Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2009年6月

2009-06-30 | Weblog-Index



張りぼて大男の大切な仕事 2009-06-30 | 生活 TB0,COM0
極東アジア人の心理なんて 2009-06-29 | 文化一般 TB0,COM0
中之島に永く根を生やす 2009-06-28 | ワイン TB0,COM4
股裂治療への潜在的恐怖 2009-06-27 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
逢瀬の地、中ノ島へと渡る 2009-06-26 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
旅行の途上に、ベー! 2009-06-25 | 歴史・時事 TB0,COM0
馬鹿に捧げるリースリング 2009-06-24 | ワイン TB0,COM0
人情味溢れる冷たい秩序 2009-06-23 | 雑感 TB0,COM0
表情豊かな肉屋の売り子 2009-06-22 | 女 TB0,COM4
ラルフ・ダーレンドルフの死 2009-06-21 | 歴史・時事 TB0,COM0
週三回の熱い危険な誘惑 2009-06-20 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
希望という自己選択の自由 2009-06-19 | 文化一般 TB0,COM0
輸送業における海外市場 2009-06-18 | 雑感 TB0,COM2
遠い一人前の猟師への道 2009-06-17 | アウトドーア・環境 TB0,COM2
自然環境に内包される社会 2009-06-16 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
まろやかな味にリースリング 2009-06-15 | 料理 TB0,COM0
同じ側の人と錯覚する民 2009-06-14 | マスメディア批評 TB0,COM0
出もの腫れもの処嫌わず 2009-06-13 | 文学・思想 TB0,COM4
自然な不可逆な視線 2009-06-12 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
忙しい日をじっくりと終える 2009-06-11 | 暦  TB0,COM2
執行猶予期間を先送りする 2009-06-10 | 生活  TB0,COM2
自治と欧州の狭間の緑 2009-06-09 | アウトドーア・環境  TB0,COM0
Fast In, Fast Out!  2009-06-08 | ワイン TB0,COM10
若き芸術家の癌病闘日記 2009-06-07 | 文化一般 TB0,COM6
とんかつ山盛りの夜食 2009-06-06 | 生活  TB0,COM3
弾けた太鼓腹の皮の行方 2009-06-05 | 生活 TB0,COM5
誘われて、困っちゃうな 2009-06-04 | 雑感  TB0,COM3
口説きの壁を越えられるか 2009-06-03 | 女 TB0,COM6
身体に染み渡り薬になるもの 2009-06-02 | 生活 TB0,COM4
体解しのジェラートとビール 2009-06-01 | 生活  TB0,COM4
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張りぼて大男の大切な仕事

2009-06-30 | 生活
運送屋の飛んだ茶番劇に付き合わされた。ワインを取りに行った時の自動車の外気温度は30度を越えていた。気の長い性格と言うか、運動のために身体も労わっているのでつまらないことではいらいらしない。興味があるのは美しく瑞々しい女性だけである。

しかし、今日は大きな男が荷物を引き取りにやって来て思わず嬉しくなった。二メートル五あると言う。それも腹が出ていて十分にプロレスラータイプである。だから思わず言った。

二人で来ている大男に「あんた一人で運べるんじゃないの?」

すると、「そりゃ、出来るけどさ」とかなんとか言い分けするのである。

それでも出来るだけ車を近づけようとしたのは大男の方だった。体重を聞くと見ためとは違い百十キロしかないと言う。それが本当ならば我が体重の最高値と二十キロも違わない。それで思った、これは張りぼてだなと。

案の定、たかが八十キロのものを二人で運ぶのに、「重心を整えてとか」言って手を滑らせそうになっていた。それでもバックが億劫なのか車を近づけずに十メートル以上も離して停めたのは小さい方(もちろん百八十は優に越えてはいるが大男と並ぶと子供にしか見えない)で、その馬鹿さ加減の方が凄いと感じた。

その数時間前にやって来たルーマニア人かギリシャ人の南国の彫刻風の顔付きの親仁には、「あんた一人で運べるのかい」と聞くと、「そりゃ無理だよ」とのたまう。

「こりゃ駄目だ」と呆れ、「今日は一切手伝わないから、その旨を手配したんだよ」と念を押した。すると、「僕も手伝うから」と飛んでもない事を言い出す。

正直、その親仁よりも此方の方が腕っ節が強そうであるが、こちらは腕の筋を休めたいのだ。それに今回は持ち難い事が分かっているのである。

こちらは石切り場で働くようになってから徐々に肉体派になって来ているのだが、流石に彼らの仕事を奪って仕舞ってはいけないと自重しているのである。
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極東アジア人の心理なんて

