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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2006年03月

2006-03-31 | Weblog-Index



部分日蝕に思い出す [ 生活・暦 ] / 2006-03-30 TB0, COM3
駅前開発情景俯瞰  [ アウトドーア・環境 ] / 2006-03-29 TB0, COM0
ガラスで栓をしたワイン [ ワイン ] / 2006-03-28 TB0, COM0
サラマンダーに遭遇 [ 数学・自然科学 ] / 2006-03-27 TB0, COM2
噴水の鴨に弄ばれる [ 文化一般 ] / 2006-03-26 TB0, COM2
国境での酔態万華鏡 [ 生活・暦 ] / 2006-03-25 TB0, COM4
山間の間道の道端で [ 生活・暦 ] / 2006-03-24 TB0, COM0
即物的な解釈の表現 [ 文化一般 ] / 2006-03-23 TB2, COM6
谷間の町の閉塞感 [ 歴史・時事 ] / 2006-03-22 TB0, COM0
時間差無しに比較する [ 音 ] / 2006-03-21 TB0, COM0
哲学教授と為らず聖人に [ 女 ] / 2006-03-18 TB0, COM0
蝕まれたカメラの伝統 [ 雑感 ] / 2006-03-17 TB1, COM6
短所は短所として [ ワイン ] / 2006-03-16 TB0, COM0
時間的連続と空間的連続 [ BLOG研究 ] / 2006-03-15 TB0, COM4
仰ぐよりも見下ろす視点 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-03-14 TB0, COM0
高みから深淵を覗き込む [ 文学・思想 ] / 2006-03-13 TB0, COM6
皇帝怒り心頭無道曲 [ 雑感 ] / 2006-03-12 TB0, COM4
印象の批判と表現の欠如 [ 文学・思想 ] / 2006-03-11 TB0, COM0
贋物に画かれた本物 [ 女 ] / 2006-03-10 TB0, COM0
ダッハラヴィーネ [ 生活・暦 ] / 2006-03-09 TB1, COM5
メールを待ちながら [ 文学・思想 ] / 2006-03-08 TB0, COM0
慣れた無意識の運動 [ 雑感 ] / 2006-03-07 TB0, COM0
昔の名前、今の名前 [ 雑感 ] / 2006-03-06 TB0, COM2
客観的洗練は認識から [ 雑感 ] / 2006-03-05 TB0, COM2
湧き騰がる香りと血潮 [ その他アルコール ] / 2006-03-04 TB0, COM11
破局へと葬られるもの [ 歴史・時事 ] / 2006-03-03 TB0, COM0
六十六歳、人生の始まり [ 生活・暦 ] / 2006-03-02 TB0, COM0
灰の水曜日を前にして [ 歴史・時事 ] / 2006-03-01 TB1, COM3
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部分日蝕に思い出す

2006-03-30 | 生活
トルコ辺りは皆既日蝕だったらしい。お昼前から二時間以上曇天の空が暗くなったような気がする。その後、日が出て来て明るくなったから余計に気が付いた。鳥の鳴き声が変わるのが、なによりもの証拠であろうか。人間は、天候もあり、その変化にはあまり気が付かなかった。

1999年8月11日の日蝕の事を思い出した。あの時は、皆既日蝕の帯の中だったので、その時刻には観測地点へと移動した。選んだのは、皆既日蝕の少しでも長い、天気予報の有利なフランスとの国境であったと思う。実際は、天候も曇り勝ちで、狙っていた帯のど真ん中のアルザスの大地を見渡す高台には登れずに、道路上でその時を迎えた。予定と大幅に狂ったのは、大交通渋滞による遅滞である。まさか平日のお昼過ぎにこれほどの移動があるとは想像していなかった。ワイン畑の方々には、望遠鏡やカメラや椅子などが置かれ、テントがそこ彼処に張られていた。この経験から学んだのは、原発事故などの災害時には車は殆んど使えないと言う事であった。

その時の記録はどこかにあるかも知れぬが、温度の急激な低下以外には動物達の変化が最も気付いた点で、鳥の鳴き声は特に顕著であったような気がする。今回の部分日蝕もその点は同様であった。日蝕の記録は、至る所に見出せるが、西洋で最も有名な日蝕は「キリスト復活への十字架」の時であろうか。
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駅前開発情景俯瞰

2006-03-29 | アウトドーア・環境
マンハイムの中央駅が目前に見えている。会計・弁護士事務所で人待ちをしていると面白い。事務員達が保険会社に電話をして、裁判費用の計算書が受け入れられたことを確認している。ホットしたりするのは当事者だけではないようだ。また、仕事先のご主人を呼び出して「離婚をするのか」と確認したり、間違いであったりと、悲喜こもごもに満ち溢れている。

どうも所長自体もそうであるが、事務員や秘書もこういった事が芯から好きなようだ。傍から見ていると、「他人事まで態々と」と思って仕舞う。自らも様々な問題を抱えているだろうに。その際たるものが医療に関わる人間で、自らが健康であるから勤まる。医者の不養生などの例も多い。

