「思弁」で新明解国語辞典を引くと、「実証・経験によらず、頭の中だけで論理的に自分の考えを組み立てること」とあります。これが一般的理解でしょう。
さて問題は、こういう意味での思弁は実在するのか、です。観念論者は「実在する」と答え、唯物論者は否定するでしょう。それなのに、自称唯物論者でも相手の意見を評して「それは頭の中から考えだした観念論だ」といったことを言う人が結構いるということです。唯物論は、「人間の考えは全て経験的基礎ないし由来を持つ」と主張するものです。「頭の中から考えだした観念論」という言葉が「経験的基礎を持たない」という意味なら、そういう物を認めると唯物論ではなくなります。
マルクスとエンゲルスの「ドイツ・イデオロギー」という書名の「イデオロギー」とは「自分の思想を社会的経済的基礎から独立していると『思い込んでいる』思想」のことです。自己認識を問題にしているのです。
なお、観念論と観念との違いは別の問題です。これまで論ずると面倒ですので、今回はここまでにします。
「参考」では「ヘーゲルの思弁概念」に関係したものを集めました。
参考
01、弁証法的なもの〔否定的に理性的なもの〕の中に対立物の統一をつかみ、否定的なものの中に肯定的なものをつかむ。これが思弁的なものの本質である。(大論理学第1巻38頁)
02、思弁的思考の本質は、対立した契機をその統一において捉えることである。(大論理学第1巻142頁)
03、思弁哲学の観念論は全体性の原理を持っており、それは抽象的悟性の一面性を超えて行くものである。(小論理学32節への付録)
04、思弁的なもの、即ち肯定的に理性的なものとは、対立した諸規定の統一を捉えるものであり、それらの規定の解消と移行の中にある肯定的なものである。(小論理学82節)
05、思弁的なものとは、一般に、理性的なもの〔肯定的に理性的なもの〕が思考された限りでのものである。(小論理学82節への付録)
06、思弁的な内容は一面的な1命題の中では表現できない(小論理学82節への付録)
07、思弁的構成〔ヘーゲル哲学の方法〕にとって主たる関心は「どこから」と「どこへ」である。「どこから」とはまさに「概念の必然性、その証明及び演繹」(ヘーゲル)である。「どこへ」とは「思弁的円環の個々の環をどれでも、方法によって入魂されたものとし、同時に新しい環の始まりとする」規定である。(マルエン全集第2巻23頁)
08、思弁的構成の秘密(マルクス「神聖家族」)の要旨
① 現実のリンゴ、ナシ、……から「果物」という普遍的な観念を作る。
② その観念が私の外に実在すると考えるなら、その「果物」をリンゴ、ナシ、……の実体とすることになる。
③ リンゴ、ナシ、……は「果物」の様態になる。
④ 現実のリンゴ、ナシ、……を「果物」から導出するために、「果物」は死んだ実体ではなく、生きた主体である、と言う。
⑤ 残る問題は、この導出における必然的な進行である。「このような操作が思弁的な言い回しでは、実体を主体として、又内的過程として、又絶対的人格として理解することと言われている。こういう理解の仕方がヘーゲルの方法の本質的な性格をなしているのである」。(マルエン全集第2巻60-2頁)
感想・このように批判しても、ヘーゲル哲学の現実的意味は出てこないでしょう。私見は「昭和元禄と哲学」にまとめました。
09、元来、「思弁」を意味する Spekulation または Spekulatio は、Speculum (鏡)と同じく Specuto(見る)に由来しており、普通、哲学上では、経験、観察、実証、などに対立する冥想や思索を意味するが、しかしヘーゲルは、この言葉を主観的用法から解放して、もっと客観的な意味に純化し、あらゆる対立の根底にある全体、したがってまた、それらの対立を自分のうちに含んだ全体を見ること、つまり、現実そのものにおいて神を見るという意味に理解しているようである。(許萬元「ヘーゲル弁証法の本質」34頁)