2009-06-29 | 文化一般
独日協会の関係で質問状が廻ってきた。ハイデルベルク大学で研究しているシナ人学者の極東アジア人のドイツにおける心理を研究するもののようだ。

全部で独文18ページのPDFファイルに及ぶ本格的なもので、夜中に目が覚めたので二十分ほどの時間を費やした。

例えば、出身国の伝統的な文化的な活動や決まりに対して十段階で答えると、「強い拒絶」となり、奥さんがそのような文化的背景をもっていろとすると「拒絶」となるのが私の回答である。それに対してドイツ文化を背景とする配偶者とは「場合による」となる。

また余暇を同じ文化的背景の人物と好んで過ごすかとなると「場合による」と「拒絶」の中間となり私の現実の生活姿勢に即して答える。しかし問いは、こうした主義主張だけに収まらない微妙なところ形を変えてついてくるので、極端な思想的な偏向とは異なる真実の姿が心理学的に見え隠れしてくるのだろう。主任教授の名前を見て驚いた。フロイト教授である。まさかとは思うが、名門大学であるからないとは言えない。

例えば、同郷の者となにかを習ったりするのが快適かとか、はたまたドイツ人とは快適かなどと少しずつ視点を巧みにずらしてくるのだ。まあ、文化的な判断に関してはこれだけ毎日のように書いているので私にはぶれは全くない。

ご存知のように日本語を平常全く喋らなくてもそれをこうして毎日書いているとなるとこれまた特殊な感じであるが、それも事実であるから仕方ない。

国籍に関しては「全く興味なし」、日本文化との繋がりは「中立的」であり、日本文化との関わりあいも「殆どない」のも事実である。シナ人ならばもう少し食事に拘って次ぎのような問いを出すべきではなかったろうかと私は考える。

「生まれ育った食文化にどれほど依存していますか?」と問うてみたいのである。これはなにもその依存から抜け切れないシナ人でなくとも例えばドイツ人に対してもかなり重要な社会的であり心理的なバロメーターであると感じる。要するに、職場などでの集団性を問うよりも如何に直接的な問いかけであるかは、多くの文化圏においては共に会食することが重要な儀式であることでも分かるであろう。そこには同じものを咀嚼して咽下すると言う象徴的な行為が介在しているから、なにもキリスト教のミサでなくとも飲食が動物的肉体的な直截な営みであり尚且つ洗練された文化となるのは当然であろう。

その他は、簡潔に言えば儒教精神の影響とキリスト教のもしくは多神教や一神教の心理への影響に関する間接的な質問設定であり、これまたマックス・ヴェーバーだなんだかんだとほざいている者にとっては今更の感がある。

更に他の相当する人に先送りしてくれというのでシナ人の知人に渡してみようかと思っている。それにしてもこうした問いかけをある程度の知識人層に投げ掛けるのが如何にも極東的なそれも中共?の心理学者の態度であるように思うが、どうだろうか。



参照:
読んだ本・買った本「多読術」「マックスウエーバーと近代」など
マックスウェーバーと近代/姜 尚中/岩波現代文庫 (西部戦線異状なし)
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中之島に永く根を生やす

2009-06-28 | ワイン
ミッテルラインの代表的な町のひとつバッハーラッハで面白いワインに巡り会えた。もともと商業的な町として、ナーへ川の河口のビンゲンに並んでワインの通商なども盛んであったようで、今でも代表的なミッテルラインの醸造家はここに集まる。

ついでに言えば、今回宿泊したボッパートのハムなどと呼ばれる大きく広がる斜面とは異なり、スレートの急な斜面に最も良いワインが出来るようである。要するにモーゼルのそれに似ている。

スレート臭さが旨味であるか嫌味であるかがこの地方のリースリングの判定基準であろうか。そのような訳で道端に腰掛けたワイン酒場でそれほど期待するリースリングなどはなかったのだが、机の上の砂を詰めて重しにしてある空き瓶にはVDPのマークが入っている。

ワインリストを見ると、島のワインの説明が出ている。島とはライン川に浮ぶ長さ680メートル巾150メートルの小さなハイレーゼン・ヴェルト島のことである。ネットで調べると中の島らしく泥と湿った泥となっているが、飲んだ印象は全く異なった。

