読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『竜馬がゆく』

2010年01月08日 | 作家サ行
司馬遼太郎『竜馬がゆく』(一、二)(文春文庫)

今年のNHKの大河ドラマは『龍馬伝』ということで、ご他聞にもれず、私も龍馬である。龍馬といえば、司馬遼太郎のこの小説の右に出るものはないだろう。ずっと避けてきていたが(龍馬も司馬遼太郎も)、潮時だろうとということで、図書館に行ったら、ちょうど一巻と二巻が並んで返却コーナーで私を待っていた。年末に借りたので、正月をはさんで、けっこう長期に借りられる。

もっとも密な文章かと思ったら、すかすか。しかし言葉というものがもつ力は、字数ではないということを司馬遼太郎の文章が示している。実際の龍馬から逸脱しているとか、史実に忠実ではないとか、専門家から言わせれば、いろいろ言いたいことがあるだろうが、この小説の持つイメージ喚起力はすばらしい。あっという間に龍馬の世界に引き込まれた。

ただ、龍馬のような偉大な人物を書くときのつねで、とにかく、大器晩成の龍馬の素質を早くから見込んでいたとか、龍馬の非凡さに早くから気づいていたというような表現が何度も出てくるのはやはりいただけない。そういうことを書けば書くほど、そんなことどうでも言えると思ってしまうからだ。

まだ2巻で、水原播磨介を助けて東海道の道中を一緒にしたことから、はっきりと態度を決めていなかった龍馬がやっと尊皇攘夷的な方向へ一歩を進みだして、外国の実体を知りたいと思うようになり、外国事情に詳しい土佐の蘭学者や画家のところへ出かけていって耳学問をするところまできたところだが、たぶんわざとだろうが、龍馬をどうしたいのか宙ぶらりんの状態にしておいた、というか、司馬遼太郎が決めかねていたようなところがある。

『篤姫』で薩摩藩の同じ時期の事情は分かっていたから、この小説を読んで、土佐藩の事情はずいぶんちがうのだということが分かって面白かった。じつはちょうど『龍馬伝』の第一回目を見て、なぜまるで町民が侍にへいつくするように、上士の前で龍馬たち下士が土下座したりするのか不思議だったが、長曾我部の国だったところに関が原で勝利した徳川家康が家臣の山内一豊を送り込んできたことから、彼の家臣が上士、長曾我部の家臣だったものたちが下士となって、厳格な身分差別が作られたという説明があって面白い。

まぁ『篤姫』でもそうだったが、歴史的事実そのままにはドラマはできていない。それにたいして目くじらをたてる必要はないだろうが、上記のような土佐藩の違いというのは、龍馬が脱藩するという方向に進むことになった決定的な事情だろうから、ドラマでも丁寧に描いておくほうがよかったと思うのだが。それに龍馬の家は土佐藩の下士のなかでは一二をあらそう分限者であり、司馬遼太郎によれば家老の家が正月には挨拶に出向いたというから、身分の上ではたしかに下士で藩政に口出しできるような身分ではないにしても、藩の上層部とこれだけのパイプがあるようには、ドラマでは描かれていないのは、ちょっと違うんじゃないのと思う。

龍馬の母親が上士の屋敷に連れて行かれた龍馬を助けに行って、許しを請うたことで、上士が面倒になって許してやれと言う場面が出てくるが、上のような事情が分かっていれば、あれがもし事実としても、この上士が龍馬の母親を放免したのは、彼女の家が家老と太いパイプをもっていたからだろうと予想がつく。

まぁあんなこんなで、何も知らないでドラマを見るよりも、司馬遼太郎を読んでから見るほうが、何倍も面白くなりそうだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする