伏見城址にあったのは

2024-03-28 00:00:00 | 歴史
豊臣秀吉によって建てられた伏見城は江戸時代の初期に廃城となり、現在は立派ではあるが主がいなくなった模擬天守として中途半端なことになっている。しかし、伏見城の中枢というか本丸や天守閣は近隣の別の場所にあったとされる。

急に行くことになったので、スマホで来歴を調べても土地勘もないし、頭に入らない。そのうちJRの桃山駅についたので、歩き始めることにした。



が、どうも道が立派過ぎる。廃城に続く道とは思えない。地図を見ると伏見桃山陵となっている。伏見桃山城と見間違えたようだが、とりあえず、この立派な道を歩いてみることにする。ただ、アスファルトではなく細石舗装。そして、思いもかけないことに道は遠くまで続く。少し怖くなる。

そして、ついに目的物があらわれる。明治天皇陵だった。



特に解説が書かれているわけではなく、大きな柵の先に鳥居があって、さらに先に柵があり、その先に古墳状の墓が見える。

さらに奥に皇后陵もあるようだが、残念ながら体力の限界に近付いている。万歩計はまもなく2万歩。

今来た道を90%戻ってから伏見城を目指したのだが、途中で道が分かれていて、桓武天皇柏原陵があると書かれている。



明治天皇は生涯の大部分は東京にいたので、京都に陵があるのは意外だが、桓武天皇は、平安京=京都を首都に決めたいわばキング・オブ・キョウト。それにしては明治天皇陵よりもかなり小さい感じだ。違和感は後の調べに任せることとし、関東に戻ることとした。

そして、今、この文を書きながら調べていると、今回の天皇陵には曰くがあることがわかった。まず、桓武天皇陵だが陵地全体の面積は65,154㎡。明治天皇陵は皇后陵と合わせて804,920㎡ということで12倍。

しかし、平安時代の記録によれば桓武天皇陵は伏見の山に縦横11町(1200m)あったとされ、面積は1,440,000㎡と明治天皇陵の1.8倍。その中のどこに埋葬されたかは、現代では特定されない。というのもその場所に秀吉が城を築いたからだ。

つまり桓武天皇陵の上に秀吉が城を建て、その場所に明治天皇陵ができ、桓武天皇の陵は隣接地に移され、その隣に鉄筋コンクリートの模擬城が建った。

その広大な桓武天皇陵だが遺言により伏見と決められたのだが、子の平城天皇は京都の北にしようとしたが、上賀茂神社の猛反対にあって遺言通りの場所になったそうだ。


ついでに調べたのだが大正天皇、昭和天皇の眠る武蔵野御陵だが、460,000㎡。その中に大正天皇、皇后、昭和天皇、皇后が眠っている。墓地そのものは天皇が2,500㎡、皇后が1,800㎡で独立している。現在の上皇は、縮小化ということで皇后との間に森を置いたりせず、隣接して並べることを決めている。また土葬ではなく火葬ということも決められているそうだ。火葬にするのは別の意味もあるのかなと思っていたが、御陵が手狭にならないようにということのようだ。