ワンダースター★航星記

写真を撮るとは、決して止まらない時間を止めること。旅や日常生活のインプレッシブな出来事を綴ったフォトエッセイ集です。

三谷幸喜殿 「真田丸」にて平野事、たのみ申候。

2016-01-24 | 平野探訪
三谷幸喜殿 「真田丸」にて平野事、たのみ申候。

               

                

NHK大河ドラマ「真田丸」が高視聴率を上げ、好調に推移している。
真田幸村という、日本人好みの武将三傑(源義経、楠木正成)の一人を取り上げたこともあろうが、史実を忠実に描きながらも、時代を生きた人々の息遣いが聞こえてくるような三谷さんの脚本に拠るところが大きいと思われる。

                

 平野区は大坂の陣において、信繁(幸村)率いる真田軍が行き来した地域であり、足跡や様々な伝説が残されている。
 志紀長吉神社は信繁(幸村)が道明寺より大阪城へ戻る途中、戦勝を祈願し、六文銭の軍旗と刀剣を奉納した神社として知られている。

               

               

               

 神社の周囲や境内には六文銭の旗がずらりと並んで、さながら、赤備えの社の様相を呈している。

               

               

 こちらが、志紀長吉神社版の信繁(幸村)のマスコットキャラ。

               

 神社の近くには疲労困憊した信繁(幸村)軍がここで休憩したという碑がある。

               

               

 また、平野公園に隣接した樋之尻口地蔵堂にも信繁(幸村)と徳川家康の伝説が残されている。

               

               

               
 
 信繁(幸村)は家康がこの地蔵堂で休憩することを予測して地雷を仕掛けた。
 予測どおり、家康はここにて休憩したものの、たまたま、便意をもよおして、場を離れたがために難を逃れたというもの。
 このときの爆発で地蔵堂は吹っ飛び地蔵の首だけが、100mほどさきの全興寺まで飛んでいったという。
 お寺には、その「首地蔵」が安置されている。
 地蔵さんが無傷なのは、時の和尚が、飛んできた地蔵の首をダイレクトキャッチしたからだとか。

               

               

 「首地蔵」が家康の爆死を暗示してはいないか。(それは考えすぎか)

               

 近くの願正寺には徳川秀忠の家臣、安藤正次の「岩突きの槍」が残されていたりと、近辺が戦場であったことを覗える。

 今、平野区では固唾を呑んで、「真田丸」の成り行きを見守っている。
 そして、官民こぞって、わが町が国民的ドラマで取り上げられることを望んでいる。

 そこで、冒頭のタイトルだ。
 クライマックスの脚本は既にお決まりでしょうが・・・
 三谷幸喜殿 「真田丸」にて平野事、たのみ申候。


               

               

               

 <追伸>

 秀吉の遺言状に・・・
 「返々、秀より事、たのみ申候。五人のしゅ、たのみ申候。いさい五人の物に申しわたし候。
なごりおしく候  太閤」とある。
 太閤といえども、人の親。
 よほど心配だったとみえるが、五人のしゅの一人、家康に滅ぼされるとは、哀れなことだ。
 歴史にIFはないとは云われるが、もし、茶臼山の戦いで追い詰められた家康が自害していたら、歴史はどうなっていたのだろう?
 信繁(幸村)には、六文銭のイメージが強過ぎるが、実は敗軍の将などになるつもりではなかった。
 本当に家康の首を掻っ切って、英雄になるつもりでいた。そんな気がする。
 
 
 ある年配の住民の方が先ごろ、「幸村で平野を盛り上げよう」と赤備えの甲冑をダンボールで作った。

 信繁(幸村)と平野郷の住民には智謀に長けたところが似かよっている。
 「返々、平野事、たのみ申候。」


               

               


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