Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2005年12月

2005-12-31 | Weblog-Index



開かれた平凡な日常に [ 文学・思想 ] / 2005-12-30 TB0, COM0
フラメンコの巷のほこり [ 生活・暦 ] / 2005-12-29 TB0, COM0
複製消費文化の興亡 [ 文化一般 ] / 2005-12-28 TB0, COM0
典型的なザウマーゲン [ 料理 ] / 2005-12-27 TB0, COM4
残糖感 - 試飲百景 [ ワイン ] / 2005-12-26 TB0, COM2
魔法の方陣を巡って [ 数学・自然科学 ] / 2005-12-25 TB0, COM4
公共放送の義務と主張 [ 生活・暦 ] / 2005-12-24 TB0, COM2
化け物葡萄の工業発酵 [ ワイン ] / 2005-12-23 TB0, COM4
廉く簡易な公共放送 [ 生活・暦 ] / 2005-12-22 TB0, COM0
BLOG散歩の例語集 [ Weblog ] / 2005-12-21 TB0, COM0
採れ取れリースリング [ ワイン ] / 2005-12-20 TB0, COM3
考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19 TB0, COM6
シラーの歓喜に寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-12-18 TB1, COM2
見落とした年間リリーズ [ 文化一般 ] / 2005-12-17 TB0, COM4
ブルコギ鍋のおじや [ 料理 ] / 2005-12-16 TB0, COM2
コン・リピエーノの世界観 [ 音 ] / 2005-12-15 TB2, COM12
拘りのアッペルヴァイン [ 料理 ] / 2005-12-14 TB0, COM5
失敗がつきものの判断 [ 歴史・時事 ] / 2005-12-13 TB0, COM2
音楽愛好家結社 [ 音 ] / 2005-12-12 TB0, COM0
街の半影を彷徨して [ アウトドーア・環境 ] / 2005-12-11 TB0, COM2
非日常の実用音楽 [ 音 ] / 2005-12-10 TB0, COM6
オペラの小恥ずかしさ [ 音 ] / 2005-12-09 TB0, COM0
現代の古典の供給 [ 文化一般 ] / 2005-12-08 TB0, COM2
チーズと甘味とワイン [ 料理 ] / 2005-12-07 TB0, COM2
親切な刑事告発Eメール[ 雑感 ] / 2005-12-06 TB0, COM2
ジャーナリストの本懐 [ 歴史・時事 ] / 2005-12-05 TB0, COM4
目的に適ったマニュアル [ 文化一般 ] / 2005-12-04 TB0, COM4
ヴァイマールからの伝言 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-12-03TB0, COM6
完全自動走行への道 [ テクニック ] / 2005-12-02 TB0, COM4
厚切り咬筋と薄切り肝臓 [ 料理 ] / 2005-12-01 TB0, COM9

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開かれた平凡な日常に

2005-12-30 | 文学・思想
フリードリッヒ・シラーの最晩年の作品「ウイリアム・テル」は、目論んだベルリン初演が遅れ、1804年の3月17日にヴァイマールで初演され、7月4日のベルリン上演を挟んで、7月15日にマンハイムの宮廷劇場で上演されている。1793年のルイ16世らのギロチン執行から十年経っているとは言え、舞台となるスイスのルツェルン湖周辺はナポレオンによって自治が侵されていたので、この芝居が政治的意味を持たずに上演される事は不可能であった。

そのような理由だけでもないだろうが、この戯曲への評価は当初から割れていた。悲劇の主人公を描いた「群盗」や「ドン・カルロス」と同じようにアウトサイダーでありながら一匹狼の家族持ちの主人公テルの性格と其れを取り巻く社会の描き方が原因になっているのであろうか。前者で描かれた一途な若者の肖像は消え失せて、後者ではヴァーグナーの「パルシファル」や「魔笛」のタミーノのようなドイツ啓蒙主義的な成長が描かれるからである。それ故に、示される世界は解放されたまま閉じる事無く、旨く行けば劇場からもするっと巷へとはみ出す様な形態となっている。そのような時間的経過を持った肖像を英雄視しようと試みたのは、世界革命を旨としたイデオロギーではなくて、アドルフ・ヒットラーであったと言う。その後、スイス内の民族主義的盛り上がりやスイス人による暗殺計画があり、独裁者はこれを急遽上演禁止にした。暴君への抵抗と解放は、ヒットラー暗殺計画者が第三帝国下の善意の象徴となっている現在のドイツ連邦共和国で、暗殺者テルと重ね合わされる可能性を先ず知って置かなければいけない。これらの意味から、「マイスタージンガー」と同じく既成化された記号から逃れる事が解釈の目的ともなる。

さて今回のラングホフ氏の記念上演演出は、2006年2月22日まで計10回上演される。この演出では、判断保留をそのまま舞台の上に提示する事に重点が置かれていて、非イデオロギー化に全力を尽くす一方、戯曲の主題でもある開放や情念への懐疑が多極化されて見え隠れするように描かれる。そうする事によって、シラーの言う素材と形態が見て取れるようにとの配慮がある。

一幕冒頭における牧童や猟師に対する漁師の職業の位置づけや、近隣の団結と拘束されない自由人、為政者の心情告白、現状認識と対抗意志、現状打破と無力感などが自然な緊張感を以って並列されて行く。それは、「ドン・カルロス」のスペイン王フェリッペ二世のような苦悩の男爵と甥のディアローグに見られる、緩やかな隣合わせの配置でもある。背景の山を三角の八つほどのブロックにして其々を前後に動かすなどのアイデアも、ヴェルディのオペラ「ドン・カルロ」で故ヘルベルト・ヴェルニッケが採用していたような「形態の心理学」を利用する事が無い分、好感が持てる。またその小山を若い青年に登らせようとする情景は、簡素ながら無力感を効果良く強調していた。しかし、この演出家の手堅さはそのような意識化されたメッセージなどにではなく、土地の者が他の土地の者と集まって合議する情景などに集約されている。その者達がどれほど政治的素朴とはかけ離れていることかを感覚的に明確に示す。そしてある民族が、1000年も居座った土地で、そこの前近代的な自然共同体を通して理性的共同体へと至る過程が描かれる。

圧政者への従順は、銃器を持った為政者の慟哭・脅迫となり、ついには自由人テルに自らの子供への射的を迫る。その客席へと向けられた銃先は、今しがたまでの長閑な情景から、一瞬にしてテロの狂気へと観衆を落とし入れる。微妙に暈された演出は、辛うじて第三帝国との重ね合わせを避けてより一層の普遍化を計る。これは大変に賢明な方法であって、最近頻発するステレオタイプな表現やグロテスクな表現に対する批判でもある。一つ一つの情景や台詞や表現は、その瞬間に生成したようでなければ本当の効果を持たない。分析・解析しやすい演出は、評論家や物知り顔の観衆の為に存在するのだろうか。

特定の文化的記号の強調や表現をモットーとする事を敢えて避け、丁寧に「素材」を点検して矛盾しないような「形態」を与えて行く。其れは情緒であったり分析困難な感興でもあったりもするのであるが、映画の映像表現に比べ、言葉と動作更に気配による表現はより一層日常的な感性に訴える。これがシラーの狙ったものであり、辿りついた境地でもあろう。この二つの概念によってオペラ芸術には無い日常が再定義される。(フラメンコの巷のほこり [ 生活・暦 ] / 2005-12-29 より続く)



参照:
シラーの歓喜に寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-12-18
2005年シラー・イヤーに寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-01-17
更に振り返って見ると [ 歴史・時事 ] / 2005-10-09
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フラメンコの巷のほこり

2005-12-29 | 生活
芝居が退けてから、スペイン料理を採る。予定通りの行動であった。いつも行きたいと思いながら、なかなかここで食事をする機会が無い。何時もながら大変満足出来た。未明迄食事の出来る数限られる店であるばかりでなく、料理の内容も雰囲気も良い。通常の営業時間だが結構楽しめた劇場前の高級ヴェトナム料理店が無くなったので、今後は市内ではここが最も馴染みである。

この店で楽しめるアンダルシア料理の魚は、如何しても見逃せない。パエリアなども良かったが、未だ肉類を充分に試していないので、何れはこれも試したい。劇場客をターゲットにした近所のイタリア料理などと違い、スペイン人客が多い事で分かるように庶民的な雰囲気が良い。カウンターやインテリアや照明なども古びた感じで、落ち着きと独特の生活観が満ち溢れている。イタリア料理も本格的な家庭料理や簡易な食堂があれば良いのだがなかなかドイツにはない。

ベルリンやミュンヘンなどでも劇場の近くにはこのような店があるが、意外に良い店は少ないような気がする。オペラ帰り客を当て込んだイタリア料理などは、高くてもそれほど良くないのが一般的だろうか。オペラ帰りにフラメンコの実演は其れほど愉快ではないが、芝居帰りに暗闇で爪弾くフラメンコギターを背に、魚の取り合わせの皿を赤のリオハと食すのは心地良い。

レストランの客層に見る様に、オペラと芝居の客層は大分異なる。オペラの聴衆は舞台の下は枯れた老人が主体で、其れに比べると芝居の観衆は断然若い。平均年齢にすると、20年ほど違うだろうか。劇場によっても違うだろうが、州立劇場や市立劇場の最も保守的な劇場ですらこれほどの差がある事から、欧州のオペラは今後20年もすると消え伏せる常連客と共に朽ちて仕舞うのかもしれない。それとも老人オペラ劇場などと言う舞台で、毎晩のように死臭を燻らすのだろうか。

シラー没後200年記念の年の瀬に、作家に所縁あるマンハイムのナショナル・テアターで「ウイリアム・テル」を観劇した。当日券は、殆んど完売であったようで、廉い席は既に売り切れていた。我が子の頭上の林檎を射抜くシーンがあるからではなかろうが、子供連れも多かった。

これはシラー最晩年の作品でもあるが、多くの芸術家、特に音楽家の最晩年の作曲若しくは白鳥の歌となって深く関わっている。この戯曲は、ロッシーニの最後のオペラにもなり、ショスタコヴィッチの最後の交響曲にも「トリスタン」や「神々の黄昏」等と共にテル序曲の有名なファンファーレが使われている。今回の上演では、ハンス・アイスラーの白鳥の歌である舞台音楽が使われている。

本年6月4日に新演出上演された「ウイリアム・テル」は、大ベテランのトーマス・ラングホッフが没後200年記念の特別公演の為に演出した。最近、ラングホッフ氏はオペラの演出を手掛ける事も多いようで、本年はミュンヘンの劇場の「マイスタージンガー」の日本公演での不評が伝えられて未だ耳に新しい。(開かれた平凡な日常に [ 文学・思想 ] / 2005-12-30 へと続く)
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複製消費文化の興亡

2005-12-28 | 文化一般
コピー防止機能が大きな問題になっている。本社独ベルテルスマンの社長の首が飛ぼうとしている。ソニー・BMGの合弁メディア企業は、英国のEMIと並んでCD等にコピー防止の機能を付けているようだ。

コピー防止機能の問題は、事情通から話を聞いていて良く知っている。当初からCDプレーヤーによっては再生出来ないなどのケースが多く返品が多かったと言う。故に、コピー防止付きの製品は一切買わない需要者も多いらしい。その反面、誰がこんなものをコピーするかのと思うようなクラシックCDにコピー防止機能を謳っているマイナーレーベルもあった。

今回の米国内での騒動は、コピー防止CDをPCに入れて試みたところ悪質なソフトウェアーにやられて被害が出たと言う事で、XCPというコピー防止ソフトが入った本年発売の50タイトルの五百七十万枚がリコールされ、無料でコピー防止機能無しのCDに交換されたらしい。これだけで一千万ダラーの損失のようだが影響は其れに止まらないらしい。

事件の発端は、これに気が付いたサンフランシスコの読者批評の投稿家通称パンプキン・キング氏が10月末の発覚後にアマゾンに書き込んだ不買運動の呼びかけのようである。その結果、最も重要な米国市場での企業イメージの失墜によるシェアー落ちから上半期に続いての第3四半期では六千万ダラーの損失計上となっている。

更にFAZ紙によると、BMGの本拠地であるドイツでは、主にソニーが標的となっているようで、来年3月に予定されているプレーステーションIII の不買運動が叫ばれているようである。

コピー防止機能の問題は、ここでも改めて著作権関連シリーズとして扱うが、その産業形態だけでなく、商業形態や、文化消費のあり方を考えなければいけない。一企業の興亡やネット情報の影響の問題ではないのである。増してや其れに伴う株価の変動などを考えているようでは、打開策は見付からない。



参照:
著作権のコピーライト-序章 [文化一般] / 2005-08-05
著作権の換金と集金 [文化一般] / 2005-08-07
石林の抽象への不安 [ 文化一般 ] / 2005-10-25
こんな物は要らない [ 生活・暦 ] / 2005-10-26
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典型的なザウマーゲン

2005-12-27 | 料理
クリスマス用に本物のザウマーゲンを買った。何処かのお店では食べた事がある「本物」だが、直接買うのは初めてである。元々名物としてあったものだが、時の首相ヘルムート・コール博士が世界の首脳をワイン街道に招いた折にこれを何時も振舞ったのでプライム・ミニスター・ステーキと呼ばれるようになった。

ゴルバチョフ大統領、イェルチン大統領、サッチャー首相、メージャー首相、カルロス王など、ダイデスハイムでの昼食として振舞われた。このザウマーゲンは、歩いて鼻の先で作られているのだが、門前に肉屋があったので余計にこれを買う機会は無かった。その肉屋の閉店の影響もあり、最近は小売販売に力を入れている事を知り、如何しても本物を試したくなったのである。

さて、驚いたのはその種類の豊富さで、5種類以上のザウマーゲンがある。その中から栗の入ったミニザウマーゲンを、本物ザウマーゲンと共に購入する。その栗の味は以前に食べた事もあったが、またこれは格別であった。フライパンに引っ付き難いのも素晴らしく、通常のザウマーゲンと比べて調理しやすくて、大変上品である。

「本物ザウマーゲン」は、何よりも本物の豚の胃の皮が付いているのが嬉しい。これが食べられるレストランは、知る限り一軒しかない事を考えると、家で何時もこれを食せるとなると大喜びである。その焼けた胃の皮が何ともスルメのようで味わいがある。更に、これが焼けるに従って縮んでくるので、中に入っているジャガイモも壊れずに、肉もふやける事無くフライパンに引っ付き難い。と言う事は、肉汁を失う事が無くて美味しさを逃さないのみならず、安易に調理出来るので大変素晴らしい。

床屋でこの事を話すと、人数が集まれば胃袋毎購入して、ソーセージのように胃袋のままお湯に浸けて食すれば良いと聞いた。そのようなパーティーをした事が無いので、機会があれば是非これをしてみたいと、また楽しみが増えた。油に掛けるのと違って、香辛料と肉等の中味の味を暖めただけで純粋に食べれるので、大変なデリカテッセンに違いない。どのようなリースリングワインを開けたら良いのだろうかと考えるだけで嬉しい。

ホームページをみると台湾の業者が買いつけをしていて、そこでもこのザウマーゲンを売っているようだ。そう言えば、数年前に中国人風の背広のグループを天窓から見かけていて、その目撃時刻からして何の商用だろうかと不思議に思った事がある。

マーガレット・サッチャー首相は、このザウマーゲンが余り口に合わなかったらしく、ヒースローへの帰路の飛行機の中で一連のコール首相の歓待を評して、筆頭秘書官に溢したらしい - “So typical German“ 。



参照:
利のある円錐形状 [ 料理 ] / 2006-01-26
昔は良かったな [ 生活・暦 ] / 2005-06-18
公共堆肥から養分摂取 [ 女 ] / 2005-01-11
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残糖感 - 試飲百景

2005-12-26 | 試飲百景
クリスマス前に幾らかワインを買い足した。手前知ったる試飲部屋に入ると、そこには先客が居た。何処かで一度見かけたような30代前半の男性である。試飲を終えてワインを注文をしていた。先方から挨拶しないところをみると初対面なのかも知れない。車はダルムシュタットナンバーで、一人で来ていた。

気になったので尋ねてみた、「好いもの見付かりましたか?」。

「ううん、僕は辛口が好きなんで」と、またこれは聞き覚えのあるような若干低く潰れた声で答えた。

「僕もそうですよ」。

すると、急に勢いついて喋り出す、「ここのワインは、まだ甘くてね。もう少し辛口が本当は好いのだけど」。

「そうですか。ここのワインは結構辛口の方だと思うのですが。」と間髪を入れずに反論する。

するとメガネの奥の眼を光らせて、「ここは残糖値の分析値が6グラムぐらいでしょ。」。

こちらも勝手に言わせて措けないと思い、「最近の傾向は、寧ろ半辛口と辛口が合体して仕舞った傾向がありますから、むしろ多くはリッターあたり9g近くまで広がっていますよ」。

すると「1gという所がありますよ。」と笑みを浮かべながら勝ち誇ったように言う。

私は何時もの調子で、「もしかして、糖尿ですか?」と不躾に聞く。

彼は、「違いますよ。」ときっぱりと否定する。

「いや、そう言う訳でなくて。糖尿病向けワインにも好いものが」と言い掛けると店の者が勘定書を携えて入って来た。

私は、何時ものワインと比較的新しいお試しのワインを携えて、夕刻のワイン畠を左右に車を走らせた。「そうだったな。僕も、以前は。あれは、辛口原理主義者と言うのだろうな。」と考えると、何気なく口元が緩んだ。

これを書きながら、試しに買った安い辛口ワインの仄かな甘みが気になり出している。



参照:
試飲百景-前書き [ ワイン ] / 2005-01-22
意志薄弱なワイン談義-試飲百景 [ ワイン ] / 2005-04-18
試飲百景-アイラークップの古いワイン [ ワイン ] / 2005-01-22
試飲百景-深い香りの中で [ ワイン ] / 2005-03-02 2005-03-01
意志薄弱なワイン談義-試飲百景 [ ワイン ] / 2005-04-18
プレゼンテーション上手-試飲百景 [ ワイン ] / 2005-04-26
大馬鹿者たち-試飲百景 [ワイン] / 2005-06-18
ワインの適温-試飲百景 [ワイン] / 2005-07-02
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魔法の方陣を巡って 

2005-12-25 | 数学・自然科学
数独が独逸で流行っている。今年の春ごろからの傾向であるようだ。余り興味が湧かなかったのは、ロウティーンの頃に買った二冊の専門書の内の一冊が魔法陣の本であった個人的な思いがあったからなのである。改めてこれについて話題になったので、その現象や作り方の解説を読んでみた。

何といっても気になるのが、所謂ラテン・ギリシャ等の方陣で、18世紀の大数学者オイラーが提出した仮説である。最も上手に説明しているのが、チェスの駒を色分けして(将棋でも構わない)説明してある米数学協会のサイトである。

nxnのn^2個に分かれた正方形のマス目の中に、n個の列とn個の段にn種類の連隊とn種類の階級を配置する。そして、同じ列と段に同じ連隊が重複しないように、また連合隊の階級が重複しないように並べて行く。6連合国6階級の駒からは、所属や階級が重なる事無しに条件を満たす新たな連隊を構成出来ない事を、この大数学者が発見した。

要するに6x6、10x10や16x16、18x18では不可能で、即ちk=4n+2では条件を満たさないとの仮説を提示した。この仮説は、1901年に初めてその一部条件での不可が証明されて、188年後の1959年になって今度は反対にn=10の場合の存在が確認されて、n=6以外条件での仮説公式が自体が否定された。

オイラーは、所謂グレコ・ラテン方陣を頭の片隅に入れていたようである。1960年当初にフランスで休暇を過ごした米国の数学者が、これを面白く説明している。フランスFとアルジェリアAの三人づつの外交団が其々三組に分かれて、其々一組に一人の仲介役を入れて三人一組が三組、三箇所の目的地に行く計画を立てるというものである。これを組み合わせて、どの外交官も三つの目的地tに其々違った三人の仲介者mと出かける事になる。

    F1    F2      F3
   ----------------------
A1 | t1 m1   t2 m2   t3 m3
A2 | t2 m3   t3 m1   t1 m2
A3 | t3 m2   t1 m3   t2 m1


同じような設定は、n=2とした場合不可能である。違う目的地に同じ仲介者と行かざらなくなるので条件を満たさないからだ。さて、このような条件を満たす、其々の属性が明確に定義されているものをラテン方陣として措こう。y軸とx軸が90度に交わる揺るぎ無い空間を想像しても良い。同様な説明にトランプのカードを使うものがある。キングやクイーンなどと独立して、ダイヤとかハートが存在するのでこれを同じように独立した属性として扱う事が出来る。

ここで、n=10とした時の解法となった基本的な考え方を参考に見よう。其れによると、10^2のマス目に00-99までの番号を以下の規則に従って置いて行くというのである。

1、 其々の列には、十桁の位の数字が各々唯一つになるように置いて行く
2、 其々の段には、十桁の位の数字が各々唯一つになるように置いて行く
3、 其々の列には、一桁の位の数字が各々唯一つになるように置いて行く
4、 其々の段には、一桁の位の数字が各々唯一つになるように置いて行く

こうする事によって、其々の列と段に00-99の数字から唯一の数字しか表れない事が保証される。この方法は、十桁と一桁を其々ギリシャ文字とローマ文字を当てはめていったグレコ・ラテン方陣の名前の由来にも相当する。

さてここでもう一度、オイラーが魔法陣にも興味を持っていた様でなので顧みてみる。最初に少し触れたが、nxnのn^2通りのマス目に埋められた数字がどの列を足してもどの段の数字を加算しても同じ数字になるような方陣を魔方陣と言う。ここまで述べてきた事柄で直感が働くかもしれないが、上の二つの属性に対して其々に違う値を与えて、加算すれば魔方陣となる。具体的にいえば、ダイヤに4、ハートに2、キングに13、クイーンに12などの値を適当に其々に与えて見れば良い。考え方は他にも存在するが最もこれが単純な様だ。

こうして作る事が出来る方陣のシステムが、二つのラテン方陣を合わせた所謂直交するグレコ・ラテン方陣であって、もちろんこれらの考え方はプランニングなどに使われており、そのn=10の可能性の組み合わせが群に別けても未だにクレーコンピュターで20時間!も掛けて計算されているというから驚きである。

個人的に懐かしい魔法陣の作り方に再会する切っ掛けとなった数独も、流行る以前から中国人がそれを算出するソフトを開発していたとして苦情を申し立てている。子供の頃には、その切っ掛けすら摑めなかったのを実に悔しいと思う半面、Recherches sur une nouvelle espèce de quarrés magiquesとして1782年にこの問題を論文に出しているオイラーが若き日に解いたバーゼル問題などを思うと、その数学的直観力には当然の事ながら只驚愕するしかないのである。

レオンハルト・オイラーはバーゼルのリーエンで1707年に生まれ、既に幼少の頃にベルヌーイなどに見出された。この師と共に1727年には女帝エカチェリーナ1世のぺテルスブルクで研究に勤しんでいる。1741年から1766年までは、ベルリンでフリードリッヒ大王のアカデミーに属していたが、その後1783年の死までぺテルスブルクに戻り、失明にも関わらず重要な論文を次々と纏め上げている。
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公共放送の義務と主張

2005-12-24 | マスメディア批評
民謡を主体とした世界最長寿の公開放送歌番組を紹介した。田舎の町にとっては、この公開録りがあると大イヴェントとなる。その熱気が面白いのである。お国自慢に其れほど奔らずに、ドサ廻り番組ツアーのスタッフが何とか地元に入り込もうとする姿が興味深い。決して、公共放送を通して紹介してやろうではないのである。だから、露骨な地元キャンペーンなども無いのが長続きの要因だろう。北京や新大陸からの中継などの大イヴェントを無事こなしているのも制作者の堅実さの表われか。これらの番組は、季節毎にやって来るゴールデンタイムのショー番組同様ドイツ語圏に住んでいるものは知らない者は居ない、ドイツ圏認知度試金石番組である。

