Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2020年5月

2020-05-31 | Weblog-Index



藤四郎の国立劇場 2020-05-31 | 文化一般
ハイレゾDLが可能ならば 2020-05-30 | マスメディア批評
劇場に継承されるもの 2020-05-29 | 文化一般
400人規模演奏会の準備 2020-05-28 | 生活
重篤のバイロイト音楽祭 2020-05-27 | 女
ザルツブルクの突破口婆 2020-05-26 | 女
脱ガイストシュピール 2020-05-25 | 文化一般
実績を踏まえての期待 2020-05-24 | 音
気が付かないふり 2020-05-23 | 歴史・時事
ヴィースバーデンモデル 2020-05-22 | 文化一般
今年の昇天の日 2020-05-21 | 暦
ニューヨークタイムズの報道 2020-05-20 | 音
延期になったバイロイトの声 2020-05-19 | 音
シューベルトでの歌唱力 2020-05-18 | 雑感
中々売れない高額席 2020-05-17 | 文化一般
見えなくなった水蒸気塔 2020-05-16 | アウトドーア・環境
ドイツ最初の公立劇場再開 2020-05-15 | 文化一般
次々の活動を再開 2020-05-14 | 文化一般
劇場に人を詰め込む方法 2020-05-13 | 文化一般
突然変異のレセプター 2020-05-12 | SNS・BLOG研究
衛生へのタスクフォース 2020-05-11 | 文化一般
厳しくなった交通規制 2020-05-10 | 雑感
急に左から右へと 2020-05-09 | 暦
ヤマ場に溜まったもの 2020-05-08 | 生活
ミュンヘンはこうありたい 2020-05-07 | 文化一般
理髪師協会のコロナ対策 2020-05-06 | 生活
僅かばかりの石鹸だけ 2020-05-05 | 雑感
モニターの前の評論家 2020-05-04 | 文化一般
怖れや喪失や萎縮、孤独感 2020-05-03 | SNS・BLOG研究
胸が一杯のメーデー 2020-05-02 | 暦
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藤四郎の国立劇場

2020-05-31 | 文化一般
古新聞を片づけた。いつものようにざっと気になる記事に眼を通して束ねた。一つは四月初めのバイロイト音楽祭開催断念の翌日かの新聞である。バーゼルに居る新制作「指輪」の指揮者インキネンに電話インタヴューしている。既にザールブルッケンでの仕事、香港、東京での客演がキャンセルになっていて、時間をそっくり空けていたバイロイトがキャンセルになって茫然自失となっているが、練習が始まる前に発表になったのが何よりも良かったという。そして健康のためにキャンセルになってよかったとしている。

もう一つの記事はヴィーンの国立歌劇場の新支配人へのインタヴューだ。元ソニーミュージックのニューヨーク支配人だった人の様で劇場の藤四郎だ。商売上の背後関係での人選なのだろうが、語る話しの内容もそれ以上のものでは無い。要するに商業上のマネージャーでしかない。

それで新シーズンから数多くの新制作をリストアップしているかのように見えていても実はただの二つしか純粋の新制作は無い。他の多くは共同制作で舞台を独自に作るだけのもので、それらは権利を持っているので今後ともヴィーンのレパートリーとして上演される。その一つは「パルジファル」で新任音楽監督ジョルダンが振るがもう一つは三島の「午後の曳航」をおばさんが振る制作だ。その他にもコンセルトムジークスが2018年のザルツブルクの「ポッペア」で入ったり、二年目のシーズンはムジカエテルナがモンテヴェルディを継続する。一体どこの国立劇場かと思わせるが、要するに経費を削減しつつ、メディア制作して売れるものにしようという魂胆の様だ。

メディア戦略としてあまり誰も金を払って観ないストリーミングを今後はオーストリア放送協会の公的な資金を利用して、国内に無料で流していく様だ。それだけのいい制作ならば商品化して横流しできる。ドレスデンからヴィーンへと転職を試みたクリスティアン・ティーレマンがこれらの計画には役立たないで、フィリップ・ジョルダンなら商業的価値があるとしたのがこの人らの判断であろう。

興味を引いたのはメディアを使っての若者対策で、商業的な下心が無ければ面白いかもしれない。確かパナソニックかどこかのモニターが椅子についている劇場のようだが、あれを上手く使えば新たな劇場表現も可能になるかもしれない。

しかしどんなに頑張ってもこの程度の人たちが指導しているような劇場では本格的な音楽劇場上演などできる筈がない。昔はもう少し芸術程度が高いと感じていたのだが、更に程度が下がるようでもうどうしようもない観光劇場になりつつある。

期限が来たのでルツェルンに寄付・返金書状を出した。何がどうなるかは分からない。八月までには、まだ二月程ある。二か月前を考えると元へと戻る。だからまだ分からない。シュトッツガルトの劇場が音楽監督マイスター指揮でベートーヴェンのツィクルスを百人の聴衆に囲まれて演奏する。リーダーハレのベートーヴェンザールの平土間を使っての演奏だ。少しづつ可能性を広げて行くことで今後が変わってくる。



参照:
ハイレゾDLが可能ならば 2020-05-30 | マスメディア批評
首が座らないやつら 2019-04-28 | 雑感
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ハイレゾDLが可能ならば

2020-05-30 | マスメディア批評
バーデンバーデン祝祭劇場からメールが入った。そこには予想通りシーズンを終える事が書いてあって、払い戻し等に関する連絡だった。連邦政府でのヴァウチャー法案への言及が書いてあった。つまり特別な事情が無い限り現金では返さないということだ。聖霊降臨祭のクレンティス祭りや夏のゲヴァントハウス祭りそしてゲルギーエフ祭りが含まれて七月一杯ということになっている。

個人的には秋のベルリナーフィルハーモニカーによる週末音楽祭のオファーを待って、それを注文すると同時に残りを寄付としようとしていたが、発売延長されたフィルハーモニカーの最終計画が出ない限りこちらも決まらない。なにか金を返さないと言われるとそれはないよという気持ちになる。しかし、思い出した。

思い掛けなく私が個人的に知りたかった2022年以降の計画をそれもデジタルコンサートホールのインタヴューでぶちまけてくれたキリル・ペトレンコや2023年以降のバーデンバーデンとの契約延長を逸早く発表してくれたツェッチマン支配人のその想いが脳裏に蘇った。祝祭劇場が今回も書くようにどの額をどの時期に州から公演中止の補償がなされるかが未だに未定であるということで、全面的にベルリナーフィルハーモニカーが支援してくれたことを思い出したのだ。ある意味当事者である私がここで寄付しなければ何の意味があるだろう。改めて心打たれる話しだった。

ルツェルン音楽祭からもメールが入っていた。こちらは既にHPに載っている情報を纏めてあるに過ぎないが、月末までの払い戻し申請への喚起もあった。色々考えて、購入金額の一割だけを寄付しようという結論に達した。理由は先方も定期券の一割の金券を呉れたから、こちらも事務費用の足しにでもと一割を寄付しようと考えた。

ノイエズルヒャー新聞では、音楽祭中止になっても予定通りの寄付金を出すと担当者へのインタヴュー記事が載っていて、そこではパウル・ザッハーの影響を社の伝統として肝に銘じているというのがあった。彼が婿入りしたバーゼルのオーナー企業は現在コロナのテストで世界トップの売り上げを上げるロッシュであるから当然と言えば当然なのだが、やはりザッハーの音楽界への歴史的な影響と同時に留意したいと思う。勿論私の寄付などは比較にもならないのだが、公的な支援を受けない音楽祭への支援としては精神としては同じことである。

先週デジタルコンサートホールの一週間券を購入した。そして一回だけ生中継を観て終わりだ。一割り引きか何かの案内にアンケートがいつものようについているので、回答した。なぜ会員にならないかは、音質が悪いからだ。そして書き加えておいた。新しいストリーミングのシステムなどには関心が無い、映像と共にハイレゾのチャンネルをつけてくれればそれで十分だと書いた。映像なんて二の次だ。



参照:
無価値なストリーミング 2020-04-21 | 音
二十世紀中盤の音響化 2015-02-07 | 音

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劇場に継承されるもの

2020-05-29 | 文化一般
ネットではベルリナーアンサムブルの劇場の椅子が話題になっていた。早速メディアは、ベルリンの公的劇場は秋まで開かないとベルリン市の意向として伝えている。来月から100人の入場者が許されて、それが7月末まで続く。夏休み中に何かが開かれることが無いとして、次の段階が夏休み明けということはあり得る。各劇場などによって期日は決まるとしている。

こちらの興味は、九月にしろ八月終わりにしろ舞台の上でどの程度の編成が組まれるかでしかない。客席の方はベルリンの状況からすれば殆ど問題が無く夏には四分の一は入れれる筈だ。

ロンドンは八月終わりから二週間はライヴでプロムスを催すとしている。スイスは300人まで許可になったので早速管弦楽コンサートが開かれる。オペラも夏休み前に催し物が企画されている。ルツェルンも八月後半にコムパクトにkklや市内各所で音楽祭を催す。千人までの許可がいつ出るかは来月末にしか分からないが、状況から来月末の発表で即となるだろう。但し観光地でゴンドラなどでの感染を上手に防いでいくことが重要で、最初は採算が取れない運航をしなければ始まらない。

「ばらの騎士」の話題から見落としていたインタヴューを見つけた。昨年の11月にミュンヘンのティーレ氏によってなされたウラディミール・ユロスキーヘのものである。その「ばらの騎士」を来年新制作指揮することになっているが、その件について、次期監督就任決定前には支配人ニコラウス・バッハラーからのオファーを受けたという。当然のことながらその作品の上演の歴史からしても音楽監督が振るものであってということで、とても躊躇したという。つまりキリル・ペトレンコは、カルロス・クライバー指揮のオットーシェンク演出に係っていて、新たなバリーコスキー演出では振りたくないということだったというのである。

この事情は初めて聞いた。新監督の為の企画かと思っていたからで、道理で早く決定した筈だ。同時にペトレンコが振り終えて没になったのはとても良かったと思う。昨晩ネットでクライバー指揮の上演フィルムを偶々目にして、その前後の録音は二年ほど前に準備に聴いたのだが、その映像の事は長く忘れていた。最初と最後のクレディットの所だけを観たのだが、劇場の雰囲気が分かって面白かった。現在のペトレンコ体制と比較してそれほど湧かずに早めに退席する人も多いのにも気が付いた。逆に後年のような通俗性よりも結構な通向きの高品質の上演であったことが窺われる。

結局ユロスキーは、コスキーとの組み合わせであるということで引き受けたらしいが、とてもその伝説が重みになるのだが、それでも少しづつ違う面を見せれると考えているようで、当然のことながら演出との兼ね合いになる。つまり重みとなる沢山書き込まれた楽譜と共にそこへと直接還って、丁度子供を寝かすための物語が全く毎夜同じでは無く、少しづつ強調されるところが変わるように演奏されるのだとしている。とても期待できる。まさしくクライバー指揮のミュンヘンの「ばらの騎士」にあって後年のヴィーンのそれには欠けているものを語っている。


写真:スイス連邦大統領の弁



参照:
なんとも有り難い再臨 2020-02-12 | 文化一般
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音


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400人規模演奏会の準備

2020-05-28 | 生活
次のコンサートの連絡が入った。序でに出かけるつもりだったが、前後のケルンでのコンサートが流れた。つまり宿も取り直して一か所へと態々出向かなければいけない。それほどの意欲はなかった。そもそもワイン祭りの喧騒を避けるために避難の旅行だった。ヴァインフェストも無くなり、態々出かける必要もなくなった。しかし、今回も大劇場を四分の一の入場者にして開くために先行予約をした人を優先的に選んだ様だ。つまり私は最初のお客さんの数人である。どんなに場所が変わってもいい席を与えてくれることは予想がついている。要するに席の場所は最初の予約時と殆ど変わらないであろう。但し会場の音響は変わる。

何と6月に400人を入れるという。これは再開後の最大規模のコンサートではないかと思う。席の間隔もあり、恐らく空調も強力なのだと思う。勿論是席に着くまではマスク着用だが、そこで外すことになっている。当然である。しかし、これだけの規模の人数を二群に別けて二百人づつにしても大変な苦労が掛かると思う。先ずはそれを観て来たいと思った。

そこで宿を探すと新たに出て来ていた。郊外の適当なところを予約しておいた。朝食付きで49ユーロだが、写真にあるようなビッフェも無いとあまり嬉しくはない。写真を見るとテラスでも朝食が可能ならば喜ばしい。夕食なども考えると結構鬱陶しいが、何年か経つとなぜあんなところであんなことをしていたのかなと不思議に思うこともあるかもしれない。コロナ以降外泊するのは初めてであり、何事も経験かなとも思う。燃料代はまだ落ちているのでその点は助かる。

走行距離はホテルへ寄るとしても330㎞に達しないのでミュンヘンよりは近い。ルツェルンに行く感じで往復も出来るが慣れていないルートなので写真撮影が怖い。ゆっくりと走れるように出かけて、ゆっくりと食事をして、ゆっくりと宿泊したいものである。

元々の入場料金は二回分で38ユーロと格安で購入したが、今回の処置の会場側の努力を考えると適当に返す気にもなれなかった。300㎞を走行してでも聴きに行く価値はあると思った。手頃のコンサート予定などを見れば、とても簡単には捨てる気にはならなかったというのが偽らざらない気持ちである。バーデンバーデンは仕方がないとして、アルテオパーも到底出来るような態勢ではない。バーデンヴュルテムベルクもバイエルンと同様に100人までの入場となっている。到底採算が取れない。それでも室内50人制限から始めるバイエルン州よりはマシである。バイエルン州はどうも州知事にマスク信仰があるようで劇場内でもマスク着用という近郊公共交通機関の扱いをする。

なるほどバイエルンが最初に手配していればイタリアでの感染も避けられたかもしれない。当然の事ならら詳しい情報を持っていて恐らく自責の意味もあるのだろう。第二波は避けられないので装備を六週間分先二年間は準備すると言っていたが、何か大雑把な掛け声だけでポピュリズム政治家らしさを示している。バイエルン州での催し物にはあまり期待できなくなった。だからバイエルン州知事は教会での感染などヘッセン州を批判するが、バイエルン州の特性というものがその背後にはあって、オーストリアのやり方をそのまま踏襲できないのでさぞ悔しいことだろう。



参照:
ニューヨークタイムズの報道 2020-05-20 | 音
ザルツブルクの突破口婆 2020-05-26 | 女
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重篤のバイロイト音楽祭

2020-05-27 | 
月曜日にバイロイト音楽祭は、2016年からの共同代表取締役フォンベルクが来年4月の契約延長をしないことを発表した。12月からはミュンヘンのバイロイト州の文化局で取り締まる。元々有限会社バイロイト音楽祭の取締役から腹違いのエーファパスキエ―婦人が追放されたことで、株主であるバイエルン州が経理などの公正化の為にお目付け役として送った人事で、前職はミュンヘンのレジデンスの支配人だった。そして火曜日の夕刻にはDPA通信社が闘病中の共同代表取締役カタリーナ・ヴァークナーの病状についてバイロイト音楽祭の発表としてニュースを流した。

それによると、「引き続き重篤であるが、現在は容態は安定へと向かっている。回復するまでに何カ月か掛かる。」という恐らく通信社にファックス等で出した原稿の様だ。以前の書き方と異なり、重篤であることが明らかになった。最初の発表では、深刻な重病で当分は職に就けないというものだったので、例えば想像されるような肺癌の症状で手術という事が考えられたが、今回は「重篤」であって、安定化に向かっているというので、最初から臓器不全などで一月以上ICUに入っていると読むのが正しいだろう。

一月以上も掛かるというのは分からないのだが、最初から重篤であったということはコロナに感染したともいえるが、42歳の四十代で亡くなっている人は17人しかおらず先ずは有り得ないだろう。因みにバイロイトは十万人中401人陽性で決して状況が良くはなく死者も十万人に27人出ている。そこまでの末期癌なども昨年の様子では有り得ないように思われて、突然重篤になるような病気で一月ほど状態が安定しないとなるとどのような病気だろうか?

今回途中経過として発表されたのは、「容態が安定して行くのかどうか」ということでの中間報告だったのだろう。いずれにしても本人の意思は最早祝祭劇場の運営では示されないということで、そこでその間に元祖音楽監督の座にいる指揮者ティーレマンがフェークニュースを流した意味合いが少しづつ明らかになってくる。恐らくメディア向かってフェークニュースを流すことで観測気球を上げてみたのだと思われる。その時の談は直接ヴァークナーに電話して、「元気で、とても幸せ」とか言わせて、まるで落語のラクダの二人羽織のようなことをしたのであった。

簡単に表現すればヴァクナーに口があるかどうか、意識があるのかどうか、生きているのかどうか突いてみたのだろう。つまりヴァークナー本人には電話も繋がらないのは当然としても、判断が出来るのかどうかを調べて見たとなる。結果は音楽祭がそのフェークニュースを公に否定することになった。一体元祖音楽監督は何を期待したのか?

辞任する共同取締役とヴァークナの代わりに臨時で入っているセンセ両者とも経営上の立て直しで2013年に送られた人物で、二年後にフォンベルクと交代した。長年のスポークスマンも昨年末に亡くなっていて若い人が後任に入っているので、然るべき立場では身内はいなくなっている。ヴァークナ協会の友の会の代表で元バイエルン州の大臣が今回もお見舞いを述べていた。

元祖音楽監督は、コロナによって夏の音楽祭がキャンセルされたことでのギャラの支払いについてそれも下っ端の音楽家への補償について語っていて、その旨はどこにあったのか?恐らくこれは共同取締役を意識して牽制したつもりだったのだろう。その時点で去就は聞いていたのかどうかは分からない、しかし、ザルツブルクの復活祭でのように公的な権力からの追い出し圧力を感じていて、昨秋からのヴァークナーとの話し合いへのオファーも日本などに行って逃げていたというのは報道されていて、そして年が明けてからも秋以降の延長は決定していない。本日の通信社の記事も「ヴァークナーが回復次第ティーレマンの契約延長問題が決まる。」と祝祭劇場の談となっている。

ここまで来るとフォンベルクが辞任するのは、コロナの事後処理の経済的な損失の責任を逃れてしまうためでもあり、重篤のヴァークナーへとその責任を一切被せて仕舞おうとする州政府の意思のようなものが見えてくる。フォンベルクの四月の辞任だが早くも年内には職場を離れる。ティーレマンの言として「元祖を辞めてただの客演音楽監督のような立場を」欲していたとヴァクナーが語ったのも先に責任を逃れようとしたきらいがそこに窺える。

現在の体制はこの通り既に完全に崩壊している。成り行きを見守るだけになってきている。



参照:
蜘蛛退治をしておくれ 2020-04-28 | 文化一般
ニューヨークタイムズの報道 2020-05-20 | 音
 
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ザルツブルクの突破口婆

2020-05-26 | 
月曜日にオーストリアの今後のコロナに対する方針が発表された。興味がある催し物に関するものを文化大臣が会見で話した。それを受けてザルツブルクでは百周年音楽祭も会見を開いた。8月31日までの対応に関して大枠では既に言及されていた通りだが、細部では驚くべきことも少なくなかった。

音楽祭は、200件に対して90件の開催で、予想されたよりも大規模な音楽祭となる。オペラから室内楽、芝居に現代音楽とあらゆるジャンルで開催場所を六カ所(両祝祭劇場、フェルゼンライトシューレ、州立劇場他、モーツァルテウムなどは無し)に絞って催す。期間も8月1日からとなって月末までのプログラムらしいが、翌年に延期されるものもあるために現執行部で2021年8月31日まで百周年祭が続く。

詳細は来週末として、先ずは海外からの参加などが出来ない演奏者による出し物、例えば「ドンジョヴァンニ」新制作などは来年へと延期となる。つまりオーストリアの演奏団体などが中心となる。管弦楽団はヴィーナーフィルハーモニカーやモーツァルテウムなどが中心になれば従来通りだ。

そこで、先日ヴィーンで実験されたように1メートルのソーシャルディスタンスィングも必要ないとする論理で、舞台上ではオペラや芝居を含めて当局は関知せずに主催者や登場者の自己責任で決められるという。要するに今後のコロナによる休業補償の限界を定めることになっている。催し物の大きさは、8月31日までは千人以下で、野外に関しては来週から特別許可で1250人までの規模が可能とある。その場合も舞台上やスタッフの人員は入れないので、出演者の数を抑えるのは興業的な計算でしかない。

つまりザルツブルクの祝祭大劇場に千人近くまで収容して、どれほどの規模の催し物で採算が取れるかである。その一方決して脛枯らしのような催し物にはしないと芸術的な充実を訴える。既に発券している二十三万五千席を先ずは払い戻しして、金券などにした者に新発売の席を優先的に与えていき、六万から七万席を新たに発売する。売り上げとして穴が空くが、元々の計画の儘に州からの助成を受けるために69百万ユーロと約40百万ユーロの差額を約19ユーロで埋め合わせて行く。

ざっと計算して劇場の三分一程の収容が計算されていて二席を列をずらして開けていくことになるのだろう。ヴィーンでの発表では椅子をメートル間隔で開けられない時も公共交通機関のようにマスク着用で許可するとなっている。更にミュンヘンで発表されていた最長90分までの上演とするものとは異なり座席への出入りが最も距離を取り難いことから休憩を入れない上演となる。大会場にそれだけの数を入れる前提ならばそのようになるだろうが、その差は大きい。

発表されたようにこれらの規則は、ザルツブルクの音楽祭を特別視したものでは無く、プロもアマチュア―の催し物も同じように扱われるということで、プロサッカーのそれとは大きく異なる。予想されるところで一番危ないのはオペラなどの来月から始まる準備期間での感染だろうか。本番の方はまだ二カ月間あるので、感染状況が今よりも良くなっていれば抵抗は無くなるだろう。

ここまで先の予定が揃って気になるのはベルリンの8月末のオープニングコンサートとフェスティヴァルである。9月に入ればザルツブルクが先導したようにある程度の規模の催し物は予想されるが、現在距離感を1.5mとしているのを9月1日からオーストリアの1m若しくは舞台上での75㎝から制限無しへと揃えて行けるか?



参照:
ヴィースバーデンモデル 2020-05-22 | 文化一般
2023年以降の計画の発表 2020-04-25 | 音
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脱ガイストシュピール

2020-05-25 | 文化一般
2014年産の玄武岩産のフォルストのリースリングを開けた。先日2016年産も開けたが、まだこなれていなかった。2014年産は初めから良かったが、まだバランスが崩れていない。素晴らしい酸が決め手だった。最近になって漸く学んできたことは酸の旨さとか個性とかは最初から決まっていて、分解した酸は其の侭何年経っても瓶の中でワインを決めているということだ。だから最初から酸に旨みが無い年度は何十年寝かしても傾向は変わらない。2008年産を買えなかったことなどは今でも反省である。

上のワインは所謂ヴィラージュとして町の名前の地所からのワインで敢えてスクリューキャップにしてある。そして余分にコルクのマグナム瓶を購入しておいた。これは間違いないと思う。その一方「ゲリュムペル」の地所ワインなので2017年産を開けて直ぐにコルク臭が漂った。ある意味早めにあたってしまったことで幸いだった。こんなものを十年寝かしておくだけで徒労感に出合うだけである。それ程コルク問題に当たらない方だが、こうなると使い物にならないことを再認識する。ワインの味でなくコルクの味などを食事に合わせてもちっともおいしくはない。

フランクフルトの劇場の百人のみの為のリーダーアーベントの発売を覗いてみた。真面目に検討して、歌手のマリア・ベルクトセンのペトレンコ指揮でのベルリンでの経歴や最近のオペラ登場調べ、そして1月のフランクフルトでの同様の会の批評などを読んだ。又行けばヘッセンの放送局などが来ていていつも来ているなと思われるだけだが、何よりも売れ行きの方に興味があった。スェーデンの歌手でそこの作曲家の歌を中心のドイツ物もクッキリと歌うらしい。その成果にはヴィーンの新音楽監督ジョルダンに引っ張られてそこの練習監督になるフランス人女性ピアニストの力が大きかったようだ。それは丁度ヴィースバーデンの会ではピアノに不満があったのとは好対照だ。

とにかく安いところからつまり上階最前列からあっという間に出て行った。平土間とその上のバルコンだけを使っている。だから百人で、実際にはプレスなどの25席を除いて75席だけが発売された。30ユーロの所から売れるというのもヴィースバーデンと変わらなく、常連さんから出て行くということだ。しかし常連さんの層の厚さはヴィースバーデンとは比較にならないだろう。そして平均年齢も大分低いので、自分自身はコロナなど全く恐れていない人がより多いと思う。