完全にスレートの特徴がそれも混じりけのない感じで楽しめるのである。こじつければ痩せたどうしようもない土地であるからこそ、根は深くスレートの岩盤に伸びているに違いないと思った。

そのワインつくりも1979年に競りで島を落としてからの歴史も興味深く、態々試飲して買いに行くほどのリースリングではないが、お土産話には是非飲んでみたいワインであった。そして、半分をモダーンなワインを半分を昔風のつくりのワインを醸造するフリードリッヒ・バスティアン醸造所は、この特別なワインを清潔感のあるリースリングとしていた。
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股裂治療への潜在的恐怖

2009-06-27 | アウトドーア・環境
週三回への道は険しい。レーヴァクーゼンからルートヴィヒスハーフェンに戻ってきた男が16時過ぎに電話を呉れた。水曜日の疲れが残っていて、少々疲れ気味であったがそうなると石切り場へと出かける。

昨晩はその石切り場で今まで手を付けていなかったテラピーツェントラルと言うルートをリクエストした。「え、まだ登っていないの?」と上の開発者が驚く。

なるほどその凹角を真っ直ぐ上まで二十メートルほど登るルートは見た目にも美しく、名前も優れている。今まで挑戦せずに隠れて登ってやろうという深層心理が働いていたのかもしれない。

それは下半部の90度の凹角内でのツッパリの厳しさゆえである。手の長さはまだしも足の長さが話題となると此方はついていけない。そうした不安が潜在意識としてあったのだろうか、余計に気になっていたようだ。

さて登ってみると、核心部は完全股裂き状態でないとやはり届かない。相撲の股割りではないが良く届いたものだ。体の柔軟性は全く自信がないのだが、つま先を上手く伸ばして初挑戦でなんとかなった。

なるほど命名者は、「怪我をした後でこうして手足を開く治療を本当にしたんだ」と、ルート名「治療施設」の命名の真相を語ってくれた。

昨晩の成果は勝ったり負けたりで力も漲ることがなくまあまあであったが、なんとなく身について来ているものと、今一つ体の軽さと力強さの足りないものを感じて、そこに課題が見えて来て順調である。

さて、今日明日と終日雷雨が予想されている。石切り場からやっと抜け出して本格的な雑食砂岩の岩峰や岩峰で週三回目を体験出来るかどうか何とも言えない。少なくとも筋肉の疲れを今日中に上手く解す努力をしたい。
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逢瀬の地、中ノ島へと渡る

2009-06-26 | アウトドーア・環境
中途半端に近くてゆっくり見物する機会がなかった。だから今回のミッテルラインへの旅で時間の掛かるような場所に初めて立ち寄った。その中でもホーヘンツーロェンの姫の恋物語もありヴィクトール・ユゴーにまたハイネに歌われたこのプファルツ城ことプファルツグラーフシュタインと呼ばれるライン川の中ノ島に建っている嘗ての関所を訪問出来てとてもよかった。

物流の根幹であるライン川を押さえる事は権力者にとってはなによりもの目的であったに違いない。そこに関所を設けて関税を取ればこれほど上手い話はない。そのためには、海賊に占領されないように本格的な城砦と飛び道具が必要になる。無理に通過しようとする船は沈没させればそれで良いのだろう。

税関所の首領は、役人でありながら御大名のようにこの小島に家族と共に住みこんで部下を二三十人も使っていたようである。それゆえか灯台とは違い、思いの外、立派な城であり、天井は低く手狭ではあるが、全てが完備している。もちろん雪隠は川へと落とす水洗式である。井戸も深く掘られている。

今でもディーゼルの船で渡るには二三分掛かる。流れも結構強く手漕ぎでは厳しいので小さな帆船を使っていたのだろうか。
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旅行の途上に、ベー!

2009-06-25 | 歴史・時事
ミッテルラインからラインガウへと旅行した。

写真は、ちょっと貧しい町レンスの街角の風景である。

町外れには、19世紀に再建されたドイツ王の王座がある。この町で選定候の選挙の談合が行なわれ、フランクフルトで二人の王が選ばれた。一人はハプスブルクのルドルフであり、もう一人はルクセンブルクのハインリッヒ七世である。その後、カール大帝がアーヘンでの戴冠への途上にここに座している。
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馬鹿に捧げるリースリング

2009-06-24 | ワイン
ラインガウのホッホハイムのリースリングを開けた。キュンストラー醸造所の2007年産のキルヘンシュトュックであるが、なぜかグランクリュと並べてあったので不審に思って開けた。

態々調べていないが結構な値段で買ったのだろう。なぜ試飲をしながらこれを買ったのか判らなかったので早速味見をした。

その理由は結局定かではないが、ウェルナー醸造所で馴染みのその土壌の特徴が強く出ていて、やはりあまり良くないと思った。アルコール13%で立派な瓶に入っていてQbAクラスというのも解せない。似ているのはベルクシュトラーセのツェントゲリヒトのリースリングなどで、恐らく同じような土壌に違いない。

一言で言えば後味も強く素人さんには奨められないリースリングである。恐らく日本などの市場にはこうした難しいドイツワインが主に流通しているのだろう。この醸造所自体は決して悪くはないのだが、輸出入業者はドイツ国内で売れ難くて尚且つ評価本で点数の高いようなものを、なにも分からない日本の市場などに上手く売り込んでいるのだから仕方がない。

こうした特産物は、そこの土地の特殊性を知って、おみあげに楽しむものであって、態々幾多の上手いワインの中から選んで購入するものではない。しかし、月指す指しか見れない事情の分からないマニアや素人さんは、こうした特殊なリースリング試してドイツワインはこうしたものだと思うのだから救いようがないのである。

そう言えば、先日の独日協会の月例会でホッホハイムの若奥さんと隣り合わせになって、あのどうしようもない一方通行の話や、キュンストラーは何件もあるなどと町の話をした。子供の頃は醸造所の友達の摘み取りを手伝ったり、また小学校で体験学習などがその昔は良く行われていたらしい。
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人情味溢れる冷たい秩序

2009-06-23 | 雑感
ラルフ・ダーレンドルフの死亡記事を読んでいて次ぎのような事を空想した。民主主義と市場経済への愛着は、その「クールなプロジェクト」の何処から生まれるのか。

どうしてもそこで、落語「道具屋」や寅さんの「売」を思い起こしてしまうのは私だけだろうか?

有名な落語の売れない道具屋は、お客さんが値を尋ねるとここぞとばかり一日の儲けとしてそこで現在の自己負債の全決済を果してしまおうと計算を始める。それどころか今後の身の振り方までがあれやこれやと考慮される。つまり、その商い自体に、道具屋の現在までの更にこの先の人生の総てが集約される事になるのである。

テキヤの寅さんの場合は、更に江戸っ子振りが徹底していて、宵越しの銭は持たない信条がある。そうなるとその日を面白おかしく生活することがなによりも尊重される。天気の悪い日には売り上げが上がらないことなどを先にたって心配する必要などはないのである。

ダーレンドルフの主張は決してそうした楽天的なものではないだろうが、リベラリズムとはヒューマニティーに根ざしたものである事は間違いない。そうなれば、必ずしも環境政党と自由主義政党がお互いに受け入れられない理由はないように思われる。



参照:
ラルフ・ダーレンドルフの死 2009-06-21 | 歴史・時事
自然環境に内包される社会 2009-06-16 | アウトドーア・環境
自治と欧州の狭間の緑 2009-06-09 | アウトドーア・環境
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表情豊かな肉屋の売り子

2009-06-22 | 
「肉屋の売り子は性的魅力がある女の子が多い」とどこかに書いたことがある。それは兎も角、ある種の共通性があるのは間違いない。お互いに気になっている表情の豊かな売り子がいる。

先日は中華料理屋の調理人とそのオーナーらしき水商売風の婆さんがそこで鶉卵を二百個も注文していた。そのお気に入りの彼女が対応していたのだが、どう見てもその婆さんの対応が難しい。此方は列を作って待っているのだが、時間が掛かるのは全く構わない。しかし、その対応が今一つ釈然としないのである。

その売り子は、それでもきちっと懇切に対応をしているのを観察していた。そしてこちらの順番が来たのだが、まだ思考が混乱しているのか、なぜか私への対応がおかしい。なるほど暫らく列を作っていたりしたので遠慮していたのだが、そこまで冷たくあしらわれる必要はないだろうという按配だ。なにか見せたくないものを見られたと言うバツの悪い感じを示していた。それともついついうつむいた胸元に目線を走らせた私が悪かったのか?