さて、何時も偶々見てしまう料理番組「アルフレディシモ」があるが、これも西部ドイツ放送の長寿番組で10年以上続いているので、ゴールデンタイムに関係なく誰もが観た事がある。そのゲストの顔ぶれで無く、厨房にゲストを迎える顔が最も馴染まれている。番組のタイトルとなっているアルフレッド・ビオレック氏は、独第二放送で法律を学んだジャーナルストとして長く制作に関わっている。氏のチェコ人特有の愛嬌の良さがこの番組の変わらぬ人気を支えている。

番組は、ゲストの食事に対する志向を探りながら、準備されていた料理を作って行く。ワインが欠かせないのは当然として、鼻歌混じり、ハプニングあり、愉悦の時ありで進む。美味くもあり、不味くもあり。最も気になるのはその場で立ちながら食する事で、大変行儀が悪い。恐らく数限らぬ苦情が出ただろうが、遂行しているのには理由があるのだろう。編集無しにノンカットで進める番組作りの様々な利点を強調しているに違いない。公共放送は、ショー番組と言えども必ずジャーナリズムで無ければいけないと言う様な義務感と主張をここに強く感ずる。

錚々たるゲストの中で、先ずスター政治家からハンガリーからの出稼ぎ労働者で堵殺師を父親として運動家から後に外務大臣となったヨシュカ・フィッシャー、子守をしながらフランス料理を覚えて後に連邦議会長となり女性大統領候補と見做されて、プライヴェート公用機利用で批判されたリタ・ズスムート、ドイツアルパイン協会のハイナー・ガイスラー、元大臣レナータ・シュミット、自殺したコール元首相夫人、連邦議会唯一のワイン醸造親方・ライナー・ビュルダーレ、シュレーダー元首相の前任者ルドルフ・シャウピン、ドイツ赤軍の弁護師出身の前環境大臣ユルゲン・トリティン、ベルリン市長で同性愛者クラウス・ヴォーヴェライト、元大統領ヘルツォーグ夫人等。

作曲家からコックに転向したロッシーニではないが、口が卑しそうなと言う事でオパラ歌手も多い。ベルント・ヴァイクルルネ・コロクリスタ・ルートヴィッヒ、ジークフリート・イェルサレム、ザンドラ・シュヴァルツハウプトグレース・バンブリーボー・スコフス、レナーテ・ホルム、ギネス・ジョーンズツェリル・シュテュダーモンセラタ・カヴァリエ。指揮者のロリン・マゼール夫妻、バイロイトでオパラデビューした舞台監督のクリストフ・シュリンゲンジフ、オパラの大先輩オットー・シェンク。ジェームス・ラストやベルギーのアンドレ・リュウナナ・ムスクーリやカトリーナ・ヴァレンテ、アコースティックギターを一本のラインホルト・マイ、奥様ゴロシのウド・ユルゲンス、黒メガネのヒットスターハイノなどポップスターや最も有名な黒人タレント歌手ロベルト・ブランコもこれに加わる。

スポーツ選手では、オリンピックで12個のメダルを獲ったカヌーのブリギット・フィシャー、サッカーのナショナルチームのキーパーのヤン・レーマン、アルペンスキーのロージ・ミッテルマイヤーとクリスチャン・ノイロイトナー夫妻等。

文学評論家で、ライヒラニツキーに人気TV番組で侮辱されたジークリット・レフラー。

しかし何と言っても多いのが、TV局と関係の深い俳優達である。その前にハリウッドのスターを写し続けた重要なハリウッド映画カメラマンミヒャエル・バルハウスもいる。「タクシードライヴァー」や「ディープ・インパクト」のカメラワーク等である。数多い俳優の中で国際映像で見かけるのは、カリン・ドール。ショーン・コネリーの「007は二度死ぬ」のボンドガールでありヒッチコックの「トッパーズ」に出演。18作目の「Tommorow Never Dies」や「Der Untergang」に出演したゲッツ・オットー。15歳でデェイヴィト・ハミルトン映画に登場したアンニャ・シュッテなどを挙げて措く。

その他では、独TVの顔であるナレーターやアンカーマンの面々、戦後直ぐにエリッヒ・ケストナーやフォン・カラヤンやバーンスタインをミュンヘンのスタジオに招いた草分け的存在のマルゴート・ヘルシャー、その後輩のサンドラ・マイシュベルガー、現在の第二放送の顔ペトラ・ゲルスターウルリッヒ・ヴィッケルトヘラルド・シュミット、ニュースのお姉さんから民放へのブリギット・ショルヴァンゲ、ロシアレポーターのゲルト・リューゲ等他多数。

全体を見て通すと、TVでお馴染みの、仕事関係のある有名人に交渉して比較的廉く番組を仕上げている事が分かる。其れだからこそ簡単な番組にこれだけ有名な顔ぶれが集まるのである。(見逃せないTV番組 第二話)



参照:廉く簡易な公共放送 [ 生活・暦 ] / 2005-12-22
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化け物葡萄の工業発酵

2005-12-23 | ワイン
この19日に米国とEU間のワイン協定が承認された。20年間の論争の末、一年毎の延長をもって処して来たEUも米国のGATへの提訴の構えを受けて、承認するに至った。これに対して、ベルリンCSUの消費者保護省大臣ゼーホファーが、2006年元旦の執行を受けて徹底反対を訴えている。

問題は、これまでも輸入されていた米国産ワインが何らの差別も無く、EU産ワインと肩を並べて販売される事により、EUの基準が米国並みに侵される事が憂慮されるからである。

何故ならば、特にドイツの生産者は、その自然条件からその生産性に限りがあるからである。風が吹いたら、桶屋が儲かる式に言うと、米国ワインを認める事は、ドイツのリースリング栽培を瓦解させる。そこまではならないとしても、零細のワイン農家は淘汰されて行く。

ここでも何回かバイオワインと言うキーワードの下に採り上げているが、米国産ワインは、バイオの表示が無い限り、ありとあらゆる化学的な生産方法が許可され採用されている。香料を添加して、水を入れようが何を混ぜようがお構いない。しかし米国産ワインに対する批判は要旨ではない。ワインを健康食品と言うならば、口当たりの良い米国産コカコーラワインを拒絶さえすれば良いのだが、問題はそう簡単では無いのである。