一月に続いて訪問する人がどれぐらいいるかは分からないが、歌手はフランクフルトでは比較的歌っているのでファンもいるようで、昨年もヴィースバーデンに出ていたので地元在ではないかと思う。古巣のコーミシェオパーやウンターデンリンデン、ヴィーンなどに出ていて、頂点での活動は無い人なのだが、それなりの力はあるようだ。昨年の年末にはN響で第九を歌っている。今回の売れ行きで更に上階を開放するのか、または今後の同様のリーダーアーベントへとノウハウを作って行くのかなど様子を追ってみたい。

日曜日のスタディオからの中継のバイエルン放送協会の番組でもヴィースバーデンの様にミュンヘンでもという話題になっていたが、もはや無人での演奏を生中継するというのには限界が見えて来た。所謂サッカーなどではガイストシュピールと呼ばれるものである。月曜日の夜はそのようなシリーズでミュンヘンからの中継がある。南アフリカ出身のゴルダ・シュルツの登場である。ご本人も大劇場でのリーダーを歌うのは初めての様でお喜びの様である。さてどのような出来栄えとなるか?



参照:
延期になったバイロイトの声 2020-05-19 | 音
月末に際しての想い 2020-01-28 | 雑感


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実績を踏まえての期待

2020-05-24 | 
土曜日の夜から幾つかの中継を観聴きした。先ずはベルリンのフィルハーモニーからのDCH生中継だ。キリル・ペトレンコ指揮ではメーデーのオイロ―パコンツェルトから三回放送されて、二回目である。三回目はモーツァルトとドヴォルザークのセレナードとなる。グランパルティータと弦楽セレナードだろうか。

前半から後半への間にキリル・ペトレンコのインタヴューが流された。冒頭から、ヴィースバーデンモデルのことで動いているのだろう、観客をそれほどでなくても入れたいと話した。フィードバックが期待されると、まさしくヴィースバーデンでの百五十人未満の拍手とされるものを知らされると確信した筈だ。そして最後に秋には大きな編成で演奏したいと抱負も語った。

何事も一つ一つ実績を踏まえていくことは意味があって、それを碑にして先へと進んでいける。ベルリンのこの計画は、メーデーの時に突然で驚かされてよく分からなかったが、最初から一回限りのプロジェクトでは無かったのも窺える。結局今回後半の「浄夜」も弦の最低の増強に留まった。

もう一つ興味を引いたのはペトレンコがパユの事をエマニュエルと呼んでいたことで、このフルートの名人がペトレンコ体制作りへの木管の要にもなっていたことはよく分かっていたが、今回はマラルメの詩に関しても意見を交換したということである。

日曜日の午前中に再放送されたデュカの歴史的名演奏もあるがフランス音楽をペトレンコ体制でどのように扱っていくかなどの点も興味深い。まさしく先日フォンカラヤンの指揮としてフランス音楽の扱い方の例としてその録画をペトレンコ自身が紹介したその背景はここにあった。

管楽器ではクラリネットのバーダーがヒンデミットでもよく吹いていて、アバド指揮の制作CDは所持しているが、この生中継でよくやっていると思った。矢張りそれは2018年のルツェルン音楽祭での実況中継録画の映像作品を観れば、ライヴ中継でよくもここまでのものが制作されたなと思わない訳にはいかない。

こうした大編成の成果を観て、また最後の2月の国内ツアーの交響的舞踊の演奏を思い出すときに、やはりどうしてもそうしたものが再開できないといけないと思い、まさしく秋には何が可能になるだろうかということになる。現実的な問題として間隔の規定がある限り容易ではない。

しかし一方でテューリンゲン州では6月6日からマスクの義務と接触の禁止を解こうとしている。夏場になるとマスクは公共交通機関のみならず店内などでも不健康なものとなりかねない。マスクの効果が限定的なものである限り義務化を廃止する方向は合理的だ。しかし接触と距離を考えた場合に、中々そこに楔を入れるものが無い。接触を禁止しながらなんとか距離を縮められないだろうかと思うのは舞台の上を考えるからでしかない。



参照:
ヴィースバーデンモデル 2020-05-22 | 文化一般
モニターの前の評論家 2020-05-04 | 文化一般







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気が付かないふり

2020-05-23 | 歴史・時事
発注した切手が届いた。コロナ騒動閉鎖になってから初めての発注だ。三ヶ月ほど何も発注していなかったことになる。先ずは郵便局がポストに入れる切手から。ベートーヴェンを買い足すのも目的だったが、リヒャルト・フォンヴァイツゼッカーのはどうしても欲しかった。話したこともお呼ばれしたことも無かったが顔だけはしっかり合わせたことがある。中々切手になる人とそのような経験はない。他にそれに相当する人は居たかなと考えるが思い浮かばない。同時に今まで眼を覗き込んだ中で一番深みがあった人の一人だ。お兄さんの方はあったことも無いが、ハイゼンベルクの弟子で物史学者だが、話しを聞く限りあまり賢いようには感じない。それでもやはりこの二人は優秀には違いない。

先日1935年頃の日本帝国在ベルリン大使館の写真から、リッペントロップ外相に代わる時の前後の様子を垣間見た。要するに外交関係においては一方的にナチ化がなされずに段階を踏んで表向きにナチが登場する様子だ。既に一年以上背後ではナチの手先となって外務省にリッペントロップ室が確立されていて、背後からナチイデオロギーへと変えて行ったことになるのだろう。だから親父のエルンストフォンヴァイツゼッカーなどはSSに宣誓してそうした保守基盤からの仲介となっている。戦後のニュルンベルク裁判でも「フランスにユダヤ人を置いておくよりも東方に移した方が安全と考えた」とか、「アウシュヴィッツや最終処理が殺戮の意味を持っていたとは知らなかった」と弁明しているが、これも良くある弁明の例の一つであった。

今回のコロナ騒動でも丁度あの程度の死者数ならば、当時の街からしょっぴかれた隣人ユダヤ人の比率とは変わらないと感じた。要するに「知らなかった」と気が付かないふりをしておけば過ぎ去ってしまうものなのである。同じような言い訳は今でもドイツの街中で聞こうと思えばいつでも聞けるのである。

先日のメトからの中継がよかった。亡くなったチェコの指揮者ビエロフラーヴェックの公演がとても良かった。ヤナーチェック作「カーチャ・カヴァノーヴァ」の公演だったが、演奏がとても良かった。その語法が難しいと思うが、客演の座付管弦楽団を思いのままに指揮している様子で、自国作品とは言いながら見事だった。もう少し詳しく研究してみたい。