昨日また前の客などへの仕事振りを観察していると、厭に同僚やらに声をかけたりととても楽しく活発そうで驚いた。まるで今晩辺りランデヴーでもあるかのようだ。私の番になってからも、腹肉をごっそりと切るそぶりを見せ。

「これぐらい?」と惚けるのである。

「いや、そんなに切られると、こっちが腹肉を作らなきゃいけないよ、腹肉には腹肉」と答える。

感情の起伏が大きいのか表情の大変豊かな女性なのだが、肉売り場の売り子にありがちな肉感的な嫌味がないのである。いつまでその職場に居るか判らないが、もうすこしウォッチングを続けたい娘である。
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ラルフ・ダーレンドルフの死

2009-06-21 | 歴史・時事
有名な自由主義の知識人ダーレンドルフ卿が死去した。多くの有名人が弔意を示している。

先ずは自ら先日八十歳の誕生日を祝ったばかりのユルゲン・ハーバーマスは、オックスフォードの故人の誕生日記念講演会で隣り合わせた時に、すでに話すのが大変そうだったと回想する。それでも「個人の自由」、「社会人の自由」、「国民の自由」が喉から絞り出すように情熱的に繰り出されていた事をして、思惟が如何に故人にとって大切であったかを説いている。物事をこれ以上解かった、先の見えた人は居なかったと人々は故人の事を思い出すだろうとしている。



参照:
ダーレンドルフ死去 (a diary of sociology)
自由主義者の戦後社会学 2009-05-05 | 文学・思想
希望という自己選択の自由 2009-06-19 | 文化一般
自然環境に内包される社会 2009-06-16 | アウトドーア・環境
受け継がれるモラール 2008-07-23 | 文学・思想
近代物理教の使徒の死 2007-05-02 | 文化一般
68年への総括の道程 2008-02-20 | 歴史・時事
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週三回の熱い危険な誘惑

2009-06-20 | アウトドーア・環境
この地方だけ殆ど降らなかった。お蔭で二時間ほど湿気はあったが涼しい中をクライミングを楽しめた。珍しく我々だけ二組四人しか居なかったのだが、数は登れなかった。あまりに難しい課題を攻められると此方は見ているしかない。

八級はそれほど傾斜もなく僅かながらの引っかかりもあり、フリクション登攀を散々やって来た私にはそれほど難しく見えないが、とてもバランスが取れそうにない。

最大の成果は、水曜日に試して見ようかと思って、「あんたにはチャンスはない」と門前ならぬ岩前で撥ねられた所を登れたことであろう。なぜか、奴が挑発的なところをみると、ライヴァル意識があるとしか思えないのである。上背もある大男であり、現在の時点では公平に見て大分実力が違うのだが、何としても此方の頭を押さえつけようとするのがとても面白い。

此方は奴さんがいないところでこうしてトレーニングしているのである。此方は奴の首根っ子を押さえるときを楽しみにしているのだ。

流石に色々な人を見ているので、その人の伸びしろは良く分かる。今日もいた今年一番体が出来ている男は経験が比較的短い割にはなかなか技術を身に付けて来ている。但し、見ているとまだ我武者羅にせめている感じが強くて、有り余る体力をコントロールする域に達していない。一番滑落の怪我から臨時休暇に入る可能性が高いように思われる。

先週は金曜日を休んだので腕の筋の調子がよくなった。そう言うとやはり週三回通って、先週パリのフォンテヌブローから帰ってきた者は、この辺りで休みを入れると語っていた。

さて、来週はもしかすると三回行くかもしれない。週三回通うようになると力はぐんとつくようだ。その前に体を壊さなかったらではあるが。

しかし今年のシーズンも残り三か月ちょっとしかない。どのレヴェルにまで至るかそろそろ今年の限界が見えて来そうである。
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希望という自己選択の自由

2009-06-19 | 文化一般
日曜日に、車中のラジオで聴いた内容である。新旧の恐らく旧教であったと思うが聖職者が語っていたのは富みについてであった。米国では僅かばかりの持つ者が合衆国の半分の個人資産を所有しているというが、ドイツ連邦共和国においては一割の富裕層が三分の二の個人資産を独占しているらしい。

物欲や金銭欲が決して満たされないのは繰り返すまでもないことである。しかし、持つ者と持たない者の差は、その自由になる時間が異なるというのは尤もである。

持たない者は生活のために余分な時間が与えられなくて、時間を自由に使うことが許されない。事実はこれに尽きるだろう。聖職者が語るように、もしかすると不老長寿も金で買えるかもしれないというのは何とも言えないが。