駅舎改造に伴って、数年前に地下駐車場や駅構内などは完備した。現在、町中へのアクセスの比較的新しい地下道が塞がれている。勿論、道を横断するだけの地下道ならば横断歩道の方が断然便利である。歩行者優先の街作りにでもするのだろうか。自動車優先の市街地は商業的に栄えないであろう。ライン河向こうのルートヴィヒスハーフェンも、化学工業の産業構造変化に伴って、商業的に壊滅状態と言う。こちらの方も早めに都市開発計画しないと高齢化時代の経済は成り立たない。
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ガラスで栓をしたワイン

2006-03-28 | ワイン
初めてのガラスキャップを購入した。一昨年度当たりから、長期間の保存を考えないワインの入った瓶を、コルクでなくガラスで封印した商品が増えて来た。勿論これは新しい試みで、製品に違う価値と商品魅力を与えるものである。

良質コルクの入手困難は、そのまま自然環境保護にも結びついている。つまり簡単な単純なワインを天然素材のコルクを使って封する事はあまり勧められない。所謂、リッター瓶とかテーブルワインは螺旋状の栓をすれば充分である。それでも瓶の価格やイメージの問題もあり、コルク栓はそれら廉価なワインにも比較的好んで使われる。

そこで出て来たのがこのガラスのキャップである。一個当たりの価格は、まだ普及品のコルクよりは高価だが、数が出れば何れこちらの方が廉くなって普及して行くであろう。そうなれば、コルクは良質のコルクに市場の重点が移り、今後とも高級ワインには良質のコルクが安定供給される結果となるであろう。

コルクで無いのでコルク抜きは要らない。指先で開ける事が出来る。真空で閉まっているので温度が上がれば栓が抜ける可能性もある。海外向きの夏の輸送には不安である。

つまり、三年以上保存するような高級ワインにはガラスのキャップは使えないが、適当なワインにこれ使う事で、ワイン業界に良い影響を与えるであろう。
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サラマンダーに遭遇

2006-03-27 | 数学・自然科学
本日、森を歩いていてサラマンダーを見つけた。脊椎動物の両生類で、これに初めて遭遇。イモリの仲間である。日本のオオサンショウウオが棲息しているのは、子供の頃釣り上げて知っているのだが、欧州でサラマンダーを見るのは初めてである。10人ほどの同行者も初めての様である。30メートルほど離れて同様の二匹目のサラマンダーを発見。詳しくは、調べて見なければいけない。

両生類と言う事で、鱗の無い皮膚は湿って呼吸しているらしい。森の湿った場所に生息する。何よりも有名なのは、ハリー・ポッターでも登場するらしいが、往々にしてマントルピースに籠めた薪から飛び出してくる事から、火との繋がりの神話のようだ。

「全ての物は毒である。毒のない物はない。あるのは適量である。」の名言で有名な毒物学の祖で錬金術のパラセルススは、この「サラマンダーを火の要素」と呼んだ。

昔これの皮で作った不燃の外套を中国で見つけたとあるが、実際は石綿の織物だった様である。因みにドイツでは靴屋の登録商標として有名。
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噴水の鴨に弄ばれる

2006-03-26 | 文化一般
バーゼルの町中の刑務所の下で食事をした。楽器博物館・音楽学校の坂之下である。古楽のサヴァール等の数え切れない芸術家が学んだ音楽学校である。そのような東京で言えば山の上ホテルの位置に刑務所がある。それ以上にこの下の広場は、チンチン電車トラムのターミナルがあり、賑やかで町の中心地でもある。昔は女子の受刑者が、下を通る男達を上から鉄格子越しに冷やかしたと言う。

その一角にコンサートホール「カジノ」があり、そこで催されるブッシュ、プロ・アルテ、カペー、ブタペスト、コーリッシュ、ゼルキン、カザルスなどが登場した世界でも指折りの室内楽シリーズは今でもこの町の重要な音楽文化を担う。その斜め向い側が劇場である。そこの広場にあるのが、有名な噴水「カーニヴァル噴水」で、これをヴィデオ撮影した。

この噴水は一度見ると忘れられない。仕掛けがしてあって、そのメカニックなユーモアに富んだ動きが水力で駆動させていると解らせて、更に遥かな想像を膨らませる。機械文明の寓意を含んでいるようで、水力が落差から生まれていたらなどと、環境を考えさせる面白さもある。

作者は、スイスのフランス語地域フリブール出身の彫刻家ジャン・ティンゲリで同様なメカニックな像は何箇所かに存在する。しかし2002年の5月26日付けのニューヨークタイムズも、「ファンならばバーセルへ行け」とアドヴァイスしている。奥さんのニキ・ド・サンファルとの共作として、ポンピドー広場の「ストラヴィンスキーの噴水」も有名である。フランクフルトに続いてバーゼルにもあるヨゼフ・ボロフスキーの動く「働く巨大な男のシルエット」とは多いに異なる。

ヴィデオを取り出したら噴水の淵を歩き回る子供に何度も邪魔されるが、最後には鴨に弄ばれる。



参照:
時間差無しに比較する [ 音 ] / 2006-03-21
逸脱して変性した芸術 [ 文化一般 ] / 2006-05-02
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国境での酔態万華鏡

2006-03-25 | 生活
スイスの高級リゾート地は、ありとあらゆるEU各国からの出稼ぎ労働者で賑わう。部屋に戻る前に寝酒代わりに地下のレストランバーへと降りて行った。バーとしては、雰囲気も品揃いも物足りなかったがスプリッツ類の最上段にエンツィアンがあるではないか。先日「エンツィァン宣言」をしたので迷わずこれを注文すると、バーテンダーが助けを求める。カウンターの端で飲んでいたオーストリア訛りの若いお兄さんがカウンターの中へ入って、冷蔵庫を探し出す。一度は無いと言うのを、ここにあるではないかと引き下がらず、ごたごたを楽しく観察する事にした。結局、冷蔵庫の奥から出してきた冷え切ったエンツィアンは、ダヴォース製で見覚えがあった。これを引っかけたのが夜11時頃。

それから、地元の生薬シュナップス・ヴュンドナー・クロイターへと繋ぎ、カウンターのバーテンダーの名札を読んでセルヴィア出身と言う事から、プラムブランディーをご馳走になる。先日飲んだ中央スイスの飲み物を教授して、ビールなどを挟む。日本酒「源氏」を見つけ、暖め方を教えてあげるといって、またご馳走になる。湯沸しの上に置いてあったので年がら年中 人 肌 にお燗してある。

カウンターの隅で歓談をしている五人ほどの従業員は、オーストリアのシュタイナーマルクトからの出稼ぎ者と聞いて、「ユーロになってもそれでもスイスフランは良いかな」と口走る。問う必要などは無い。飲食店関係特有の条件があるのだ。大抵のEU諸国では、スイスのホテル・レストラン等での職歴は優遇される。コックであろうが、ウェイターであろうが、バーテンダーであろうが、レセプション等であろうが変わらない。その上、景気に影響されやすいEU諸国でよりも、観光王国スイスでの方が求人は多いのは当然である。つまり、EU諸国へと入る東欧諸国の出稼ぎ労働者と、スイスでの飲食関連のEU諸国からの出稼ぎ者の意味はあまり変わらない。

そうこうして飲んでいるうちに、レストランも空いて来て、こまごまと働いていたブロンド女性が気になり出す。そしてこの酔っ払いは、彼女に出身地などを尋ねる。ブランデンブルク州のフランクフルトに近い田舎の出身であった。1986年のベルリンの思い出を語ると、1987年の生まれと教えてくれた。19歳の彼女は、「何時までも東ドイツ人は外国人なんだわ。」と言う。確かに、尋ねるまでのこと無く地元では飲食業の充分な職場がないのだろう。特に彼女のような、口数で手を疎かにする事の無いような、堅実そうな性格の娘さんならば尚更であろう。

店の主人は、イタリア人の出稼ぎ労働者の子供として生まれ、ドイツのヴォッフムで小学校に通い、その後イタリアで教育を受けて、ここスイスのホテルで店を商う。その親仁とブロンドの彼女と三人だけになったかと思うと既に夜中の二時に為ろうとしていた。明日も付き合って貰う事を約束して、眠りへとついた。

明くる朝は、めったにない快晴で、めったにない二日酔いの頭痛に悩まされる。朝食を詰め込んで、三千メートル近い高所へと一気にロープウェーで登る。息途切れ途切れにスキーを走らせる。千メートル程を一気に降りようとすると、体の中の空気が抑えつけられるのか、中間ほどで急に吐き気を催す。口中はエンツィアンの 悪 臭 に満たされる。アセトアルデヒドのお陰で胃も過剰反応を起こしているのだろうか、これは美味くない。仁丹を飲み過ぎて、ジンを飲んで吐き気がしたと言えば良いだろうか。戻しそうなのを何とか、心と体を誤魔化して、谷間へと降りる。そして再びロープウェーに乗り、支柱毎の揺れ戻しと満員の人息れに冷や汗を流す。それでも何とか発散して、昼食前には調子は戻っていた。過剰反応に対する症状には向い酒も良いらしいが、今でも思い出すだけで胃がムカムカする様な状態では飲む気はしない。昼食をテラスで楽しみ、些か混乱の中にも、充分に上り下りを繰り返す。

さてアプレスキーである。シャワーを浴びた後、夕食前に本格的に向い酒を試す。昨晩も楽しんだ、峠向こうで出来たイタリアワインである。ヴァルテリナと言う。アッダ川とサンドリオ周辺の小さな産地らしい。ローマ時代から注目されていたと書物にはある。先ず白ワインは、シャドネー種らしいがスイスのファンダンにも近い感じで冷やしてクイッと飲める。ミネラル風味が足りないのが残念。食卓についてからの赤は、ネビオロ種でピエモント地方に次いで名産らしい。色も薄く、細身だがキャンティー感覚で飲める。前日に比べて味がおかしいので、コルクを示させたらやはり酷く腐っていた。取り替えさせて、今度は慎重に三分の一ほどを皆で試す。そして厳かに許可を与える。一目瞭然な不良コルクの瓶を ブ ラ イ ン ド で試さすのはワイン愛好家には侮辱であるが、それ以上にプロフェッショナルとしてコルクさえ確認しなかった給仕人の恥でもある。

食後も充分に飲んでから、さて再びいそいそと昨夜のバーへと向う。昨夜の酔態を少々気まずいと思いながらも、その夜は日曜日と言うことを完全に忘れていた。ホテルに鍵は掛けられて、夜11時には全ては静まり返っていたのである。こうしてイタリア国境サン・モリッツでの最後の夜は万事休すとなる。
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山間の間道の道端で

2006-03-24 | 生活
クロスタースへは、エンガディーンのツェルネッツから1999年の11月19日に完成したトンネルを通って辿り着いた。列車に車を乗せるシステムで15分ほどの走行時間である。乗用車は、35スイスフランである。サンモリッツからツェルネッツまでの谷道は細いので、雪が多いと時間が掛かりそうである。

クロスタースへは、新道のトンネルを走ればランドクヴァートの高速から一気に走れる。会議に出席のVIP警護にも支障はない。谷が丁度折れ曲がったクロスタースからダヴォースへは、スキー場の斜面を回り込むようにして一尾根越えれば良い。

つまりクロスタースは、ダヴォースよりも400メートルほど高度が低くその分同じところからスキーで滑って降りてくると、同じ料金で余分に楽しめる。町も通常の谷のであり、遥かに美しい。ダヴォースに宿泊する事無く、その先かクロスタースで宿泊するのを好むのはこのような理由からである。

この町を一望出来る街外れからダヴォース方面を写そうと車を停めた。丁度画家キルヒナーが足を止めた場所のようだ。年の頃は70近いご婦人が、近くの家から出てくると、停めてある自分の車のトランクの上にハンドバックを乗せて中味を探し出した。気に掛けずにいると、「ワンダフル・スカイ」とか言って話し掛けてきた。それから十分以上なんだかんだと喋っていると、家の窓の上から覗いていたボーイフレンドらしき爺さんもバイバイを諦めて、何時の間にか窓を閉めて何処かへ行って仕舞った。

気候の事やら、隣町の事やら、トンネルの事やらを話すと、兵役に行っている孫の事まで聞かされる。春日和の長閑な谷間の間道の通る高台で、足元から谷向こうへと広がる村落を、こうしてヴァリス風の伝統的な家屋を臨みながら世間話をしていると、なんだか隣町の喧騒が嘘の様である。世界の経済を左右する経済賢人者会議の参加者達こそ、グローバリズム反対者のデモンストレーションを避けて、こういった時の流れを味わって見るべきなのである。少なくとも自らが年金生活に入る前に、こういった生活感を、世界のパワーエリートの指導者達は学ばなければいけない。


参照:
即物的な解釈の表現 [ 文化一般 ] / 2006-03-23
谷間の町の閉塞感 [ 歴史・時事 ] / 2006-03-22
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即物的な解釈の表現

2006-03-23 | 文化一般
エルンスト・ルートヴィック・キルヒナーのダヴォースでの作品を続けて見てみよう。そこでは1919年の作品群である1920年代までの主観的な印象を集約させた表現主義とは異なる表現が、その後の1925年の作品「冬のダヴォース」のような作品群に見る事が出来るだろうか。特に後年のオスカー・ココシュカの作品を思い出させるような不自然な色使いや取り巻く環境への視点が面白い。

1919年の7月に画家は書き込んでいる。「頭を空っぽにして画き込んで、そして没頭して画き込むと言う二つの制作過程がある」。印象の表現から即物的な解釈の表現への移行は、一般的に山奥の生活での精神の安定と捉えられる事が多いようだ。

ここで注目して良いのは、第一次世界大戦後から1920年代、そして1930年代にかけての思潮の変遷であって、文学・建築・芸術などにも如実に固定されている。嘗てベルリンを画いた芸術家が、山間の町ダヴォースで見たものは、已むを得ず よ り 距離を置いて見た世界観でなかったのだろうか?

画家より九歳若く、ここダヴォースのサナトリウムで育った映画監督ファンク博士の作品を思い出すと、その集中した即物的な表現は必ずやある冷めた別の視点からの観察に曝されている。それは、映画の協力者であった画家より15歳下のマイン河畔の同郷者ヒンデミットの音楽にも特徴的に現れており、デフォルメした 非 現 実 的 で即物的な表現は、同時に乾いたユーモアによって影の様に絶えず付き纏われている。

先日記した1929年のダヴォースの町での20世紀哲学の分岐路と呼ばれる会談とキルヒナーの初期の1919年のダヴォースでの印象を強調した風景作品が、「魔の山」の1924年出版やファンク博士の山岳映画自主制作を期間的に挟んでいる。それはそのまま1920年代の出来事である。

ダヴォースでの1925年の作品「教会のある夏のダヴォース」の世界観は、プロテスタント教会の天を貫く鋭塔を中心として整然と纏められた町並みと右上にある少数派のマリエンカトリック教会は各々異なる色彩を持った背景を以って画かれている。

キルヒナーの山岳風景画は、どうも誤解されているようだ。本人が写した白黒風景写真も多い。しかし実際に何処かで風景絵画を鑑賞した事があっても、こうしてみるとその多くを見逃して仕舞っていたのではないかと思う。奥行きの喪失や非現実的な不思議な光景は、ダヴォースの折れ曲がった谷の風景そのものであり、生きた閉じられた風景でもある。

画家本人は、ダヴォースの喧騒を避けて暮らしているにも関わらず、名作の多くは谷の下から自己の住居方面を望む観察点へと態々移動して、谷の風景をお気に入りのダヴォースのマッターホルンことティンツェンホルン背景に町を含めて映し込んでいる。(谷間の町の閉塞感 [ 歴史・時事 ] / 2006-03-22 より続く)


写真は、クロスタースからダヴォース方面を眺めている。これはキルヒナーの「クロスタースの山々」に相当する。



参照:
81年後の初演(ベルリン、2004年12月9日)[ 音 ] / 2005-01-15
オペラの小恥ずかしさ [ 音 ] / 2005-12-09
非日常の実用音楽 [ 音 ] / 2005-12-10
目的に適ったマニュアル [ 文化一般 ] / 2005-12-04
150年前の近代的キッチン [ 歴史・時事 ] / 2005-05-11
駒落としから3D映像へ [ 雑感 ] / 2005-10-19
北の地で血を吸った大斧 [ 文化一般 ] / 2005-10-27
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谷間の町の閉塞感

2006-03-22 | 歴史・時事
ダヴォースは、北方ヨーロッパ文化圏に属する。降雪日数は多く、積雪も多い。トーマス・マンの小説「魔の山」の舞台として、また画家キルヒナーの最後の場所としても有名である。二十世紀の初めには40件ほどのサナトリウムが存在して、結核患者の生活があった。現在は僅か4件がこの近郊に残っている。

1943年に初めて投与されたストレプトマイシンを代表とする抗生物質投与や1920年代からのBCGワクチンの摂取の恩恵に与って、サナトリウムの需要は減少して、多くの施設があった所はホテルとなっている。それらの観光施設は、経済フォールムなどの世界会議に使われている。その嘗ての建造物の殆んどは、例外的に小説の舞台となったヴァルト・ザナトリウムのような撮影や客寄せのための再現を除いては、結核菌を避けて綺麗に取り壊されている。

特にドイツ帝国は大きな国営施設を持って、公共保健施設として多くのドイツ人をここへと送り込んだ。現在でも2004年に最後に整理された施設の後も、喘息やアレルギーや皮膚病の医療・保養施設がベルリン監視の下運営されている。ご多分に漏れず保険財政削減の為、経済性を重視してオランダの施設もそこへと合弁されている。

当時、不治の病の結核患者が老いも若きも集まり生活していた事を考えれば、主人公の若いハンス・カストロプの物語の状況は、容易に想像出来る。言語的にも、その客層からしても大変ドイツ化した世界であったのだろう。英国人コナン・ドイルが初期の滞在者であったにも拘らず、その大分後はナチの外国に於ける中心地となって行く状況も、その独特のツーリズム発展の歴史から理解出来る。

何れにせよ、現在は最も開けた騒がしい山間の町で、そのスキー場の素晴らしさと引き換えに、町自体は保養出来るような環境では殆んど無い。それでも一旦天候が崩れると鬱陶しく、閉塞感のある谷間の町へと変化するのである。高所のリゾート地の割に、些か気が重い。

「おお、一体これはなんと言う、光の、奥深い(深遠な)天上の純正の、日に照らされる水の清清しさの浄福なんだ!」

トーマス・マンは、それをこういう風に綴った。抜け切らない青空を見るから、立体感を持って奥行きが生まれる。本当の深淵へと繋がる抜けるような青空では無い。この小説が書かれて出版されたのは、1924年の事である。

エルンスト・ルートヴィック・キルヒナーは、1918年に鬱病の療養の為にここへやって来て1938年に自らの心臓に発砲して自害している。1936年には、ナチスによる退廃芸術に指定されて、600枚以上の作品が放棄されている。画家が住んだのは何れも町より谷奥のスタッフェルアルプやフラウエンキルヒと言うようなアルムである。しかし、町自体は既にツーリズム開発が盛んで、屋根の平らな建築家ルドルフ・ガバレルを代表とするモダーンな建築群は、格好の描写対象となっている。それらは素材として、山肌に誂えられた雪崩止めの柵等と組み合わせられている。(即物的な解釈の表現 [ 文化一般 ] / 2006-03-23 へと続く)


写真は、湖の対岸から見たダヴォースの町外れのドイツ療養医療施設。



参照:
死んだマンと近代文明 [ 文学・思想 ] / 2005-08-14
吐き気を催させる教養と常識 [ 文化一般 ] / 2005-08-18
トンカツの色の明暗 [文化一般] / 2005-07-11
高みからの眺望 [ 文学・思想 ] / 2005-03-09
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時間差無しに比較する

2006-03-21 | 
サンモリッツの朝焼けである。これからダヴォースを向かおうと思う。数年前に初めて列車トンネルが開通した。ここエンガディーンの谷からダヴォースへの「冬の旅」は、嘗ては不可能であった。夏以外は峠越しが出来ないからである。快晴続きの春日和ではあるが、ここエンガディーンの谷間は未だに零下の日々が続いている。本日は温かくて、摂氏マイナス8度である。

一昨日、バーゼル経由でここ谷間の高級リゾートポンテルジーナに辿り着いた。車を走らせていても、太陽が眩しく、エアコンの設定温度を低めに設定しないと厚手のセーターでは汗ばむ。土曜日の高速道路は、スキーを積んで春スキーを楽しもうとする車も多く、混雑をさえ予想させた。

スイスのドイツ語レトロマン語の文化波DRS2局が、カール・ニールセンの交響曲「不滅」の聞き比べを流していた。そのタイトルのお蔭か比較的知られている曲であるが、北欧文化に興味を持っている人ぐらいでないと馴染みが薄い。だからこの様な企画での選曲としては面白いと思った。所謂通俗名曲の聴き比べよりも遥かに価値がある。特に部分を選んでの聞き比べは、それぞれの解釈から作曲の個性が見えてくるので、回数を重ねて研究目的で聴いたぐらいに、この交響曲の現在に於ける評価や演奏史の片鱗が解る。ゲスト二人の推薦盤を紹介しながらプロデューサーの司会で、聞き比べと講評を以って番組が進行する。

前半は聞けなかったが、ベルグルント指揮デンマーク王立管弦楽団、ブロムシュテット指揮サンフランシスコ交響楽団、イェルヴィ指揮イエーテボリ交響楽団、ロジェストヴィンスキー指揮ストックホルム交響楽団、シェーンヴァント指揮デンマーク放送交響楽団の演奏が比較された。参考にフォン・カラヤン指揮の録音にも触れられていたが、シェーンヴァント指揮の演奏に軍配が上がった。舞台の後ろと前に置かれたティンパニーの打ち合いも、第一次世界大戦後の消沈の時期にモラルの不滅を謳った曲として、力尽くだけでは表現出来ない妙を示していた。

実は番組の内容よりも、バーゼルで開催中のスイス全国会議に出席中、昼食時間を利用して時間を割いて貰い久しぶりに出会った、先ほど別ればかりの友人の言葉使いを番組のゲストの話し振りに見つけて興味を持った。聞いているとなるほどそのご本人であった。無饗室のマイクに載るとどうしても低い音域が強調されてしまうので、先ほどまで聞いていた声とは違うように聞こえたのである。ラジオは録音とは言え、こうした時間差の無い聴き比べを偶然に出来るのは珍しい。流石に会議中の本人に嬉しそうな電話は出来なかったが、「時間差無しの聴き比べ」を後ほどメールで本人にコメントしよう。

さて、エンガディーンの谷からトンネルを抜けてダヴォースにやってくると、そこは真っ白の雪が光輝く春である。サンルーフを開けて走ろうが、氷の上を歩こうが世界が眩しくて、日差しが暑い。温度計は、摂氏7度を指していて汗ばむ。更に高所で山一つ南国であるエンガディーンよりも、雪は遥かに多く、空気も大分重たい。



参照:
飛び地に生きるロマンシュ語 [ 生活・暦 ] / 2005-03-13
高みからの眺望 [ 文学・思想 ] / 2005-03-09
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哲学教授と為らず聖人に

2006-03-18 | 
エディット・シュタインのことが気になった。ブレスラウ出身のユダヤ人でカトリックの聖人である。1998年にヨハネ・パウロ二世によって列聖された。

彼女と同じくフッセールの弟子、ヘドヴィック・コンラード・マティウスが住む南プファルツのバッド・ベルクツァウベルンにシュタインは、数週間滞在している。そこで聖アヴィラのテレサの伝記を一晩掛けて読み終え、「神の道に目覚めた」とヴァチカンのサイトに記されている。その後、このプロテスタントのご主人との結婚のために改宗したヘドヴィックを立てて、スパイヤーの主教の自宅の礼拝堂で浸水の儀式を行っている。1921年の夏から1922年の一月にかけての事である。こうして、子供の頃よりユダヤ教の世界に束縛されていた女性は、解放されて、故郷の母親の元へ帰るや否や「わたしはカトリック教徒よ」と宣言している。

実際、シュタインはカルメル会修道女になろうとして、スパイヤーのバプティスト達に反対されていた様である。その後もスパイヤーのザンクト・マクダレン修道会の教師を務めたりしている。と言う事で地元にも多いに関係が深い。また、この間アクイナスと同時代のニューマン司教の手紙等の翻訳に励み、1931年に再び学術的な方向へと戻ろうとするまで、スパイヤーに留まっている。しかし既に時は遅すぎた。

1916年には、ゲッティンゲンからフライブルクへと、現象学の師のエドモント・フッセールを慕って遣って来ていた。この忠実な女性は、そこで恍惚感に満ちた教授への献身を示していると言う。「他の弟子達も無神論者ではいれなかったのが現象学であって、正体を現した事象の存在の可能性を目の当たりにすると言うのは、無神論者には恐ろしく震撼に満ちたものであるからだ。」とアドルフ・ライナッハは説く。

また反対に例えば上のヘドヴィックが、「沢山の異なるものが突然どの様にして視界に映るか」として、特にユダヤ教的な仮借無い攻撃性と現象学に於ける学究的な攻撃性の相互間の親和性を、純粋に精神的な事象への対応と専心より下位に位置付けている。

シュタイン自身に関しても、子供の時から霊的な光を見て、声を聞き、多くの死者と交感している。また、1934年の革命騒動で処刑されたナチ突撃隊長エルンスト・レームの徴現を得て、カトリックでない彼女が、プロテスタントの魂をカトリックの教会へ導いていたと言う。例えば唯物論者の家庭出身のゲルタ・ヴァルターは、シュタインの「歴史上の発展と現象学的考察に於ける感情移入の現象」の論文に関して、答えに窮したと言う。

この辺りの背景説明を読むと、後に自ら進み出て、ゲシュタポの餌食となり、他のユダヤ人の身代わりとなり率先してアウシュヴィッツでガス室へと歩みを進めた、そのような殉教の聖人の思考が、我々凡人にも理解出来るようになる。

それにも増して、神がかりな霊感は差し置いても、全てを目のあたりにすると言う精神と、我々の騒然とした日常が如何に遠い事か。如何に科学的な目を持って事象を観察出来るかという問いは、処理し切れない情報の渦の中に身を置いて、虚無の奈落の気配を感じながら、ひたすらその潮流に身を任せていては生まれない。最高に宗教的な人物である聖人の存在と思考に関しての非宗教的な考察は、近代精神の一局面を白日の下に曝す。これは、ナチ同調のヴァチカンの汚点浄化を自らに課した教皇ヨハネ・パウロ二世の業績でもあるのだろう。



参照:高みから深淵を覗き込む [ 文学・思想 ] / 2006-03-13
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蝕まれたカメラの伝統

2006-03-17 | 雑感
イェーテボリにあるカメラ会社ハッセルブラッドについての経済記事を読んだ。現在全従業員70名の企業である。三年前には300人規模であったので、その終焉を迎えようとしている。創業者の死の直前の1984年に上場されて以後、大株主は転々としてその低落ぶりは激しい。現在は香港に進出した中華のシュリロ社がオーナーである。

これは知る人ぞ知るカメラで、ニール・アームストロング船長らが1969年に月面の無重力の世界で写した最初のカメラである。創業者は1948年になって始めて世に自らのカメラを送り出した。その歴史だけでも欧州では破天荒である。趣味で鳥を撮影し続けた裕福なヴィクトール・ハッセルブラッドは、先の大戦中に墜落したドイツ軍の偵察撮影カメラを見て「これならもっと良い物が出来る」と思ったらしい。

鳥と言えば全く話は変わるが、先日話題とした宮廷薬剤師ノイブロナー博士は、鳩に付ける小型カメラの発明者である。第一次世界大戦までは、敵軍の視察に伝書鳩とこの小型カメラが利用された。

さてハッセルブラット社は、当然ながら新参者として市場定着はなかなか容易で無かったようだが、そのカール・ツァイスのレンズを使った品質だけで無く、広告活動も功を奏した。何時しか、それは世界中のプロカメラマンや愛好者にとっては伝説となった。

それでも、昨今のデジタルカメラへの変換に乗り遅れたと言われ、三千二百万ユーロ売り上げに対して、二千六百万ユーロの損失を計上している。二月に新登場した唯一の特産デジタルカメラに一万一千九百ユーロの価格をつけていると言うから可笑しい。万が一、世界市場で二千個売れれば年間売り上げに迫る勢いである。

このような状況は決して他人事と笑って居られないのが現実であって、小型カメラの創始者名門ライカ社も昨年度の決算はその資産を処分したに関わらず大赤字で、企業の歴史は最終段階に入っている。こちらは、未だ世界で数千人の従業員を抱えているが、デジタルカメラ参入は寧ろ厖大な赤字を齎したのではなかろうか。数年前にラーン川沿いの本社を訪れたが、その時は「名門の姿を保っている」と強く感じた。その半面、デジタルカメラなどは如何見ても競争力が無く、難しい現実を垣間見た。

反射鏡を持たないMシリーズのシャッター音の静かさやその偉大な伝統には、今でも頭が下がる。しかし、その後の日本の後発メーカーによる追撃は甚だしく、伝統部門だけに依らずキャノン社との格差は天文学的となった。訪問者の座談会での質問に答えて、「日本のカメラは、戦後もコピーした詰まらないそれだけの物であったが、段々と良くなって、何時の間にかコピーでは無くなった。」と言うような回答が二十一世紀にもその様な世界的な企業の一室で聞かれるような状況と言えば全てが分かるだろうか。その様に、三十年ほど前に活動を停止して仕舞ったような企業なのであり、優秀な従業員も年金と共に会社を去って行くだけなのだろう。

素晴らしいアイデアや独創性、資産や伝統が、安易な資金調達によって企業体質はブクブクと拡大されて、それは恰もエキノコックスに一度入られた体の様に、虫食いに蝕まれて行く姿は見るに堪えない。



参照:時計仕掛けのオイスター [テクニック] / 2005-06-04
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短所は短所として

2006-03-16 | ワイン
先日試したワインを再び吟味する。あまり美味くなかったワインである。これを再び試して全く違った評価が出ると困るのだが、前回よりも味わって飲めた。短所は短所として再確認出来たが、長所を楽しめたのが大きい。

そのワインは、稀なる暑い夏を迎えた2003年産のワインである。そしてその長所は、胡椒のような香辛料の味で、熟し過ぎた甘さと幾分不健康な房が混じっている濁りを引き締める。これを楽しむと短所も同じように減衰して仕舞うので気が付き難い。