中欧の音楽を中心に考えているとロシア音楽も遠いが、東欧の音楽も辺境の音楽にしか聞こえなくなる。それには様々な事情があって、言語への不理解だけでなくて、音楽文化的な事情も大きく関係している。上の指揮者が亡くなったのは損失なのはそういう意味からだ。ちらりと見たら昔チェコのフィルハーモニカーを聴いた時の指揮者コシュラーは1992年に引退して暫くして亡くなっているのを知った。確かにあの程度の荒っぽい指揮者となるとそこまでチェコの音楽文化の神髄というものは示せなかっただろう。



参照:
IDの危機と確立の好機 2005-04-20 | 文学・思想
吟味した暫定的なマスク 2020-04-24 | 生活

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ヴィースバーデンモデル

2020-05-22 | 文化一般
木曜日の夜のフランクフルトの放送スタディオホールからの生中継は価値があった。四十人近くが演奏をして、放送局スタッフが時間を掛けてマイクロフォン設定をしたからだ。結果はとてもいい集音と演奏になっていた。座付楽団などに比較するとこういう仕事に慣れているのもあるかもしれない。それに普段以上に練習しているのは間違いなかった。想定以上にシーズン最後の音楽監督オロスコエストラーダもいいところを見せた。ヴァイオリンのテツラフは私の知っているこのヴァイオリニストからすればもう少し何かできても良かったのではなかろうか。

スェーデンからは五十人までの同じように無観客があったので、あとは観客を入れるだけとなっている。土曜日のベルリンからの中継も観客を数百人入れることは可能だが、手間が掛かるのでやらないのだろう。もう一度二度ほど試して慌てずに夏のシーズン開幕に合わせるのがよいだろう。さてベルリンのフィルハーモニーには何人が舞台に上がるだろうか?「浄夜」は期待される。予想される問題は収録がいつもの儘でそれ以上にはマイクを立てないということかもしれない。

今回のドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」も前回のマーラーの四番交響曲と同じシェーンベルクらの音楽サロンの為に1920年に編曲されている。二曲目のヒンデミットの1921年にドナウエッシンゲン初演で両曲とも12人の奏者の為の曲である。よって、後半のシェーンベルクをその規模に止まらせるか大きく拡大するかに注目が集まる。

個人的には無料券が無いので、今回の為に一週間券を購入して投げ銭して生中継を愉しむことになる。再放送も日本などに向けて日曜日に準備されている。

ミュンヘンも再開の準備が進んでいる。ヴィースバーデンモデルが取られることになる。つまり客席は1.5m間隔で、着席以外はマスク着用で、ガルデローベは締められて、指定された時刻に入場。上演も60分から90分で休憩とする。歌手、踊り子、管楽器奏者と指揮者は2mの間隔で、必要な仕切りが入れられる。舞台上では6mまでの間隔が開けられる。

歌手のヨンチェヴァが、「次の機会に飛行機に乗ったら立ち上がって歌ってやるんだ、誰も感染しないんだから」とSNSで呟いて話題になったらしい。如何に劇場の規制と飛行機のそれが異なるかという事で、ご立腹らしい。

地元のこの一週間での感染者数が十万当り五人で0.71人になっている。ハイデルベルクなど一時は結構出ていたところでも完全零になっていて、終息へと向かっている。ここで徐々に動き出したことでこの状況が変わらなければ、夏には二月時点と同じく虱潰しに発生源を潰して行けるだろう。ある程度の距離感は仕方が無いのだが、マスク義務などは暑くなる前に止めるべきだろう。

久しぶりに昼間のスーパーに行った。マスク義務になってから初めてだ。やはりすれ違う感覚が短い。あれでも感染が広がっていないのなら結構なことだ。劇場などは換気さえ整えればそれほど問題はないと思う。それを考えるとやはりバイロイトの祝祭劇場は厳しいと思う。反対にザルツブルクのフェルゼンライトシューレは天井を開けることが出来るので大変有利だ。また設備の新しい劇場やコンサートホールは今後有利になると思う。



参照:
ニューヨークタイムズの報道 2020-05-20 | 音
モニターの前の評論家 2020-05-04 | 文化一般
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今年の昇天の日

2020-05-21 | 
キリストの昇天日である。朝から頂上コースを攻めて来た。やる気があった訳ではなく週末に雨が降りそうなのでここで一発かましておかないと運動不足になる。出足が遅れたので、陽が昇って暑さが怖かった。既にワイン地所を散策している老夫婦が居た。年寄り二人とも朝が早いというのも何か裏寂しい、屹度就寝も早いのだろう。駐車場に行くと小型キャムピングカーが停めてあって親仁が何かしていた。黒い森のフロイデンシュタットのナムバーだった。

じっくりと体操をしてからゆっくりと走り出して、完走できるか疑心暗鬼ながら、ペースを落としていたので、胸に来たのは第二の岐路から頂上領域の下までの間ぐらいだった。陽射しもほどほどで良かった。頂上に着くとキャムピングの中学生小僧のようなのが居て濃厚接触になっていた。それ以外は道中誰にも合わずに戻って来た。今年はコロナ騒動でパン屋が日曜日に空いていないので頂上コースを走る回数が多い。四回目ぐらいかもしれない。

夕方の気温が摂氏28度にもなるので朝のうちに汗を掻いておくと気持ちがいい。夏はこれが一番いい避暑である。まだ今年は階下の椅子に座っていると足が冷たくなるぐらいだ。まだまだこれからである。

前日に八百屋に行くと店の前でピエロのような看板を首から下げている若者が居た。面倒だなと思って避けてマスクをつけて店に入ろうとすると入り口近くで「貧しい人たちに」と声を掛けられる。財布は手で持っていたのを忘れて、ポケットに手を当てて小銭が無いようなそぶりをすると、丁寧に挨拶までされた。要するにあれだと直感した。