先日記したボルドーワインは、2ユーロ以下では売らないと言うのもブランドを強化して零細農家を守る為である。グローバル化に伴って特に独産ワインが高級志向に尽力する必要があったのは過去何年間にも遡る。

ポルト、ボルドーやブルゴーニュなどと同様にドイツも多くの生産地表示でブランドが保護される。ドイツだけで約100件ほどの認証表示が米国でも設定されるというが、ベルリン政府は現在ある3500件から1500件ほどは認証として設定させたい意向で、その隔たりは大きい。

そして独高級ワイン市場では、現在も行われている酵母の種類や選定などささやかなノウハウも明らかにされて、消費者が認識出来るようにしなければならない。さもないと、大量生産の工業生産ワインとの差異が示されないからである。試飲で判断しろと言うのは酷過ぎるのである。毒を盛られても量を加減すれば、気が付かずに、慢性的にしかその効果が表れない様にである。

EU産ワインで禁止されている基準と米国産のバイオワインとの差もハッキリさせなければいけない。既に、自然条件の有利なイタリアワインは、米国式のステンレス内での木樽熟成方法(木っ端をステンレシタンク内に浮かべる)を近々公式に認めると言う噂である。

保護貿易や産業保護は得る事が無い必要悪であった。だから全廃が正しい。しかし廉価な商品の市場を拡大させる為には、効率を争い価格競争となり、実験室での研究や味の素の研究が加速される。実験室ワインもコカ・コーラワインも、美味ければ売れる。

ナパの米国ワイン協会の担当者は、ワイン市場の拡大を考えないで反対する欧州の見解を間抜けと言う。そうだろうか?市場の拡大は、ワイン生産者の経済的発展*とも反比例するのではないだろうか。遺伝子操作で出来た化け物葡萄を想像しても、このような化け物が大西洋の向こう側に居る事を考えると決して不思議ではないのである。

*経済的影響力は、ワイン生産力や売り上げの発展とは一切関係無い。


参照:
政治的棲み分けの土壌 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-09-22
市場でなく、自然に合わせろ [ ワイン ] / 2005-09-09
熟成ワイン窟のパラドックス [ ワイン ] / 2005-07-23
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廉く簡易な公共放送

2005-12-22 | マスメディア批評
TVを観る習慣はない。以前は有った興味が無くなった。新聞のTV欄が裏表紙から内側に隠されてから、番組表を見る事すら無くなった。それでも、偶々付けて、出くわすと消せなくなる番組が幾つかある。速報や報道関係を見てしまう事が多いが、それ以外にも幾つかの人気番組がある。

先ず挙げられるのは、バイエルン放送局の「芸術とガラクタ」でお宝拝見番組である。制作提携放送局のオーストリアを含めた各地で鑑定会を開く、その都度絵画から家具雑貨までテーマを決めて、会場に持って来てもらい無料で鑑定する。専門的な骨董品の美術史や価値判断も勉強になるが、その骨董品の数々に纏わる歴史が面白い。最も痛快なのは、蚤の市でかったガラクタが骨董品に化ける場合である。反対に、家宝が一瞬にして偽物や盗品らしき扱いになる事もあって諧謔が効いている。この番組の特徴は、鑑定会の予告と参加を募集をする以外のナレーションすら無く、司会などの枠組みも無く、鑑定会そのものを番組にしてある事である。公開中継番組の様でもあり、文化番組の様でもあり、娯楽番組の様でもある。

公共放送は、廉く制作する事も重要であるから、知恵も働く。同じくオーストリア放送協会とバイエルン放送共同の民謡を主体とした歌謡番組や一流歌手の登場する番組でも、動きながらの音声を拾う事が出来ない技術的限界がある。口パクパク以外の歌謡番組は、実況中継放送以外には殆んど無い。(見逃せないTV番組 第一話)
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BLOG散歩の例語集

2005-12-21 | SNS・BLOG研究
暫くご無沙汰していたBLOGサーチとTBを試みる。キーワードは、ハイデッカーとシラーとバウハウスなどで行った。

最後のバウハウスが最もヒット数が多い。ほんの一部しか観覧出来なかったが、相当数の商業サイトが含まれていて、そこではバウハウスがブランドの様に扱われている。先日話題にしたバウハウス校再開の講演では、殆んど優れた人材が生まれなかったと発言されているのでこの対照が面白い。この芸術運動は、今でも興業に多く関わっているらしい。

シラーは、思いがけなくオーストラリアの葡萄種として沢山ヒットする。ローヌの有名な赤ワイン種である。文豪のシラーは、ネッカー川沿いの生まれなので、赤ワインはトロリンガーのようなものを好んだのであろうか。後年、ヴァイマールのゲーテの家に出入りするようになってからはドイツ高級リースリングワインに加えてフランス高級ワインなどを開けて気炎を上げていたに違いない。

滑稽なのは、ハイデッカーのキーワードで出てくるのは何故かバスなのである。二階建てバスの事を言うのだろうか?デッキが高いのは、乗り降りが不自由なので否定的な意味でしかない。マンハイムのチンチン電車などは、道路から床下20CMもないので他所からの訪問者を感心させる。ロウデッカーこそ望まれる哲学なのである。

10月から12月までの間のコメンターリストをアップデートした。掲示場所の制限で完全リストアップとはならなかったが、辛うじて新たに四件を加えた。



参照:「常連コメンテーター」リストについて [ Weblog ] / 2005-01-24
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採れ取れリースリング

2005-12-20 | ワイン
2005年のワインを初めて試飲する。勿論、濁酒でなく、立派なワインである。リースリングキャビネットとヴァイスブルグンダーである。瓶詰め後一週間であるが、炭酸も綺麗に抜けていて落ち着いている。高級醸造所では、あまり早期に新酒を出すような事はしなかったので、取り分け新鮮なものを飲める貴重な経験である。

前者は、昨年の2004年ものをここ二ヶ月ほど愛飲していたのだが売り切れてしまい、仕方なく本年度物を二週間待って試した。結論から言うと、昨年の物よりも酸が強いが、採れ取れの新しい事もあって風味が抜群である。このような風味は、どちらかと言えば安物リースリングワインの特徴であるが、早めに飲み干すには何も文句は無い。二月も経たない内にこんなに立派になった葡萄が何とも愛しいのである。若過ぎるので酵母臭いと言うが、不快さは全く無い好い味である。そう言えば、鼻に抜けるアルコールが新酒の濁酒の匂いが僅かばかりする。