自由な時間は、自らの教育などのために使えると言うのである。些か啓蒙思想的にも聞こえるが、労働運動が持たない者達のためにヴァカンスという時間を与えたのだが、一体そうしたエンターテイメントなどに費やされるそれは本当に自由な時間であったのかどうかは議論の別れるところであろう。

エンターティメントやレジャーと呼ばれる、余暇による労働効率や経済効果を当てにした時間を過ごすか、はたまた高尚な時間を過ごせるかの選択がある事はやはり究極の自由に他ならない。選択の余地があるのとないのとでは大きな違いである。

先日から少しづつ触れている癌闘病記においても、不治の病に侵されて残り時間が少なくなり、尚且つ選択肢は限られているのだ。それでもクリストフ・シュリンゲンジーフは、自己選択の自由を主張したかったのである。

それでも皮相的に批判させて貰えば、その神の概念は一神教的なものに根ざされており仏教やその他の多神教の世界を十分にものにしている様子がない。そうなるとバイロイトのパルシファル演出での世界宗教行進の場の「おかしさ」が解明されるだろう。

しかし、残された時間の限られた者はアフリカで活動しようが何をしようが新しいものを得る事はなく、滑落する登山者の如く短い時間にタイムスリップしたような走馬灯を観るだけの事なのであろう。

本日車中のラジオで非知識人の知識人批判が知識人によってハーバーマスを例に挙げて議論されていた。なんらかの外界からの情報の蓄積のなかで新たな情報が関知され考えたり感じたりするのみで、思考とはそれ以上のものでも以下でもない。

その後のニュースで、PISAの成績は意外にも家庭の社会層に依存せずに文化的背景に依存するという結果が発表されたらしい。死の床のホスピスとかいう以上の文化を芸術をそこに求めるという主張がなんとなく理解が出来そうである。
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輸送業における海外市場

2009-06-18 | 雑感
東京でDHLの車を撮影したことがある。DHLは民営化されたドイツェポストの貨物部門である。つまり同じ意匠の車を東京駅前で見かけたので撮影したのだった。

今回は、地元で日通の車を撮影した。何度か高速道路で恐らくベースからベースへの輸送をするトラックは見かけたことがある。

実際は下請けの業者が依頼を受けて輸送を行なう場合も少なくないようであり、配車やコンテナの割り当てなどの業務が多いように思える。マンハイムならば日立の子会社がこれを使っているのだろうか、訊ねた事はない。

DHLは、フェデラルエクスプレスやユナイテッドパーセルに対抗して、本格的な進出をした合衆国を撤退して損失を出していたが、なるほど海外の新市場での競合はなかなか容易ではないであろう。

配送の運送屋にしてもサーヴィスを重視して来ているのはそうした市場の競争が厳しくなって来ているゆえであろう。
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遠い一人前の猟師への道

2009-06-17 | アウトドーア・環境
パンを取りに行くついでに森を歩いたときである。道の真ん中に馴染みのあるような糞を見つけた。丁度、上に種が乗っているような糞である。

もっと馴染みがあるのはのそれであるが、それはあまり見かけない。やはり猪は町に近いところに出てくる性質があるのだろう。

先日の山の月例会の散会後、次ぎの踏み切りで立ち往生してしまった。後ろからは先別れたばかりの仲間の車が連なる。

二分経ち、五分経つと流石に気の長いこの私でも、車から降りて線路の音を探ろうとする。一向に列車はやって来ない。更に五分ぐらいして、信号機が壊れている事に気が付いた。

もと来た道を戻り高架を潜って戻る事にした。後ろに止まっていた仲間が、僅かの場所を見つけてユーターンして先に走り出した。そして暫らくするとその車は親子の猪に囲まれていた。親猪が体当たりして、後ろのバンパーが壊れた。

そんな事を思い出していると、繁みの中へ飛び込む角が見えた。鹿であった。バンビのように小柄であったが、あの角は鹿のようだった。

新しい糞を発見して、相手よりも先にその辺りの様子に気を配れないようでは、まだまだ一人前の猟師には生れぬ。



参照:
自然環境に内包される社会 2009-06-16 | アウトドーア・環境
6月15日 9年ぶりに再訪 (NEXT DREAM 記憶と記録)
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