時半には帰宅する。何とかなるか。ゆっくり就寝できると翌晩のシュヴェツィンゲン音楽祭が楽になる。



参照:
Die Woche von Serge Dorny, SZ/blö vom 17.10.2021
頭の中で熟成させる芸術 2021-10-19 | 文化一般
ミュンヘン新体制の船出 2021-06-11 | 文化一般
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頭の中で熟成させる芸術

2021-10-19 | 文化一般
深く眠った。久しぶりに政治前に床に入れた。それが効く。夜中や明け方に目が覚めても寝覚めがよい。走ったので背中に張りがあり、明け方足が攣りそうになったのは知っているが、それでも酷くはない。丁度日曜日の疲れが残るぐらいが気持ちがよい。書き忘れたが、体重が70.7㎏まで落ちていた。理由は思い当たらないのだが、運動量が上がっているのだと思う。ノルマは変わらなくても通けて守られている期間が差になる。同時に気温が下がってきて、消耗が激しくなっているのだろう。ここで筋力をつけていかないと駄目だ。

「鼻」の第一幕を観た。最初のソヴィエトのナレーションはまだ流していない。最初の第一印象と同じくゲナジ・ロジェストヴィンスキーの指揮がとてもそっ気がなくて、可也楽曲の沢山の部分を削ぎ落していると思う。キャリアーの年代をみると同じく鬼籍のヤンソンスよりも一回り上なだけだ。もっと昔の指揮者と思っていた。同じ指揮者のコンドラシンよりも16年も年下で、明らかにソヴィエトの指揮者という感じである。とても健康そうな鳴らし方をしていて、流石にショスタコーヴィッチの楽譜はそれとは違う。

22歳の時の作品で、20歳での第一交響曲、そして第二交響曲等を比較すれば、やはりフォールマリズムそのものの演奏は敢えてそのようにしているようでもあり、全く新劇のような内容にして演奏しているとしか思えない。本当にそれだけの嘲笑だけの音楽なのだろうか。

ヤンソンスになるとそれをある種の客観的な立場としているのだが、更にグイグイと削いで、それを芸風にしている。そのようなことで楽譜の行間を読ませることになる。勿論ミュンヘンではずっと若い世代のユロウスキーが振るのだが、作曲家と家族付き合いの厚かった作曲家の息子の父親も1945年生まれで、ロジェストヴィンスキーのアシスタントをしている。

「マゼッパ」第三幕も通した。こうして初めて「子守歌」がどのようにはまっているか確認したが、そのフィナーレまでメロドラマとして大変よく出来ている。しかしチャイコフスキーの作曲通り精妙にセンシティーヴに演奏するのは難しいと思う。そしてロシアでそのように演奏する座付き管弦楽団なんてあるのだろうか。この作品が外国はもとよりロシアでもあまり演奏されていない理由ではないかと思った。この作品の上演までにはまだ少し時間があるので、一旦おいて、頭の中で熟成させたい。「マゼッパ」二番目のティケットも招待のトリックもあるかもしれないが、目立つところは結構出た。

来週月曜日には、シューベルトとベートーヴェンもあるので、楽譜だけには目を通しておかないと、ミュンヘンからの帰りに車中で聴けるとしてももう時間がない。

「マスケラーデ」も準備しなければ来週は時間がなくなる。再来週のヒンデミートよりも、時代は異なるとしてもショスタコーヴィッチ交響曲10番の楽譜を落としておいた。これで、出来れば週末までに一度と思うが可能だろうか。



参照:
二枚目の招待券を確保 2021-10-18 | 文化一般
お仕事させられるご招待 2021-10-16 | 文化一般
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二枚目の招待券を確保

2021-10-18 | 文化一般
日没前に頂上を往復した。なぜがとても時間が掛かっていた。理由は分からないが、始めて上着を羽織って走った。その影響もあって発散が少なかったかもしれない。心拍数は上がっていても足のテムポが緩かった。手の振りも鈍るので、また駐車場に車も人も多くウォーミングアップも効果的にはできなかった。マウンテンバイクの爺さんが先に坂を上り始めたが、頂上領域で出会ったので登頂したのだろう。下りは早いから十分な時刻に帰宅しただろう。忘れてしまったのは足首柔軟で、これは途中で気が付いたので、頂上の折り返し時に行った。足首を捻れば結構厳しいことになる。それでも躓きそうには二回ほどなったが、日暮れ前に無事駐車場の降りてきた。来週末には時間がない。

下りながらバーデンバーデンの「マゼッパ」公演を考えると、今までも祝祭劇場とフィルハーモニーでは奈落とコンサートということで楽器配置が自ずと変わっていた。だから目的や合唱の配置などによっては祝祭劇場の奈落を使う可能性もあると思う。しかし舞台上でどうするかというのはそれなりの構成が必要になる。

早速「マゼッパ」のTV収録を流してみた。二幕まで観て、可也のメロドラマ構成だと分かった。しかしレチタティーボなど大幅に切り裂いて更に適当に繋げている公演なのであまり参考にならない。それでも全体のドラマテュルギーは舞台の演技もあってざっくり掴める。但し音楽的な意思は明白であって、正確に演奏すればとても精妙なところが沢山ある。そして言葉の拍節やシラブルなど可也柔軟に動かないと不自然になりそうで、ロシアでレパートリーにしているような人でないと難しいだろうと思った。
«Мазепа» П.И. Чайковский / "Mazeppa" P. I. Tchaikovsky


そこでもう一枚の招待券の座席希望が決まった。二日の最初の日には字幕を無理なく見れる席がよいと思った。つまり舞台上のテロップと少なくとも舞台を同時に見れるような席である。自分で撮った写真を研究するとやはり第二バルコンとなる。そこからならば上手くいけば同じ目線で舞台と字幕が目に入る。しかし歌の場合は正面で聞くのでないと言葉が不明瞭になってくる。しかし字幕を見たいというのもロシア語が分からないからであって、先ず初日は字幕で驚くことが結構あると思う。

更に後ろの高みの席ならばより間違いないが今度は距離も遠くなり、愈々言葉が不明瞭になる。そこで一列目の適当な席が空いていたので、そこにした。階下のバルコンも空いていたのだが、翌晩と同じようなところに座って無理してテロップを見る必要もない。価格は169ユーロで第4カテゴリー、最高席が260ユーロなので大分安い。売るわけではないのでそこまでガメツク最高額席を狙う必要もない。高額券は簡単に売れないからこうして招待券として配っているわけなのだ。

こうして二枚は重なっているのだが、手元に年内まだ14枚の券があるのを確認した。月毎四回ペースだ。今まで一番通った年が120回ぐらいだったので、その時は月に10回も通っていたのかしら。当時ポリーニが年間50回しか弾かないとかあったのでそれを超えていたのは知っていた。恐らく今年の回数はあの年に続く数になると思う。将来一体コロナ禍の時に何をしていたかと尋ねられたら、音楽公演に通っていたとなるのだろうか。傾向としては同じ出し物に二回通えば倍になる。今年はその傾向が強い。



参照:
お仕事させられるご招待 2021-10-16 | 文化一般
華が咲くオペラ劇場 2019-04-14 | 文化一般

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