後者は、適当な酸味が新鮮さを強調していてとても飲み易い。ピノグリッジョ的な傾向があるので、パスタ類や魚類にも良さそうである。

本年の収穫は、6月の低温が響いて葡萄の粒が充分に大きくならなかった事と腐りから、収穫量が減ったと言う。昨年と同じ銘柄がその分10セントほど価格に加算されるらしい。つまり昨年のもので充分に満足出来たワインは、未だに売り切れていなければ買い貯めて置く方が徳かも知れない。僅かばかりの値上げであるが、価格と品質の両打撃は受けたくないのである。

品質は、丁寧に摘み取りをしている所は決して落ちていなくて、全般に酸味が若干高そうである。しかし昨年のグレープフルーツのような酸ではないので、苦味も無く快適である。そして、粒が小さい分、葡萄の粒が健康な限り風味が強く出そうである。だから高級ワインは、昨年より質が高くなりそうである。

なるほど、モーゼルの醸造所がアイスヴァインに賭けている事が納得出来た。元々プァルツとでは収穫量が違い少ない、温度も違い低くなる。つまり例年よりも収穫量が少ない分を、モーゼルの谷では、より付加価値の高いワインで勝負するのである。反対にこちらのプファルツでは、例年より収穫が少ない分、アイスヴァイン用の余剰が無いので、マイナス八度になるのを待つ危険を冒す醸造所は少ない。
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考えろ、それから書け

2005-12-19 | 
ベートーヴェンの合唱付き交響曲は、ニ短調交響曲とシラーの詩の為の楽曲の掛け合わせと言われている。長い構想期間に、声楽曲ミサソレムニスが先行して出来上がっている。晩年のピアノソナタやミサソレムニスに続いて完成された最後の交響曲は、既に古典的交響曲の枠を越えていると言われる。それは、1815年のヴィーン会議後の新絶対主義に対抗する作曲家のプロパガンダでもある。

冒頭の序奏から、主題の空虚・緊張度からして交響曲として尋常ではない、更に慣習を破って二楽章に置かれたあつかましいばかりのスケルツォ楽章。そして、耽美的で長大な緩徐楽章。そして至る所に非常に暴力的でオペラティックな楽想が見付かるとしても、ここまではその秀逸した形式感などで、交響楽としての構えを辛うじて保っている。 

そして合唱の付く四楽章で、この交響作家自身「吃驚ファンファーレ」と呼ぶ喧騒の後で前の三つ楽章を回想して、その低弦に対照させて「喜びの歌」が歌われる。そしてもう一度、聴衆の肝を抜かす。「こんな音では無い、もっと気持ちよく楽しくやろう」と叙唱の前口上で、「教養」あるヴィーンの聴衆の眉をひそめさせたに違いない。これほどまでに馬鹿にされると、怒って席を立って出ていってもおかしくは無いが、実際は如何だったのだろうか。皮算用された収益は上がらずに経済的には失敗と言われている。

こうして、この作曲家は、このとんでもない四楽章で自立した絶対音楽の世界を一旦完膚無きにまでに打ち砕き、其れによって演奏会と音楽の世界を完結したものに見せかけるという「巧妙なレトリックを使っている」と指摘するのはアドルノである。自己と大衆と言うシラーの本来のテクストの分け方が、独唱と合唱になっているが、群集の合唱の扱い方などはミサソレムニスだけでなくオペラ「フィデリオ」等の扱いとも比較してみたい。

こうして見ると途中に出てくるトルコ行進曲も、対照として充分な効果を挙げている。この曲が「EUの歌」である事も決して偶然ではないのである。兄弟愛を謳い上げる時、必ずやその背反している現象が存在しており、ナポレオンへの賛美や失望を第三交響曲で表明したベートーヴェンの強かさに西欧の其れを見ても間違いではない。

2001年にヴィーンで行われた青少年の音楽会の前のレクチャーの原稿を覗くと、ヴァーグナーが1848年のドイツ三月革命の年にバリケードに囲まれてこの曲を演奏したとある。平民の強情さのようなスケルツォに対して、この革命家楽匠は「歓喜へ至る、強き敵へ向けられた誇り高き戦い」と呼んでいる。

更に、「目覚めよ百万人の人々」と、ベートヴェンが切り捨てたカントの影響を受けたシラーのテキストの部分を挙げて、それを1927年の赤旗新聞に寄稿するのはマルキストの作曲家アイスラーで、そこで世界革命に向けてプロレタリアートの連帯を呼びかけているらしい。

こうした被害はベートーヴェン自らが招いたものであるだけでなく、現在の美学的な状況にも責任を負っている。そして後期の作品群では、作曲技法のフーガ等も「あっちへこっちへの 形 式 」となって、100年後の音楽にまで影響を与える。少なくとも19・20世紀の音楽産業は、この作曲家の力によって成り立って来た。如何にヘンデルがエンターテェイメント先進国の英語圏で既に大成功していたとしてもである。しかし最近は、商業面に置いては依然影響力があるものの様々な理由から、この作曲家が徐々に疎まれて来ているのも事実であろう。

シラーに戻れば戯曲「群盗」も作曲家ヴェルディーによってオペラ化されている。ロンドンのロイヤルコヴェントガーデンオペラでの初演は、1847年当時の政局の安定した英国では検閲を受ける事も無く王室の臨席で平穏無事に迎えられた。しかし、芝居の盛んなロンドンでは原作に比べた物足りなさもあったようだ。

ゲーテに言わせると「イタリアのロマンティシスモは現実的であって生き生きとした現実に訴えかける」とあり、既に後年のヴェリズモの現実主義の芸術運動を示唆している。ハイデッカーが暗示するシラー以降の流れは、ドイツ語圏特有の現象なのだろうか?