前回は急いで冷蔵庫から取り出して夜遅く急いでこれを試し、翌日には残りを再び試して、短所しか感じられなかったのであった。こちらの都合で評価にバラツキが出るのは遺憾であるが、これが普通である。

先日掲載したホッホハイムからの写真に写し撮られている方向のその上空から、写真を撮影した地点を覗くと、比較的細いマイン河が四・五倍も太いライン河に交わろうとしているのが見える。衛星からの写真の右端に見えるのは、フランクフルト空港の滑走路である。その右上の河岸で掲載した二枚目の写真をマイン河上流へと向って撮影した。その上流にはフランクフルト・ヘキストの工場群とカッセラ社等の、フランクフルト市内より更に上流のハーナウ市にかけての工場群などが存在する。

マイン河は、想像していたよりも細く水量の少ないライン川の支流であるのがこうして分かる。更に上流のフランケンヴァインのワイン産地ヴュルツブルク周辺では、実際に水が下流よりも美しいような気がしたが如何だろう。

ワイン畑は、上空から見るとその畝の間隔が狭く、一枚岩のような他の畑とは多いに異なる。マイン渓谷の崖の上の斜面であるホッホハイムの立地条件を考えると如何にも面白いワイン産地である。

衛星写真は、四万メートル上空からのマインとラインの中洲。アダム・オペル本社のリュッセルスハイムが中洲右上に位置する。ホッホハイムのGOOGLE EARTHファイル



参照:
時間的連続と空間的連続 [ BLOG研究 ] / 2006-03-15
仰ぐよりも見下ろす視点 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-03-14
高みから深淵を覗き込む [ 文学・思想 ] / 2006-03-13
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時間的連続と空間的連続

2006-03-15 | SNS・BLOG研究
限が無い。立体地図探訪は、いつまでも飽きない。このシステムに関する面白いアイデアを集めたBLOGをみると、千人千様の使い方が紹介されている。ネーチャー誌カヴァーストーリーのフォローをしたり、渡り鳥の経路を示したり、気象や植生に注目したり、特異な地形やクレーターを探したり、地震や山火事の影響を観察したりと盛んな様である。氷河の侵食も火山の活動も何処かでkmz-File の形式の良い資料がダウンロード出来るだろう。

飛んでいる飛行機や大海に浮かぶ船舶、軍事施設の写真なども趣味の世界であるが、衛星へと向けて屋根の上に広告を出す輩までいる。これは、景観が壊される前に町の広告同様に規制して行かないといけないかもしれない。設置点が記載されているライヴカメラとの併用も面白い。

映像は、二年から三年まで以前の物にそれ以前の写真も合成されている様で決してオンタイムとは言えない。広場などで集まり、階段に座り込む人達の姿も過去の物である。しかし、通常の写真や地図と違うのは、何と言っても自然の時の流れの中で生活感や時間の感覚が写し込まれているからだろう。決して、季節感は正しくないのだが、古びた家並みや工場の駐車場に止まっている車の数々、または知人の家の前の車寄せに停められている車など、世界中を探せば個人的に懐かしかったり想い出深い物を上空から沢山見付ける事が出来る。以前の思い出の土地の様変わりを確かめるのも一寸したサイバー感傷旅行である。

ヒマラヤ周辺の地形も大変面白い。ニューヨークの立体に登記されている主要ビルは、シルエットで見るだけで無く、その谷間を飛行出来る。しかしイエローキャブなどの走るビル街は、お馴染みの光景なので情報量の割には意外につまらない。それに引き換え大ロンドンの大きさには、唖然とさせられる。ケンブリッジ・キングスカレッジ周辺の解像度も大都会並で、違法駐車までチェック出来る。

上の機影探しのアイデアから、飛行ルートをシュミレーション宜しく飛んでみる。特に離陸は、操縦管を握らなければ難しいが、巡航飛行は結構近い光景に設定出来る。旨くいかなかったのは、テームズを遡りながらのヒースロー空港への進入である。ロンドンブリッジや塔が充分に立体となっていないので何度も見逃して仕舞う。しかしバッキンガム宮殿内のテニスコートは、初めて気が付いた。嘗ての日欧間の北回り中継地であったアンカレッジの飛行場も今や大韓航空などのカーゴ基地になっているようだ。あの寂しい飛行場の廻りの様子を知りたかったので、これでやっと溜飲が下がる。

一度足を地に踏みつけた土地やそこの人々を、上空から経路を辿る事で、今までに無く視覚に訴えてありありと思い出す事が出来る。しかし何も所縁のある土地だけが面白いのではなくて、新旧の家並みや工場など、手入れの行き届いた垣根や庭、良く耕かされた耕作地や人手の入った森林など、通常の地図では地元役所の資料とともにしか分からないそこの地域の経済や人々の生活が見た目で充分に推測出来る。遥かに長く続く道は、町へと連なる。如何なる僻地でも必ず経済圏へと道が伸びている。

こうして見ると、時間的連続と空間的連続が、地球が円を以って閉じているように、任意の地点で確認できる。各々の連続が途切れる事を破局と呼ぶ。
コメント (4)
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