関連項目
イデオロギー
さて問題は、こういう意味での思弁は実在するのか、です。観念論者は「実在する」と答え、唯物論者は否定するでしょう。それなのに、自称唯物論者でも相手の意見を評して「それは頭の中から考えだした観念論だ」といったことを言う人が結構いるということです。唯物論は、「人間の考えは全て経験的基礎ないし由来を持つ」と主張するものです。「頭の中から考えだした観念論」という言葉が「経験的基礎を持たない」という意味なら、そういう物を認めると唯物論ではなくなります。
マルクスとエンゲルスの「ドイツ・イデオロギー」という書名の「イデオロギー」とは「自分の思想を社会的経済的基礎から独立していると『思い込んでいる』思想」のことです。自己認識を問題にしているのです。
なお、観念論と観念との違いは別の問題です。これまで論ずると面倒ですので、今回はここまでにします。
「参考」では「ヘーゲルの思弁概念」に関係したものを集めました。
参考
01、弁証法的なもの〔否定的に理性的なもの〕の中に対立物の統一をつかみ、否定的なものの中に肯定的なものをつかむ。これが思弁的なものの本質である。(大論理学第1巻38頁)
02、思弁的思考の本質は、対立した契機をその統一において捉えることである。(大論理学第1巻142頁)
03、思弁哲学の観念論は全体性の原理を持っており、それは抽象的悟性の一面性を超えて行くものである。(小論理学32節への付録)
04、思弁的なもの、即ち肯定的に理性的なものとは、対立した諸規定の統一を捉えるものであり、それらの規定の解消と移行の中にある肯定的なものである。(小論理学82節)
05、思弁的なものとは、一般に、理性的なもの〔肯定的に理性的なもの〕が思考された限りでのものである。(小論理学82節への付録)
06、思弁的な内容は一面的な1命題の中では表現できない(小論理学82節への付録)
07、思弁的構成〔ヘーゲル哲学の方法〕にとって主たる関心は「どこから」と「どこへ」である。「どこから」とはまさに「概念の必然性、その証明及び演繹」(ヘーゲル)である。「どこへ」とは「思弁的円環の個々の環をどれでも、方法によって入魂されたものとし、同時に新しい環の始まりとする」規定である。(マルエン全集第2巻23頁)
08、思弁的構成の秘密(マルクス「神聖家族」)の要旨
① 現実のリンゴ、ナシ、……から「果物」という普遍的な観念を作る。
② その観念が私の外に実在すると考えるなら、その「果物」をリンゴ、ナシ、……の実体とすることになる。
③ リンゴ、ナシ、……は「果物」の様態になる。
④ 現実のリンゴ、ナシ、……を「果物」から導出するために、「果物」は死んだ実体ではなく、生きた主体である、と言う。
⑤ 残る問題は、この導出における必然的な進行である。「このような操作が思弁的な言い回しでは、実体を主体として、又内的過程として、又絶対的人格として理解することと言われている。こういう理解の仕方がヘーゲルの方法の本質的な性格をなしているのである」。(マルエン全集第2巻60-2頁)
感想・このように批判しても、ヘーゲル哲学の現実的意味は出てこないでしょう。私見は「昭和元禄と哲学」にまとめました。
09、元来、「思弁」を意味する Spekulation または Spekulatio は、Speculum (鏡)と同じく Specuto(見る)に由来しており、普通、哲学上では、経験、観察、実証、などに対立する冥想や思索を意味するが、しかしヘーゲルは、この言葉を主観的用法から解放して、もっと客観的な意味に純化し、あらゆる対立の根底にある全体、したがってまた、それらの対立を自分のうちに含んだ全体を見ること、つまり、現実そのものにおいて神を見るという意味に理解しているようである。(許萬元「ヘーゲル弁証法の本質」34頁)
関連項目
イデオロギー