ハイデッカーは、その講座でシラーの政治的な発言や部分的な見解には目もくれずに、難解な節を欄外の注意書きと共に、デュラーの兎やコンラッド・フェルディナンド・マイヤーの詩を、形式や美学的特筆の独自の例として挙げて、「読まずに考えろ、それから書け」と学生に教えたらしい。(シラーの歓喜に寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-12-18 より続く)



参照:
バロックオペラのジェンダー [ 音 ] / 2005-02-20
再生旧市街地の意義 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-11-20
遥かなるラ・マルセエーズ [ 生活・暦 ] / 2005-11-14
麻薬の陶酔と暴徒の扇動 [ 生活・暦 ] / 2005-11-02
行進しても喉が渇かない [ 生活・暦 ] / 2005-04-25
ハムバッハー・フェスト /Das Hambacher-Fest [ 文学・思想 ] / 2004-11-14
敬語の形式 [ 文学・思想 ] / 2005-01-27
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シラーの歓喜に寄せて

2005-12-18 | 文学・思想
シラーイヤーを記念して多くの出版があった。シラーに関しては、ウイリアム・テルを近々観にいければ良いと思うが叶うだろうか。ベートーヴェンの合唱付き交響曲はシラーの詩に作曲されている。その「喜びの歌」はEUの歌にもなっており、そのメロディーは世界的に有名である。

哲学者マルティン・ハイデッカーは、1936年フライブルクにおいて、老人講座を持っていた。フリードリッヒ・シラーの「情操教育に関する手紙」に関しての初心者講座であった。今回、その講座を聴講していたフライブルクの老医師のノートを基に、哲学者オード・マルカドがこの講座について纏めた研究書がシラー財団から出版された。

そこでハイデッカーは、シラーの「群盗」を講義していた事が判っている。この戯曲は、シラーの出世作で、1781年にマンハイムのナショナル・テアターで大成功した。キャラクターの全く違う兄弟を通して、特に盗賊の首領となるアウトサイダーの兄の理想主義を通して、舞台が進む。体制社会に住む陰謀に長けた利己的な弟との骨肉の争いを軸に、兄が盗賊組織の仲間の為に故郷の恋人を刺す物語である。

ハイデッカーは、1795年のシラーの手紙がフランス革命批判でありながら、ドイツに対する対処案は持っておらず、芸術へや同時代や政治に関してやヘルダリンへの思索から断絶の試みであったと言う。

哲学者へーゲルによる「芸術はもはや我々の実存の真実や目的に直裁に結ばれているのではない」と言う前提をもって、ハイデッカーはシラーを読んで行く。カント研究家でもあったシラーの「素材と形態」と言う美学は、ジャコバン派のような「徳の独裁」を経ること無く、君主を筆頭とする階級社会を基礎とする自然国家が理性的な国家によって置き換えられていくとする課題に読み変えられるようである。そしてシラーがそこに可能性を求めたのが、教養であって教育を受けた性格であったのだ。それらは、自らの主義主張への感情を抑制して、各々のそれを押さえつける事無く営われる社会を可能とする。

情操教育がこれを可能にするのは、芸術の受容はその芸術的な雰囲気というものが衝動と規則、愛着と義務、直感と思索の矛盾を知らないと考えるからである。これは、「疾風怒涛」の芸術運動を過ごした作家シラーらしい言葉でもあるが、具体的にはフンボルト大学やギムナジウムを指すらしい。

このようなシラーの理想主義に対して、ハイデッカーは、「シラーにおいては、美学は状態ではなくて、またもや現実逃避ではなくて現実成就を意味する。」と定義する。そして、技術文明における余暇のつまらない代償的な芸術の機能とこの有名詩人の予言への批判との間でシラーの「教育の方法」を認識して行く。そして、講座の最後になって初めて、予想通り、シラーの理性への固執が自由主義と虚無主義を導いたと結論付けたとされる。

ここで何も戯曲作品の「群盗」や「ドン・カルロ」、「ウイリアム・テル」を詳しく調べるまでもなく、シラーをゲーテよりも評価していたというベートーヴェンの1824年に初演された第九交響曲を調べると、このドイツ啓蒙主義の流れが具体的に解かるかもしれない。(考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19 へと続く)



参照:
開かれた平凡な日常に [ 文学・思想 ] / 2005-12-30
2005年シラー・イヤーに寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-01-17
平均化とエリートの逆襲 [ 文学・思想 ] / 2005-11-06
吐き気を催させる教養と常識 [文化一般] / 2005-08-18
死んだマンと近代文明 [ 文学・思想 ] / 2005-08-14
トンカツの色の明暗 [文化一般] / 2005-07-11
エゴの覚醒と弁証の喧騒 [アウトドーア・環境]/2005-08-19
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見落とした年間リリーズ

2005-12-17 | 文化一般
年末になると今年のベストチョイスが各々の新聞紙上を騒がす。以前は、各新聞を覗く好奇心があったが、其々の傾向が判ると特別にその必要も無くなった。

これらのリストを参考に特別に購入しようは思わないが、二桁に近い評論家諸氏が項目別に数点選んだピックアップリストに、ひょっとすると本年中のリリースから見落とした掘り出し物が見付かるかもしれない。

ベスト書物では、マルティン・モーゼバッハの「ハッキリと観念を持つべし」若しくは「振動」とかウルリッヒ・ヴァインツィェルルの「ホフマンスタール-肖像へのスケッチ」は批評を読んで見ないといけない。マルティン・ヴァルンケの「バラスケス」、アンリ・マティスの「形、色、空間」やクラカウワーの「映画のセオリー」新版やユルゲン・シュライバーの「ゲルハルト・リヒター」も気になる。

英語の書物では、カズオ・イシグロの「Never Let Me Go」やマルガリータ・カッポックの「フランシス・ベーコン」、イタリア語の書物ではサルヴァトーレ・セッティスの「古典の未来」だろうか。

DVDでは、FIFAの100年からクリフ、プラトーニ、ジーコ、ルメニッジェら名選手の対ドイツ戦の映像が面白そうだ。ラルス・フォン・トリアーの「亡霊I・II」も良さそうである。

CDでは、「黄金のアフリカ」と題された七十年代のアフリカンポップス集、ジョージコンラディの「美しく、貞節なアリアドネ」、ヴォーン・ウイリアムス交響曲全集、バッハ周辺のラメント集、ウォルペやイザーイの曲等の録音を初めて知る。
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