つまり物乞いも寄付の形をとれば大きな顔をして大きな金を集められると分かった。まさしく「貧しい人」というのは彼自身のようだが大きな顔をしていて穴の開いた缶を掲げていると募金としか思われない。私も肖って紛らわしいWho's Whoとかロゴを書いてコロナに苦しむ人へとかで稼ごうかと思う。そこまで考えると、まさしくそれをやればいいのはアンネゾフィームターである。大きな街の中心に行って、警察が来るまでの数分間に一曲弾いて、「フリーランスの音楽家の為に」金を集めれば、一晩の彼女のギャラも集まるかもしれない。まさしく税金などと不届きなことを言わずに彼女自身の為に募金活動をすればいいのだ。周りの人が缶を持ってねり歩けば充分だろう。お礼を言われるだけだ。嘘をつかなければ詐欺ではない。



参照:
僅かばかりの石鹸だけ 2020-05-05 | 雑感
厚顔無恥に十万円呉れてやれ 2020-04-22 | 文化一般
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ニューヨークタイムズの報道

2020-05-20 | 
(承前)ギュンター・グロイスボェックは先月末にフランクフルターアルゲマイネ新聞のインタヴューで面白いことを語っていた。除けておいた古新聞のその記事に初めて目を通す。ZDFが3SATの為に劇場前でインタヴューしていて、少し離れて耳にしたのが、バイロイトに関する質問だった。要するにあそこは条件が違うと話していた。そのことを新聞でも語っていて、「新しい客席コンセプトにはバイロイトの劇場は余地があまりない」としていて、実際にカタリーナ・ヴァークナーがキャンセルに際して、「音楽において、(大規模雪崩災害に続きスキー場感染で再び悪名を馳せた)イシュグルになりたくない」と語り、自分もそう思ったとしている。

その一方、見通しの効かないオペラにおける再開は、彼自身のようにフリーでありながらもトップクラスのギャラを取る人間にとっても決して不安が無いわけではなく、他所では眠れぬ夜もあったとしている。それでも現在テッシンに住んでそもそもそれ程の贅沢をする訳でもないので、つまり通常の病欠での30%減ぐらいは考えているが200%減は想定外という。そこでオーストリアでは公開文章が出されてたらしい。つまり業界の個人的に付き合いのある人間の半数は半年この状況が続けば経済的に生き延びれられないと語っている。

そう言うことで、ヘッセンの劇場がドイツの他の劇場に先駆けて再開したのだが、そのオーガナイズなどにも興味があった。詳しくは3Satでインタヴューの内容を知ることになるかと思うが、百四十人の為でもどのように椅子を別けるのかなど興味もあり、又初めての劇場なので充分に時間的余裕をもって出かけた。だから駐車場の夜間料金が始まる18時を待って駐車したが、結局現在は夜間料金は無かったので9ユーロ50ととても高くついた。これが今回のただ一つ不満なところだった。その分最低料金に近い105セントで燃料を入れられたので、高くついた分は取り返せた。その他プログラムもA4一枚で無料で、飲み食いしなかったので一銭も使わずに済んだ。

「希望」の朗読に続いてゲーテの詞による「プロメテウス」のピアノの前奏に続いてレチタティ―ヴとなる。ピアノの響きもそのアーティキュレーションも全く感心しなかったが、このプログラムイングの流れでのそれはそのオペラでの技能を示していて、やはりその方での活躍に違わないものだ。

グロイスボェックのオペラは、何度か生で経験しているが、どちらかというと抑制のきいた舞台と歌で、ツェッペンフェルトなどよりの華が無い。その音楽的な特徴はここでもあって、もう一つ食い足りなさを感じさせるのはピアノの責任だけではないだろう。昨年は、「フィデリオ」でのロッコと「パルジファル」のグルネマンツを其々ミュンヘンとバイロイトで聴いた。後者のそれはヴェテランのルネ・パーペのようにテクニカルに抑えてくるというようなことは全くなかった。自然に楽に声を出しているという稀なバス歌手なのかもしれない。

その分力動的な歌は歌詞の力以上に声の強さと豊かさなどが大きな渦巻きとなるので、船乗りへの歌にかけてのドラマの作りが上手く嵌った。無理をせずにも低音もしっかり抑えることが出来て、上へも伸びて歌えるというのは、やはり世界中で引っ張りだこになっている筈だ。それでも今回の騒動で2025年まで決まっていた契約の一部が破棄されたり、まるで通信簿のような味気ない「当分は出番がありません」というような通知を有名劇場から受けたという。それに比べれば、METのゲルブ支配人が書いたものとかカタリーナ・ヴァークナーからの直々の電話は有り難かったというのも分からぬではない。そのようか、昨年のバイロイトとの関係もあって今回支配人のラウフェンブルクとのプログラムの打ち合わせが結実したという事らしい。

ニューヨークタイムズの報道によると、今回の欧州初の偉業の背景で支配人ラウフェンブルクの活動がAfDに呼応しているとされている。要するにコロナペギーダと呼ばれる現象で各地でコロナ対策反対運動に陰謀論が重ねられてネオナチ化しているという話題に共通している。そもそもあの下らない演出がバイロイトで採用されたというのもカタリーナ・ヴァークナーのエゾテーリックな面で共通していて、典型的な無教養や教育程度の低さとして、トラムプや安倍政権やその身辺に共通している所謂無知主義的な運動でもある。(続く)



参照:
延期になったバイロイトの声 2020-05-19 | 音
指揮科教授のバイロイト 2019-08-19 | 音 
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延期になったバイロイトの声

2020-05-19 | 
アンコールは、バイロイトで夏に演奏される予定だったそのものを披露した。どうして歌手のギュンター・グロイスボェックがそのピアニストを選んだが分からなかった。個人的な付き合いなのかどうかとか思っていたが、決して舞台で近づくこともなかった。しかし最後のそこで分かった。

グロイスボェックはこの夏新制作「指輪」でのヴォ―タンで話題の中心となる筈だった。その時の付帯プログラムでそのピアニストとこの「惜別の歌」を披露する予定だったらしい。周りでそのように呟いている人もおり、本人もバイロイトの彼女とのプロジェクトだったと紹介していた。

ピアノ編曲はリストのものか誰のものかは分からなかったが、その為にこのピアニストと会を開いたようなもので、レコーディングで聴かれるようなフーバーの伴奏とは大きな差が出るのは致し方が無い。特にシューベルトの歌曲ではそれなりの流儀があるだけでなく、リズム的な精査でも大分損をしていた。まあ、ヴィースバーデンのヴァークナー協会の連中ぐらいはシューベルトの良さなどはどうでもよいのだろう。到底150人に満たないと思われないほどのブラヴォーが飛んでいた。

という訳で天井桟敷の人々はそういう地元の劇場常連さんが顔を揃えていたようで、ヴァークナー協会ヴィースバーデン支部と化していた。確かに予想外で挟まれていたレーヴェの三曲も全然悪くはなかった。つまりHPにあったプログラムに支配人のラウフェンベルクに朗読をさせて、19時半から22時前まで、満席にならないでもそれ以上の公演内容にしていた。休憩を一度挟んでいたが、全く長さを感じさせない公演内容で充実していた。

但し、このバス歌手をリート歌手としてしまうとやはり歌詞の明瞭性やその芸風としてはまだ物足りない。バイロイトのプログラムに言及していた隣の老夫婦が「まだ若いからね」というのを耳にすると、まあ必ずしも見当違いの講評でもないとも言える。

出かける前にバスバリトンのクヴァストッフの録音も幾つか聴いたが、この人も音楽づくりという事では楽譜を拾う以上の歌は歌えていない。あそこまで集中してレパートリーを積み上げている人だからもう少し歌えるのかと思っていた。やはり早めに引退してしまうのはなにも体調の問題だけではなかったろう。その意味からすれば「若いから」というのも事実で同時にオペラ歌手のリートであることは間違いない。

なるほどそうなるとマティアス・ゲルネの歌唱を考えるが、こちらはオペラ歌手として成功しておらず、そのオペラティックな表現でも声が出ない分をピアノで表現を作るような努力をしている。しかしそれが全てでダイナミックスで歌詞に語らせる力が無い。その点では深々とした声があることで全ては容易に働く。

やはり一流のオペラ歌手はレティタティーヴの扱い方やそのオペラティックな表現が巧い。「ヴォ―タンの惜別」だが、これは今年歌っていたならばあのヴォルフガンク・コッホのベルカントの軽く明るい声との好対照で、低く重めに響く。ヴォ―タンというとどうしてもテオ・アダムを思い出してしまうのだが、後年の歌は酷いものであり、グロイスボェックのような声は全くなかった。なるほど、終幕のフィナーレでどれほどの声が出せるかはまた異なるかもしれないが、いい指揮者と組めば大いに期待される歌唱である。生憎、後奏の所で喉からゴホゴホと出てしまった。ハンカチで抑え込んでいたが中々抑えきれなかった。

会の最初にラウフェンブルク支配人が舞台に出て来て、マスクを取って貰っても構いませんとなった。そして帰るときはまた来たときと逆にやって貰うようにと、シラーの「希望」の朗読前に挨拶があった。(続く



参照:
中々売れない高額席 2020-05-17 | 文化一般
シューベルトでの歌唱力 2020-05-18 | 雑感
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シューベルトでの歌唱力

2020-05-18 | 雑感
ヴィースバーデンでの公立劇場再開公演の券が売れない。数えてみると212席中146席しか売れていない。月曜日の当日券で出ても30席ぐらいだろう。ざっと計算して券の売り上げが5000ユーロ弱、本来ならば6000ユーロで、歌手とピアニストで5000ユーロ弱を別けて、あとは経費にしたかった。

お勉強に幾つかの録音を耳にした。シューベルトでは最も多いのはフィッシャーディースカウの歌唱だ。流石にと思う反面、音楽的な流れでは流暢でないところもある。亜流とするゲルハーハーの方が優れている面である。その意味では初めてシューベルトで聴いたマティアス・ゲルネの歌唱は音色とかサウンドに凝り過ぎていて全く歌詞の力が及ばない。ダイナミックスをつけて如何にも歌詞の力のように見せる芸風を思い出した。要するにオペラ的でもあるのだが、オペラ歌手としてもそれほど成功しなかったからの折衷の道だったのだろう。始めて聴いて良かったと思うのはクリストフ・プレガルデンがピアノフォルテのシュタイアーと合わせたもので、流石に面白く細やかだ。結局オペラ歌手なのかリーダー歌手なのかというよりも、巧い人はどちらも上手い。

久しぶりのシューベルトの歌曲などを見ると、今までよりも様々な事が気になって来て、歌詞なども流して聴いているだけになってしまう。楽譜で直ぐに見当がつくこともあるのだが、どうしてこうなっているのかと思うことが出てくる。思い出すのは丁度1月のアルテオパーでのマルカンドレ・アムランの弾いたピアノソナタのそれだ。あの時に最初にコロナに感染したかもしれない時だった。

あとで何度も思い出すのだが、最前列の中華人が後半が始まる前に出て行くときに声を掛けて最前列に滑り込んだのだった。二人の若い男性で、衣裳は若干変わっていたが、フランクフルトの音大にでも通っている学生かと思った。なぜならば前半のファインベルクなどを聴いて、後半のシューベルトを捨てたからだ。それも別々な場所にいた二人である。勿論その時刻から列車でマインツなど近郊の街へ帰ったのかもしれないが、そこまでして後半を捨てた意味はよく分からなかった。しかし、あの時の最前列の男がコロナで不調だったとしたら辻褄が合うかもしれない。

もう一人の男性が後ろまで来て待っていて、後半が始まる前に一緒に帰って行った。その男性がどこに座っていたのかなどは分からないのだが、私が最前列の男が帰宅することが直ぐに分かったのだ。どうしてだろうか?後半が始まる直前というほどでもなく、最前列に滑り込んでからも横には誰もいなかった。そして私も帰るのかどうかを本人に確かめたぐらいだ。有り得るのは椅子の所に何かを置いていてそれを取りに来るときにもう一人が後ろで待っていたということだろう。すると本来は居る心算がもう一人の男性と話していて帰宅となったのだろう。体調不調もあれば、二人で誘い合わせて帰ろうとなったのかもしれない。一人の様子からすると旅行者では無く、ドイツ語も理解していたと思うのだが、当時はまだミュンヘンでのコロナ第一号も無かったので、旅行にも制限が掛かっておらず自由だったので、もう一人の男性が武漢から来ていたこともあり得る。そしてその男が居たまだ暖かい椅子に座って触りまくっていればオリジナル型でも感染した可能性があると思う。そして十日もしないうちに高熱を出したのだった。



参照:
中々売れない高額席 2020-05-17 | 文化一般
コロナウイルス狂想曲 2020-02-29 | 暦
野趣味溢れる趣味の良さ 2020-01-31 | 音
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